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自縛ショーの踊り子たち 1

 「じばくショー?何?爆発しちゃうわけ?」
こんな質問を何回も聞いたことがある。その度に「そうか、<じばく>は自爆という字しかないもんな」と一般常識とのズレを感じる。

  ストリップ劇場で私の演目は「自縛」というジャンルであった。私が出演していた2000年代までは、このジャンルがあったと思うが、今は皆無である。
 このnote「自縛ショーデビュー」にも書いたが、そもそもストリップ劇場に「自縛」というジャンルが必要だったかどうかは微妙であろう。ハード系であればペアのSMショーが見たいであろうし。それなのに自縛というジャンルは10年以上もあったわけだから、何かそれなりに需要があったと思うのだ。
 今回は自縛ショーの「初め」を紐解きたくなった。「自分で縛る」演目がなぜストリップに登場したのか。そして消滅したのはなぜか。私なりに考察してみた。
 とはいえ、自縛ショーの始まりは、どこを探しても出てこない。ローソクベットショーで一躍有名となった初代一条さゆり氏も、初めは通常の踊り子で、いつからローソクを始めたのか定かではない。1963年にはローソクベッドで検挙されている。
 手詰まった私は、あの方に助けを求めた。ジョージ川上氏。昨年の自主上映会「ストリップ小屋に愛をこめて」で自身の想いを追悼した川上氏。劇場の従業員から社長となり、自らが企画した集団「DXブレーン」を立ち上げ、その中でSMペアを生み出すアイディアマン。氏に聞けば何か糸口が見つかるかもしれない。そんな思いで連絡してみた。
 川上氏は「思い当たる人物がいる」とその人に問い合わせしてくれた。

 1970年代半ば、アングラ集団「ラー企画」というのがあった。川上氏が自身の企画集団を立ち上げる前だ。ラー企画のボスは、のちに根暗童子と名乗り、SM界で調教師として活躍した人である(1984年映画「好奇心」出演)。
 ここに所属していた前衛緊縛ショー「東京奇譚倶楽部」のM女役胡弓さんが、ショーの中のソロシーンに自縛オナニーを取り入れたのが始まりだと思う、との回答があった。1979年頃だという。
 この話を聞いて思い出した。SM仲間である森美貴さんもラー企画の所属であり、六本木会員制SMクラブ「SAMM」でのショー、ストリップ劇場でも「自縛ショー」をやり、滑車を使って吊っていた。これが1982年頃からだった。
 つまりこのラー企画に所属していた女の子たちが、ペアやチームでショーに出演しない時、ソロで自縛ショーをしていたのだろう。もう一つ想像できるのは、ギャラの問題。オーダー側は、SMペアでは当然二人分のギャラとなるのでよりギャラを抑えるため、必要な女の子だけ取りたい。一方事務所としては、マージンも取りたいので単にソロダンサーよりも付加価値を付け、ギャラを少しでも高くし、マージンを取る。こういったことが繰り返されて「自縛ショー」が定着したのではないか、と考察できる。
 ちなみに「オサダゼミナール」故長田英吉氏は、ラー企画の根暗童子氏と友であり、相手役をラー企画へ依頼していた。長田氏曰く「変なヒッピーねぇちゃんばかりきた」と話していたことを思い出す。「ヒッピー」かどうかはさておいて、舞台よりも男に入れ上げているとか、見た目が派手だったとか、そういったタイプの女性が多かったようだ。

 自縛ショーが出だしたからかはわからないが、残酷ショー、ペアでのSMショーはどんどん衰退していく。私がデビューした1986年が最後の頃で、一年ごとにギャラが下がり、結果私は1989年に自縛デビュー
するわけだ。
 この頃の先輩は、自縛と言ってもマゾ的要素が少ない人ばかりであった。よく出会っていた先輩は、「蛍嬢」。筋肉質なそのボディーに自ら鞭打ち。長い黒髪を振り乱し、魔女的な雰囲気であった。少し女王様的要素も取り入れていた。「ピア嬢」小道具使いが上手く、いろんな素材で縛ってみたり、水鉄砲を使い、お客様と戯れてみたり、明るいステージだった。「水木愛嬢」。「劇団赤と黒」というアングラ劇団の女優で、この劇団は1970年代にSM的要素をストーリーに取り入れ、人気を博していた。愛嬢は芝居的要素をステージで発揮し、日舞を舞い、刀を使っての演技であった。見せ場は刀をあの部分に差し込む、というシーン。
 つまりこの頃は自縛と言っても「これをやらなければならない」といった概念がなかったということになる。

  そして本番マナ板ショーの消滅と共に、AV女優のストリップ進出で、「自縛」をやる踊り子が増加。特に新宿「TSミュージック」所属の踊り子さんデビューは、AV界から「森川奈々」「浅野ミキ」「永井一葉」と自縛勢が続く。「浅野ミキ」嬢は初めから自縛デビュー。
浅野「AV事務所から劇場へ連れて行かれて、ステージを見せてもらったんです。綺麗だな、私もああいう風に踊るのかな、と思っていたら、ママから『ミキちゃん、小道具は揃えておいたから。明日からできるわよね』ってロープや蝋燭を渡されたんです。ビデオではSM物やりましたけど、独りでどうしようと悩みました。だけどやるしかない。多分デビューはめちゃくちゃなことしていたんだろうな」(インタビュー1995年頃)
 ミキ嬢は、蝋燭を垂らしながら激しくくねり、汗びっしょりになっての熱演であった。

「浅野ミキ」1994ストリッパーズ名鑑 原芳市著(風雅書房)


 私は事務所が違うものの、TSの自縛メンバーと仲良くなり、TS楽屋へ遊びにいくようになる。そして紹介されたのが「永井一葉」嬢であった。「今度自縛デビューすることになった子。ヒロミちゃん、教えてあげて」。直接の先輩「森川奈々」嬢からの言葉。もちろん奈々嬢も指導したが、タイプがまるっきり違うので、他の人の方が良いと思ったらしい。森川奈々嬢はいうならばハードロック系、永井一葉嬢はアニメ系であった。

「森川奈々」1994ストリッパーズ名鑑 原芳市著(風雅書房)


 一葉嬢の話を聞きながらステージ構成、ロープ選びや縛り方を一緒に考え、彼女なりのアニメ系ステージが完成した。
永井「ミュージカルがやりたくて劇団にも入ってたの。だからステージを作るのが大好き。他のねぇさん達みたいにドロドロしたの苦手だから、<イヤーん、いた〜い>なんていう感じのが良いかな。私、ダンス大好きだから、ちゃんと2曲踊って自縛に入る。自縛なのにタンバリンさんがついているの私くらいでしょ。曲もアニメの主題曲なんかで、明るく軽い感じ。セーラームーンやピカチュウの衣装作って踊ったもん」
(インタビュー1995年頃)

「永井一葉」1994ストリッパーズ名鑑 原芳市著(風雅書房)


 一葉嬢は好奇心旺盛で、ソロベットはもちろん、日舞や花電車もこなす、オールマイティーな踊り子であり、よく飲みに行ったり、手料理をご馳走になっていた。残念ながら2018年、病魔に勝てず、私より10歳近く若いのに、先に旅立ってしまった。謹んで哀悼する。

<続く>


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