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『自己肯定感が低い私』と『どこか自信のある私』が両立していた訳。

『ネガティブ思考』『自己肯定感激低人間』というのが、私が自分を形容しようとするときにいつも思うワードである。

私はネガティブに思考が走りがちだし、とても落ち込みやすい。自分に出来ることなんて何もないと思っているし、自分を求めてくれる場所なんてないだろうと思っている。

けれど母が時折私に言うのだ。

「自信が全く無いわけじゃ無いんよねぇ」

それは私自身もなんとなく気付いていた。超絶ネガティブ思考の自己肯定感が激低な私だけれど、自信が皆無かと言われるとそうでは無い気がする。なんとなく自信がある部分を持っているような気もするんだけど、それが何でどの部分なのかは分からない。

そもそも『自己肯定感が低い私』と『どこか自信のある私』って、両方があって成り立つのか?とずっと疑問だった。


その疑問の答えが、最近とてもクリアに出せた。始まりはこの記事を書いたときに母と話をした時だ。

この時に「好き」を仕事にしなくてもいいという話をしつつ、互いの勉強の仕方などについても話をした。母は英語を長く勉強していて、私も韓国語を勉強しているので互いに語学の勉強についてはよく話をする。

その中で、母は『試験向き』であるのに対し、私はそうでないことが明らかになった。

母はどちらかというと効率よく勉強をするタイプ。母と話した時に出てきたイメージを使うと、ジグソーパズルの外枠から作るタイプである。大まかな全体像を掴んで、必要な部分を勉強していくことができる。

対して私は、1個1個両隣や上下のピースを探して積み上げていくタイプ。分からないものを調べ、全てを理解してからでないと次には進めない。もの凄く時間がかかり、労力もかかる。なので基本的に試験には向かない。

それぞれ良い点・悪い点はある。母からすれば、試験には受かるが定着率が悪いのが悩みらしい。逆に私は、試験には間に合わないけれど定着はしているので、長い目で見ればその方が良いのだそうだ。

これは勉強に限ったことでは無く、趣味などでも恐らくそうなので、勉強の仕方というよりは物事の進め方・捉え方と思ってもらった方が良いかもしれない。


この話が先ほどの『自己肯定感が低い私』と『どこか自信のある私』が両立していた理由とどう繋がるのか。

このジグソーパズル、組み立て終わっている部分=私が習得したもの(知識等)だ。勉強をして蓄積した知識=組み立て終わったピースは間違いなく”有る”。けれど私はパズルの全体を見て、ピースがはまっていない空白の部分に意識が向いてしまうのだ。

”こんなにも出来ていない部分がある”と考えてしまうのが『自己肯定感の低い私』なのである。

誰かから褒められたりした場合もそうだ。例えば「サランさん、韓国語できるんですよね!すごい!」と言われた時も、この空白の部分に目が行き「いいえ、私なんてまだ全然出来ませんよ」と言ってしまう。

もし出来ると言ってしまったら、後々この空白部分が露呈するかもしれないい。バレたら「何だホントは出来ないんじゃん」なんて幻滅されるかもしれないとさえ思う。

反対に『どこか自信のある私』はどこにいるのか。それは正に組み立て終わったピースの側にいるのだ。時間をかけて積み上げて勉強してきたこと、実際にその力を使えた経験、出してきた結果。そういうものの中には、やってきたことへの自信を持つ私がいる。

こうして『自己肯定感が低い私』と『どこか自信のある私』は両立していたわけである。


自分の心の中での葛藤というのだろうか。外には自信が無いように見せて(言って)おきながら、心の中では自信を持った自分がいる。こういうチグハグな状態にずっと疑問を持っていた。

自信があるなら「出来る」と言えたらいいのに。どうして自信が無いと言っておきながら、心の中にはチクチクと刺すような感情があるんだろう。外に嘘をついているのか、自分に嘘をついているのか。

結局は両方の自分が存在していて、両者は自分の中にあるパズルのピースを見ているのか、空白部分を見ているかの違いだった。どちらの感情にも間違いはなかったわけだ。

嘘をついているわけでは無いけれど、すでに組み立て終わったピースの部分に関しては、きちんと自分で認めてあげる必要があると思っている。そこに”有る”ものを”無い”としてしまったら、これまでの努力や時間が無かったものになってしまう。私が積み上げてきたものは、ちゃんとそこにある。それは今後私が認めてあげられるように努力をしなければいけない。


これに関連して思ったのは、私はパズルが完成するまでは恐らく自信を持って「出来る」とは言えないタイプである。それに出来ていない箇所が見つかると、そこを埋めなければ次には進めない。

度々この記事を出すのだけれど、「好きを仕事にする」ということの私なりのイメージは、出来上がったパズル(100%完成した状態)をピラミッドのようにどんどん上に積んでいくようなものだと思っている。

多分60〜70%の完成度で積んでいくのが良いのだろうけれど、私の場合は未完成のままでは進めないタイプなので、60〜70%の完成度のものを使って新しいことをするというのが恐らく向かない。埋まっていない空白の部分がどうしても気になるからだ。

お察しの方もいると思うが、”100%の状態になる”ということは殆どのことでありえないことだ。英語やその他の言語を100%理解するなんてことは絶対に無理。それは分野が違っても同じだと思う。何かを100%理解することは不可能だ。日々新しいものが生まれては消えていくのだから。

100%の状態で完成したパズルを基礎に、新しいことを始めるというのは不可能なこと。だけど私は未完成なものを基礎には出来ない。結局は私はそのもの自体と向き合い続けて、追いかけ続けていくしかない。そちらの方が私には向いているということだと思う。

その対象と日々向き合って、新しいものと毎日対面して。そうしてパズルのピースを一つ一つ見つけて、当てはめていくことが楽しいのだ。私の「好き」はそこから生まれる。「好き」を仕事にしなくても、「好き」は「好き」のままずっと進んでいけばいい。100%完成することなんてないのだから。それは、楽しみがいつまでもいつまでも続くってことだ。


思いの外長くなってしまいました。

今回は、この辺で!

Thanks to kaniemon_photo様

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