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切腹布教活動6 「切腹DVD1」

アダルトな作風についての(今でいうアダルトビデオ的な)フィルム作品の歴史は古く(商業ベースではない作品)、私が知る中では、一般人が手に入れることがようやくできた8ミリフィルムカメラが出回った1970年代には<ブルーフィルム>として蔓延していたことと思う(もちろんもっと以前江戸時代にも<絵>というこだわりで春画が流行っていたが)。

マイノリティな切腹愛好家にも、映像作りにチャレンジする御仁がおられた。切腹愛好者の中では著名な木良山修一氏である。木良山氏は文献の収集に力を入れておられたが、ご自身で作品も撮られた。ただの記録作品ではない。きちんと映像の手順を踏んで撮影したのだ。その作品はコンテストで評価された。

1979年(昭和54年)度 第15回キャノン8ミリ映画コンテストフィクションの部「特別賞」タイトル「女性切腹」

のちにマニアの間で「久仁子追腹」となった作品である。内容は夫に先立たれた妻の後追い割腹だが、タイトルは巻き紙で送られていき、カット割りも正攻法で、女性のモノローグで進行していく。この女性は役者さんであろうか、表情も堂に行っている。容姿も日本の若妻らしく、色香が漂う。しかし何よりも、こういった作品が一般のコンテストに入賞するということがびっくりする。一般人がフィルムで正攻法に撮影する、という技術や努力にあっぱれといった賞賛があったのではないかと思う。

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その後も木良山氏は作品を撮った。「木綿子(ゆうこ)の死」という作品で、こちらは、1986年(昭和61年)第14回日本映像フェスティバル(ドラマ、アダルト部門)応募作品となっている。木良山氏の撮影意欲はさらに高まっていた。この物語では、ロダンの作品「ハナコ」がフューチャーされ、切腹は究極の悲愴美である、と前置きされ、武家娘の切腹へとストーリーが進む。ここで演じている女性はおそらくモデルさんであろう。お顔や体つきは男性好みする容姿であるが、物語とは残念ながら一致していない。しかし、切腹シーンの特撮は努力がうかがえる。刀をカットしたものを何本も用意し、深く突き刺さる様を表したり、切り口を作り、内臓露出も試みている。

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この2作品は、愛好者の間で評判となり、手法などが引き継がれ、さらに研究されていく。切腹愛好家は、映像好きな方が多い。写真であったり、ビデオなどであったりと「残す」ことに想いがあるのだろう。それは、エロ写真やSMなどと違い、資料が少ないからであると思う。「今ここで撮っておかなければ二度と見れない」という枯渇的な想いがあるのではないだろうか。

私が出会った同好会「桐の会」でも写真やビデオを撮っていたり、のちに個別に出逢った同好の志たちもビデオ作品作りをしてくれたり、写真を撮ってくれた。これらの撮影の中で私は、切腹演技を学び、自分独自の切腹を確立していったわけだ。

愛好者の一人が作ってくれたビデオ作品に「彼岸花」というのがあった(1990年頃か?)。販売する、しないは、後の事として、私は撮影者が好むシーンを演じたいと話すも、「いつもの通りでいいよ」ということで、蝋燭責めなどストリップ劇場で演じているような形を取り入れて演技した。冒頭と終わりに素顔の私が入っていたように記憶している(撮影者と会った時、帰る時など)。私はその素顔の方が恥ずかしかった(結果、風俗資料館のみで販売)。

私の演技がストリップ劇場から離れて、本気の切腹よりになったのは、濡木痴夢男氏率いる「緊縛美研究会」から発売された切腹シリーズだ。1作目は1990年「緊縛・女腹切り」。これは、私がストリップ劇場で切腹をやっている、と知った濡木氏が、切腹研究家中康弘道氏と書簡やり取りをする中で決心したのではないか、と思う。私には「早乙女の腹切りで1本作ってみよう。なに、僕(濡木)がお膳立てで緊縛シーンを入れるから、(緊縛ファンの)お客さんから文句が出ることはないよ」というようなことを話していたと記憶している。のちに濡木氏の文章で子供の頃から切腹に対する想いがあったと知るが、当時はそんなことおくびにも出さないので、急に濡木氏が「切腹」にくいついてきたことにびっくりしたもんだ。(続く)

女腹切り



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