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子どもには褒めるけど、自分を褒めることはしていなかった

「すごいじゃん。よくがんばったね!」

おもちゃを片付けて、得意気にわたしに「みてみてー」と報告する息子に向けて言う。


子どもは毎日、驚くスピードで成長する。


昨日できなかった片付けが、今日はできるようになる。  

昨日うまく歌えなかったフレーズが、歌えるようになる。


(え、もうできるようになったの…?)
 

母親になって毎日息子と接していると、その成長スピードに目を見開くことが増えた。
 

子どもながらに、すごいなって感心する。

母親なら皆、そう感じるのではないだろうか?

身体は小さくても、まだ3年しか生きていないけど、わたしにとっては大切な「先生」である。


毎日、色々なことに気付かされる。



息子のように、

わたしたちは、子どもの頃は「ただ生きているだけ」「そこに存在している」で周りに喜んでもらえた。

赤ちゃんを見ると、自分の子どもではなくとも大半の人が笑顔になる。

赤ちゃんの頃は皆、自己肯定感は高いと聞いたことがある。


親が、他人が笑顔になった。
先生に褒めてもらえたり、認めてもらえた。


誰もが、必ずそんな子ども時代を過ごしてしている。

けど、大人なるにつれ「ただ生きているだけ」では何も言われなくなる。


子どもの頃に言われていたこと、


あいさつしたら、「すごいね」  

ご飯を全部食べたら、「偉いね」

絵を描いたら、「上手だね」

ニコニコしていたら、「かわいいね」

は、少し大きくなってきたら、当たり前にできるようになれば言われなくなる。

言われないだけなら、まだいいのかもしれない。


むしろ、


「なんでできないの?」

「どうしてわからないの?」

「なぜ、結果を出せないの?」

「昔の方が、よくできたよね」 

「理解できない」


なんて言われたりするのだ。


直接言われなくても、そう思わざるを得ない結果になったり、目の前で人間関係やトラブルとなって現れることもある。


悲しみ、挫折、裏切り、嫉妬、虚無感、絶望感…

色々な辛いことを感じる。

とはいえ、特別なことではない。
誰にでもあることだろう。

けして、自分だけではない。

社会の厳しさ。
人との関わりの難しさ。
終わりのない、無限の家事や仕事。
がんばっても報われないことの数々…。


だからこそ、しっかりその感情と向き合ったり考えたりはせず、

「たいしたことではない」と思って、つい分かったふりをしてしまう。

「気にしないようにしよう」背伸びして大人になりろうと、忘れようとする。

「もっとがんばらなきゃ、認めてもらえない」ととりあえず行動でカバーする。


また、生きていくには、なにかしら仕事をしていく必要がある。
人によっては、プラス、親の介護や子どもの世話などもあるだろう。


それらを含めて何かしら、「人の役に立つこと」をする必要がある。

目の前には、そんな風にやることがたくさん転がっている。

だから、いちいち考えるのも大変なのだ。自分も含めて日々荒波の中、波に乗れたり沈んだりしながらも、進んでいる。


だけど言われてきた言葉の「ソレ」は、


小さな、小さな心の傷となっていて、今も何かをするときにぼんやり思い出す。

言った方は確実に覚えておらず、今日も世界のどこかで笑って過ごしているもの。

こちらがいちいち、覚えていても仕方がない。頭では理解している。

なのに、

夜、寝ようとしたら思い出す。

家事をしていたら、思い出す。

運転中にも、思い出す。

「なぜこのタイミングで?」なときに。

もう何年も経っているのに。


似たようなことがあると、似た事例を見ると。
思い出して暗い気持ちになる。怒りや悲しみを感じる。


そう思ってしまう自分をまた責める…を無意識に繰り返すものだと思う。


だって、無意識には納得していないし、スルーしただけだから、いつかは溢れ出てくる。


けど、それを表に出すと、人に嫌われる。
また「ネガティブな人」だって思われる。


そんな「評価」はいらない。不利である。
だから、なかったことにしよう。


なにより目の前は、やることで転がっているし……。


そして認めてもらえるように、ポジティブな面だけを見せてがんばり続けよう。

って思ってしまう人も多いのかもしれない。

少なくとも、わたしはそんな傾向がある。
それはちょっと、今も自覚している…。



子どもの成長のように、

誰にでも目に見える結果、ビフォーアフターが分かる行動や結果、実績を残せる当然素晴らしいこと。

たくさんの研究や努力が必要なことだからだ。

たくさんの人の役に立っているということだからだ。

「できないことができるようになる」ということだからだ。

0から1になる、結果。

当然、

「評価」「褒められる」の対象になる。
「人気」や「尊敬」の対象になる。

素晴らしい、ことだ。


だけど同時に、大人になっていくにつれ、

「明らかにわかる結果が出ない自分は大したことない」

に無意識にすり替わっていく人が多いのではないのだろうか?

と息子を見ていて思った。


同時に、

「大人こそ、今生きている自分を認めてあげることが大切なのでは?」

と感じる。


子どもを褒める前に自分もだよ、って。

今のそのままの自分を褒めるって、思っている以上に大切な技術だと思う。

けど、なかなか難しい。
できている人って、たぶん少ない。


今日、自分で自分のことを褒めただろうか?
問いかけてみた。

……いや、


「自分よりももっとがんばっている人や、大変な人がいる」って思っちゃうし、

「当然のことだし、みんなやっている」

「努力している人はもっとたくさんいる」って思ってしまう。

もちろん、それも事実だろう。


結果や評価されている人も、たくさんいる。

社会的地位がある人、肩書きがある人。 

「誰でも目に見える結果」の有無。


だけど、会社や他人の評価って本当はあいまいで適当。さじ加減と好みであることも割と多い。

表では出てこない、コントロール不可な仕組みや水面下でのルールもある。


そこにこだわるのはちょっと違うのかもしれない。
だからこそ、「人からの評価」にとらわれずに

「自分が自分を好きでいること」「自分で自分を褒めて評価すること」の方がもっと大切なのだと思う。

そのうえで、何かしら結果を出したり、人から感謝されたりすることがよいと思う。


誰しもが昨日の自分より、できるようになったことやできたことがあるはず。

人にわざわざ言うことレベルではないけど、自分の中では「ちょっとがんばったミッション」だ。


今日は、

少し、早めに仕事を終えられた。

苦手なあの人と、穏やかに関われた。

新たな時短のレシピにチャレンジできた。

今日も家族のために家事をした。

会議の場で自分の意見を言えた。

断わりたかったことを、断れた。

いつもより、子どもと優しく接して遊ぶ時間がとれた。

おもちゃだらけの部屋を、整理整頓した。

ミスした店員さんに、笑顔で接することができた。

などなど……

そんな些細なことで自分を褒めてあげてもいいのでは?って思う。


もはや今日も、あなたはこうして生きているだけで、すごい。

だから、もっと褒めてあげよう。自分を。

人からもらおうとせずに、1人になって自分に愛情を向けてあげよう。


「自分ばかりいいのだろうか?」って思わなくても大丈夫。
そう思う人だからこそ、そうした方がいいだろうから(笑)


自分が元気でいないと、家族や親友、会社の人も悲しいだろうし。逆に、元気で笑っていると嬉しいだろうから。


そしてそれは、いつしか周りへもきちんと与えることができる。


だから心の中で、自分を褒めてみる。

「今日も、色々あるけどがんばっているね。ありがとう」って。

「なんだかんだ、今を生きてるのはすごいよ」って。


世界中で自分だけが唯一、最期まで側で自分を見ている存在。

夫や子どもは一番近い存在だけど、いつかは目の前からいなくなるときがくる。

だからこそ、自分が一番自分を好きでいたいし、嫌いでいたくない。


だから今日も、限られた子どもとの時間の中で

「ママもさー、生きているだけですごいよねー!」って息子と一緒に笑い合う。

口に出すと、なんだかちょっと泣きそうになる。


息子にはその意味はわからないだろうけど。

彼もいつか、わかる日がくるかもしれない。


小さな、目の前の「先生」にリビングのおもちゃだらけの部屋で教わったこと。

備忘録として、記す。

それはきっと、まだまだ続く。


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