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ストリップ資料けんさん2 「ぼくのジプシーローズ」 原芳市

 ストリッパー、踊り子を撮り続けた写真家、故原芳市氏のエッセイ&日記風な貴重な1冊である。写真家であるので踊り子の写真集、また、原氏の写真家としての写真集は出版されているものの、原氏の言葉、魂が読める本は少ない。
 私はこの本から1970年代のストリップ劇場の内側を学んだ。

 1980年6月に発売のこの本。原氏がプロカメラマンになったことから記載されている。
 原氏は18歳、1960年代後半にたまたまストリップ劇場でみた踊り子さんに「人生のヒダ」を感じ、以来、劇場に通いつめた。そして、この人生のヒダを写真に撮りたい、と想い出した。
 どうしたら撮れるものか、日々考えていた。
 そしてついに実行した。単身、浅草ロック座へおもむき、
「ストリッパーさんの写真を撮らせてください」と言ったのだ。
結果はわかっていた。もちろん門前払いである。

原氏はそれでも諦めなかった。人を頼りにストリップ専門誌「芸報ジャーナル社」を知り、訪ね、社員となった。原氏25歳であった。

 劇場の許可はとっていても、踊り子さんに直接許可を取らず、喧嘩腰になったことも度々。踊り子さんのヒモさんから
「どういうつもりで写真なんか撮っているんや」
「ワシらの許しは得たんか」
「ワシんとこは断る。好きでこういう商売やってるんと違う(中略)ちゃんとスジ通して仕事しぃよ」
「うちとこのやつ写したフィルム返してや」

気分は落ち込むものの、原氏はへこたれなかった。
自分が思う「ストリッパー」の写真が何としても撮りたかった。
何度も写真を撮り、芸報ジャーナル紙でボツにされ、また撮りにいく。
そして5ヶ月間ここで鍛えられ、原氏はフリーカメラマンとして巣立っていったのだ。

 原氏のこの「プロ」になるまでの過程を克明に記している文章。正直、息がつまる思いがするが、これが現実。自分を美化せず、ありのままを書くところが、原氏の性格を物語っている。
 そして当時のストリップ劇場、踊り子さんの意識が垣間見れる。もちろん打ち解ければ気立てのいい、心意気のいい踊り子さんも大勢いるが、線引きをして人を見ている。この意識は「ヤクザ世界」に近いかもしれない。つまり「一般の人」と「芸界人」。先輩のお姐さんたちは口癖のように「この芸界では」云々と話していた。「自分たちは一般社会人ではない」という意識がものすごく強かったと思う。そこには「芸人」である、という自負もあるが、「お天道様の下を歩けない自分がいる」という自分に対しての情けなさもあるのが垣間見れる。


1980年初版ヤゲンブラ選書(株)晩聲社

 後半は日記調になっていて、劇場へ行き、踊り子さんの写真を撮り、そのプリントを渡しに、別の劇場へ行き、また撮り、、、。といった行動が記されている。当時の踊り子さんは多種多様な人生観を持っていたので、正直「気まぐれ、気分屋」が多かったと思う。それに惑わされる原氏。

「あんなみっともない写真、人に見せられないわよ。もっと美しく撮れないの」
「これ気に入らないから棄てるわよ」
二日酔いで今日は写真いらない、と急に断られ、その踊り子さん以外に声をかけ、写真を撮ると、
「あんたは私の方を先に尋ねてきたんでしょ!私の写真はないのね。わかったわ、帰んな!もう顔も見たくない!」
と激怒。
 等々、理不尽な怒りを浴びせられた。

 私は原氏に1996年ごろインタビューをしている。そんな思いをしてまで、まだ、踊り子にこだわるのはなぜか、なぜ、辞めなかったのか、聞いてみる。

原「確かに、怒鳴られたり、脅されたりしている時は、<もう二度とこんなところへ来るか>と思うんだけど、しばらくたつと忘れられなくて戻ってきちゃうんだよね。昔の踊り子さんは、皆自炊して楽屋生活していましたから、初めのうちおっかなかったヒモさんが、実は心優しくて、一緒に食事したり、踊り子さんから楽屋ご飯を勧められたり、少しずつ打ち解けて冗談言い合えるようになって、写真、気に入ってくれたらお小遣いもらったり、もちろん罵声もあったけど、それも勉強の一つですよ。僕の写真の良し悪しは踊り子さんに教わったようなもんです。そして連帯感がないようでちゃんとあり、まさしく<人間のヒダ>を折り重ねている場所だと思ったんです」

 この本は、原氏の文章がもちろん光っているのだが、写真もいい。劇場の外観、楽屋で見せる踊り子の顔。原氏は踊り子の姿を楽屋で撮影している。もちろんそこしか場所がなかったからであろうが、それが「味」となって写し出されている。屈託のない笑顔、一人の女性としての顔、無意識な表情。原氏のこの写真を見て、私はさらに原氏のファンになった。そしてこう言った踊り子の素顔を残す写真は絶対必要だと感じた。

 本文のラストインタビューは、踊り子と結婚予定の男性A氏との会話。どうやら常連客のようだ。ストリッパーの素顔が撮りたいという原氏の話に、
「この芸界に2種類しかいないんです。がっちり溜め込んでいるのと、ギャラたくさんもらっていても年中ピーピーいっているのと」
「彼女らの素顔見たことありますか。彼女らは寂しいんですよ。酒を飲んじゃ泣きますよ。素顔は照明で目をやられ、厚化粧で肌は荒れ、ひどいもんです。男に騙されたり、アル中になったり、ヤク中になったり、、、」
「踊り子たちと寝たことありますか?寝ればわかりますよ。彼女たちが大粒の涙を流しながら、その寂しさの中で身悶えしているんだってことがね、、、」
「面白い世界ですよ」
 原氏はこのA氏の言葉にカウンターパンチを食らったようだ、という。

 原氏の下積み時代、結婚生活、そしてストリップ業界のこと。
この本があるからこそ、メディアに載らなかったストリップ劇場のことがよくわかる。
 1985年で新風営法となり、劇場も踊り子も大きく様変わりしたが、原氏の思いは変わらずに、ストリッパーを撮り続けていた。私も撮って頂き、インタビューも受けた。原氏の真摯な姿はずっと焼きついている。

原「その頃からやっと仕事としての写真が撮れるようになったし、取材もラクになった。だけど、屈折している子がいない。ドロドロした部分が少なくなっちゃったね。お金かけて綺麗な衣装作って、振り付けや演出など依頼する踊り子が増え、すごく華やかなステージになったけど、僕は、何か違うんじゃない?って思っていた。なんていうか、エロティックさを感じないんだよね。ストリッパーなんだから、踊りや豪華さだけでなく、総合的に勉強しないとダメなんだと思うね」

 ここから約5年でさらにその傾向が強まり、ストリップ業界は追い込まれていく。これについては劇場側も悪い。ストリップ劇場がアイドル時代となり、演目のバラエティを減らした。ベテランが行なっていた特殊、花電車や天狗ベット、SMなどがなくなり、先輩踊り子が激減していった。新人踊り子は相談できる人もいず、自分の壁にぶち当たり、数ヶ月という中で入れ変わっていく。3年やっていればベテランとみなされてしまう。
 これでは「芸」が熟成しない。踊り子は性風俗店の女の子のように新人ばかりが起用されだしていく。

 原氏はそんな環境でもストリッパーの写真にこだわっていた。そして
原「このままで行くとストリップ劇場は無くなってしまうかもね。僕の思っていた劇場、帰ってきてくれーって思うんだけどね」

 今の時代から逆光した感じでこの本を捉えても非常に面白いと思う。
若い世代の人たちで、劇場ファンの方達にも読んでもらいたい1冊だ。
ストリップ劇場の「闇」時代を。

 そして2019年、原芳市氏71歳、永眠。泣いた。

原芳市氏

(本とインタビューの混ぜこぜで時空間がわかりずらく、すみません。原
氏への想いが溢れでてしまいました)


 

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