自分探しなどやめて、その場に居合わせよう
最近は苦手な会合に出たり苦手な人に会ったりすることを「フィールドワーク」と呼んでいる。僕はあくまでも文化人類学者で、こいつらは研究対象たる異民族なのだ。そう思うと、お世辞も謎のマナーもエキゾチックだ。
これは文化人類学者にも本当の異民族にも失礼かもしれない。
本題に入る。
「自分にしかできないこと」をやることが充実感につながるのではないかと考えている。でも、そんなことを簡単に見つけられるほどの能力を持っている人は少ない。だいたいの人は代替可能である。
では、「自分にしかできないこと」などないのか?あるいは少なくとも、それはまともに議論するに値しない僥倖なのか?
いや、違うのではないか。と最近思った。
例えば、散歩しているとき。
突然、何やら不安そうな人に話しかけられる。駅までの道を聞かれる。道を教える。
これは「自分にしかできないこと」である。
僕より道に詳しい人はたくさんいる。僕より首尾よく説明できる人はたくさんいる。
でも、そのときその人に道を教えてあげられるのは僕だけだったのだ。
グレーバーの「基盤的コミュニズム」という言葉を考える。
まずコミュニズムの原理とは、「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」である。
そして基盤的コミュニズムとは、あらゆる社会において基盤となっているコミュニズムのことである。もちろん日本にもある。
コミュニズムは日本語でいうと共産主義である。日本社会の基盤に共産主義があるなどといえば笑われそうだが、それは誤解である。
基盤的コミュニズムは、我々が「共産主義」と聞いて想像するようなものではない。
食事中、「塩をとって」と言われたら、とってあげるだろう。そこに対価を求める人はいない。
ただ、かたや塩を必要とする人がいて、かたや塩に手が届く人がいる。塩に手が届く人は対価を求めずに「能力」を使い、塩を「必要」とする人のニーズを満たす。
これが「基盤的コミュニズム」である。
たしかにこれは日本社会にもありそうだ。
これは程度の差こそあれ、あらゆる社会で認められる、とグレーバーは指摘している。
さて、先ほどの「道を教えること」も基盤的コミュニズムである。
コミュニズムの原理は「各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて」だが、ここでいう「能力」とは何か?
解答1:駅までの道を知っていること
確かに間違いではないが、これでは不十分である。先ほども言ったように、僕より詳しく教えられる人はたくさんいるのだ。でも、そのときその人を助けられたのは僕だけだった。
解答2:その場に居合わせて、かつ、駅までの道を知っていたこと
これが「能力」の内実ではないだろうか。
たぶん我々は「その場に居合わせること」の重要性を軽視している。
アイデンティティや特別な才能などいらない。誰かとともにその場にいるだけで、その人にとっての特別な存在になりうるのである。
さあ、自分探しなどやめて、たくさんの「その場」に居合わせよう。
(「その場に居合わせること」については、もっといろいろ応用できそうだ)
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