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自縛ショーの踊り子たち3

1995年。
バブル崩壊後も割と活性していたストリップ業界、ついに翳りが見え始めてきた。関東圏では「SM大会」のやり過ぎ。どこの劇場へ行っても似たような顔ぶれ。
 そんな中関西では「素人大会」なるものが出始めた。いわゆる「踊り子」として名前を売ってない女の子たちがステージで踊り、脱いでいく、という「ショー」ではないものだ。

 私も御多分に洩れず通告を受けた。
「もう自縛じゃダメだよ。悪いけどギャラ下げるから。その代わり違う出し物ならコース取るよ。自縛はもう時代遅れだよ。そして自縛でもあんまりハードなものしないようにね」
 私はこの言葉、理解に苦しんだ。元々SMはマニアックなもの。そして個人的な性癖。このことに「飽きる」も「時代遅れ」もない。しかしながら現実にコースはなくなっていく。

 そんな中登場したのが「女王様ショー」。SMクラブ勤務の女王様がステージで、調教ショーをする。
これが大当たりだ。
ステージは「観る」から「やる」へ。
本番マナ板が流行った時と構図は一緒である。
でも、この女王様ショーが流行ったおかげで、かろうじて自縛のコースも続いていた。私は「ライトな自縛」を考え、お客様参加型でダッチワイフを使ったショーを作ったりしていた。

 1997年。
 20数名いた自縛踊り子は10名たらずとなり、他の出し物を兼ねて仕事している踊り子がほとんどとなった。
自縛を続けている小夜子嬢は
「もう最悪です。従業員は露骨に嫌な顔するし、劇場側は演目の変更を促してくるし、私そんなにダメになったのかなって悩みます」
肩を落としてこう語っていた。私は、案に劇場から離れたパフォーマンスを提案していた。
「もう劇場は見限った方がいいよ」と。

 そして自縛をやる踊り子は淘汰され、元に戻った。
いや、自縛だけでコースを回れる踊り子はいなくなったと言っていいだろう。
私は意地でも他の演目をしなかったので、年に何回か船橋「若松劇場」が
情けで取ってくれていただけとなった。(1998年は1回しかストリップ劇場に出ていない)

1999年。若松劇場と密になったおかげで、私の「企画興行」が始まるのだが、この話はまた改めて。

 ストリップ劇場でステージに立つ踊り子が、自縛ショーをする、という環境においては、もう消滅してしまったと言っていいだろう。
でも当たり前なことで、これは個人的な性癖であって、万人が共感できるものではない。
 しかし面白いのが、「女王様ショー」が流行って定着した時、舞台に上がっていたお客様が
「あ、早乙女さん。僕バレちゃった?本当はMなんです」
と告白してきた方が多かった。
聞いてもいないのに自ら告白するのだ。
この時思った。自縛ショーを支えてくれたお客様は、
M癖な方であったと。

 この当時までの日本においての「サディズム」「マゾヒズム」の考え方、性癖は、外国のそれとは少し違っていた。それは育てられ方である。日本の男性は「男たるもの、、、」という理念に基づき、小さい頃から躾けられてきた。
 なので性癖は「サディスト」でも、常に相手のこと、身体を気遣う方がほとんどであるし、「マゾヒスト」は「公言するなんて恥ずべきことだ」というような風潮があり、サディストのフリをして自分を逆転させながら映像やショーを見ていた。

 その垣根が取れたのである。そりゃ嬉しいはずである。

 少し話はずれたが、お客様に応援されなければ「SM」という特殊演目は消え去ってしまう。結果、女王様ショーが残っていった。参加型ショーだからである。さらに若い女の子は「おじさんをいじめて喜ばれるなら、女王様やりたい」という子たちが増えたのも功を奏した。

今現在、自縛という演目は昔からの踊り子のみで、若い子たちは「ポラロイド」だけども演出の一つに「縛り」や「蝋燭」を入れる、という感じである。若い踊り子に「これ使いたいけど、どうすれば良いですか」と聞かれれば、知っている限りを伝える。それは「自縛」という特化した演目が無くなってほしくないからだ。
 本来なら「ポラ」と「自縛」はギャラが違う。自縛は消耗品が多いし、体への危険も伴うからだが、そんなことを言っていられない。ギャラアップなぞ今の劇場に臨むのは無理な話なのだから。
 それよりも表現方法を知って欲しい。これに尽きる。

 私はまだたまに自縛ショーをしている。ストリップ劇場ではないが、ショー依頼があり、会場的にOKなら逆さ吊り、蝋燭を入れての腹切りだ。この演出をするときは懐かしさでいっぱいになる。「私はまだショーをやっているな」そんな気分に浸って、時間オーバーする事もある。
ああ、前回書いた瀧龍子嬢の気持ちが少し判ってきた。
「ステージよ。終わらないで」

1998年出版記念パーティーにて著者 演奏ドクトル梅津氏


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