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「幸福に依存しない」日記|小野寺

人の「幸福な話」、まじで誰が聞いて読みたいねん、といつも思う。そういうものは、私からすると全然、ちっとも、面白くない。

幸せであること、それを発信すること自体は、実生活において当たり前に素敵なんだけれど。それを文章にして「幸福なんだね、良かったね」と受け取れるのはさすがに見知った人が限界である。そもそもおそらく「いかに幸せか」話をしたい人は、そう広い範囲に届けたいとも思っていないだろうし。見知った人、その円のもうひとまわり外周くらいまでを射程圏内にしている気がする(そもそもここまで考えていないのであれば私とは流儀が違うので、それはそれでいいです)。

私は幸福と不幸どちらも滲んでいる文章が好きだし、人間は常にどちらの状態でもある、それを文章にするべきだと思うので、書く。
ずっと幸福だけ書くということは、不幸を書かない、ということである。
私たちの人生には自分が幸福だった分だけ、確実に不幸がある。頭が悪いから、目が見えないから、気づかずに笑っていられる。等価交換の世の中、時間だけは平等にあれど、人は決して平等ではない。できないこと、できること、したいのにできないこと、したくないのにできること。自分と喧嘩してまで他人に優しくしてるのに、いっこうに開かない何かのドアをいつも叩いている。
幸福だけ語るのは、これら、捨てられない自分の醜さや、世界の理不尽を語らないことと同義だ。そういう文章を、少なくとも私が書くのは違う。

ここまで書いておいてなんだが、私は幸せものである。文章を書く、というやりたいことができているので。それに、心の中には希望の炎がいつも燃えている。
それでも、その炎の始まり、それは間違いなく、家族、友達、私を取り巻く世界の全てを勝手に擦って消耗して発火させた。
私が笑う裏側で、珠洲市や花蓮、ウクライナ、そのほか多くの地域で涙が流れる。

誰も幸せでいるな、という話ではない。
それでも、幸せでいることだけが人生の全てかと問われたら、絶対にそんなことはない。幸福と不幸はいつも隣り合わせにある。
青々と太陽を浴びる葉の裏側にビッシリと卵がついていること、私たちはすぐに忘れてしまう。特に切り取った情報だけ浴びて成長していく世代は、幸せでいることが最上だと勘違いしてしまう。幸福だけが人生ではない。不幸だけが人生でもないが。これからも私は、幸福と不幸について考えて、どちらの状態にも依存せずに生きていきたい。

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