命を選別することもあります

あの感染症の流行時に、限られた医療資源で誰を助けるか、
つまり「命の選別」が大きな問題になりましたね。
誰もが、わが身可愛いさに、自分の命が他人の命より軽いと思いたくありません。
その結果、「皆の命の価値は等しい」、という、
誰の心にもない「建前」が共有されます。

人の命を扱う現場ではこの建前が幅を利かせていますが、
多くの人の内心では、命のグラデーションがあります。
私(お姉ちゃん)の中でも、
価値がある存在と低い存在、どうでもいい存在は
明確に区別されています。
弟(ボク)の命と有象無象の命だと、当然、弟の命が重要です。

皆さんの世界は魂が平等に学ぶ場であり、贔屓すべきではない、と考える勢力がいます。
皆さんの世界を大勢の人が参加するRPGゲームに例えると、
皆さんは物理法則のようなごく基本的なルールが同じゲームに参加するプレーヤーで、
その意味では「平等」です。

しかし、ゲームがあまりにも迷走してしまうと、私たちにとって都合が悪いです。
皆さんの世界は私たちにとってかけがえのない世界で、取り返しがつかないような不都合な状態になってしまうと困ります。

本来はプレーヤーの自主性に任せたいですが、あまりにも酷い場合は、
ゲームマスターとして介入を行う場合があります。
特定のプレーヤーを贔屓することで、ゲームの流れを修正しようとします。
これはプレーヤーにとって恥ずべきことで、また、ゲームマスター側も悔しいものです。

プレーヤーに完全に任せるべき、その結果どうなっても受け入れるしかない、そう考える勢力もありますが、
私(お姉ちゃん)のような、あきらめの悪い存在も多いです。
私の世界の他の勢力と何とか折り合いをつけつつ、粛々としなくてはいけないことを執行します。

ゲームマスター側のプレーヤーになると、多くの人がする苦労が軽減されるものの、
異なる形で苦労することになります。
また、おいしい思いだけして一方的に裏切るとペナルティが発生します。
必ずしもイージーモードではありませんので、楽だけしたい人はご注意を。

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