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切腹布教活動1 「分譲写真」

エロ写真の分譲写真の歴史は古い。カメラが最高級品で、一般の人々はとても手に入れられない頃(明治終わりか大正時代)から、好事家たちは大枚をはたき、自身でモデルを調達し、写真館にもギャラを奮発して撮影してもらっていた。そしてその写真を仲間たちにも分譲していたと思われる。

SMものの分譲写真としては、画家伊藤晴雨が大正時代に初めているが、本格的に知れ渡ったのは、戦後初のあぶのーまる雑誌「奇譚クラブ」からであろう。グラビアで撮影したフィルムの中から選んでいた。奇譚クラブは、フェティシィズムの集合体であったので、緊縛M女ものが一番多かったが、S女もの、切腹ものも販売されていた。

切腹もの分譲写真はその後、切腹研究家で文筆家の故中康弘通氏が引き継ぎ、のち、切腹同好会「桐の会」へと引き継がれていった。しかしなかなかモデルがいなかった。1970年代になれば、ギャラをはずめばヌードになってくれる女性はまぁまぁいた。しかし切腹となると話は違うようだ。黙ってハダカになればいいわけではない。多少の演技が必要だ。苦悶の表情がなければ価値がない。それに所作も細かい。なので、切腹に理解がある協力的な女性が現れる時まで撮影はできない。当時の愛好者たちは新作をまだか、まだかと待ちわびていたようだ。

私が「桐の会」で分譲写真のモデルをしたことはすでに書いたが、その後幾人かの愛好者と逢い、話を聞くと、シチュエーションの好みが多様にあることがわかった。しかもそういった写真がなかなかないと。そこで私が、「やってみようかな」と思ったわけだ。本来なら殿方は、いろんな女性の姿を見て楽しみたいであろうが、これについては、緊縛濡木痴夢男氏がやっていた「緊縛美研究会」の精神をお手本とした。つまり、女性がその癖に対して理解があるならば、その女性の姿を何度でも見たい、のめり込んでいく様を見ていきたいと思う、という意見だ。いくら美人でも、癖に理解がなければつまらない、という考え方に甘んじて、「早乙女のコスプレ切腹」として理解願いたいと思ったわけだ。

1997年。切腹分譲写真用の撮影をスタートさせた。カメラマンはアマチュアだが、重要なポイントをよーく伝え、撮影していった。切腹は展開が大切だ。切腹前、刀を差す、切っていく途中など、切り捨てるところがないし、1枚写真ではあまり意味がない。なので10枚前後の組写真での分譲となる。血糊や内臓出しは好みが分かれるところだ。そこであり、なし、と分けて撮影した。衣装は、白襦袢、色物襦袢、着物、モンペ、スーツ、Gパン、セーラー服、看護師、ウエディングドレス、褌、柔道着など様々に変え、シュチュエーションについては、基本室内だが、私が興味ある地についてはロケへ出かけた。

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青木ヶ原樹海。森林の中でやって見たかったので、人が少ないであろうこの地を選んだが、入り口付近は意外に人が通る。近所の人やボランティアの巡回。なので気をつけながらも奥へ進んでいく。ホームレスの住居らしき所や、ゴミが散乱している箇所も。静まった森林をイメージしていたが、雰囲気が良くない。ここで切腹か、、。なんだか集中できないが、せっかく来たので、きちんと撮る。血糊を出すことに抵抗を感じる。この地は**のメッカとされていたが、私はここで死にたくないと身体中で感じた。

桜の季節。桜と切腹をどうしても撮りたいと思っていたが、思うような場所がなく(撮影ができる、という意味で)諦めていた。ところがある雨の夜。自宅付近の道にある1本の桜の木の下に、花びらが散り、濡れ光っていた。「これだ!」と思った私はすぐさま連絡をとり、深夜の路上で桜の切腹を撮った。これは正確な所作などいっていられない。住宅街で模造刀とはいえ、刀を持っているなんて、通報されかねない。一瞬を狙い撮影したが、絵的には私好みであった。

分譲桜

野外好きな私はつい露出癖がでて、愛好者も思いつかない場所での切腹が増えてくる。シュチュエーションの意味がわからない、洞窟や波打ち際、滝に打たれるなど、ちょっと遊びすぎてしまった。それでも愛好者の方は、新シリーズを楽しみにしていてくれた。全部で40タイトル作ったが、刺激的な時期であった。ネガフィルムはまだあるので、いずれ新たに公開したいと思っている。


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