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止まっていた「時間」について、考える

昨夜、わが家で起きた不思議な現象。
コリスと夫がリビングでボール遊びをして、壁にかけていた時計の表面が割れた。時間がわからないのは困るという夫が、割れた表面を取り去り、針が剥き出しになった状態の時計を、壁にかけた。新しい時計を買うまでは、これで時間を見ることにした。

風呂から上がると、コリスと夫はゲームを、私は本を読んで過ごした。そのままゆっくりと時が流れる。「今日はごはんも早かったからゆっくりできるね」なんて話していた。

ふと、スマホを見ると23時半を過ぎている。
「えっ、嘘でしょ」と驚く。夫とコリスに伝えると二人も驚いている。

壁にかかった時計の針は、20時半を過ぎたところを指している。
「そういえば……、ずっと20時半だね……」
私たちは、3時間近く、20時半のまま時を過ごしていた。

翌日が休みということもあり、みんな心の余裕がある。それぞれが好きなことに夢中になっていた。ときどき時計をチラ見しては、「まだこんな時間、まだ遊べる」と思っていたのだろう。

「このまま時間が止まればいいのに」と思ったことが人生で何度かある。旅をしていて、美しい景色に出会ったとき。幸せな瞬間が訪れたとき。大好きな人に会えたとき。時間がサラサラと流れていってしまうものだと知っているから、その一瞬が愛おしくなる。時間を止めることは、できないとわかっていても、願ってしまうときがある。言葉に出してしまったこともある。

昨日、わが家では、意図せずして時が止まっていた。
「時が止まる」を体験して、感じたことがある。

ずっと20時半のままの3時間。
思い返せば、すごくいい時間だった。なぜそう感じるのだろう。

ときどき時計を見ては、「まだ20時半か……」という心の余裕が生まれた。けっこう遊んでいるはずのに、まだ遊べる時間が残っていることへの幸せを感じた。時の流れがゆっくりであるように感じていたのだと思う。

楽しい時ほどあっという間というが、「楽しんでいるのに時間の流れがゆっくり。というか、止まっている」状態がつくられていた。

時間に追われることは苦しい。
時間は追ってはこないけど、自ずと私たちは時間を追いかけて生きている。何時にはなにをして、何時までには布団に入る。刻々と減っていく、命の時間を、1日の残り時間を、気にしながら生きている。

「20時半の3時間」
時刻が進む、残された時間が減る。目の前の好きなことに夢中になっていたこともあり、進まない時計の針にすら気付かず、3時間を過ごした。
「時を忘れて楽しむ」に近い状態だったのかもしれない。

時計を見ずに過ごす3時間。
20時半で時計の針を止めたまま過ごす3時間。
何か違うのだろうか。
実験してみたいと思ったが、意図してやることに効果はないように思われる。結局私は、心の中で時間を刻んでしまうから。時間は、忘れようと思っても忘れられるものでもない。いや、忘れられる。どっちだ。

以前、「キャンプでは時計を見ない」との話を書いた。時間を気ににする必要がない1日を用意して、時計を見なければ良いのだ。時計が刻む時間ではなく、身体や自然が時間を教えてくれる。

時間を気にしなくていい「時間」を作ること。
それを余白と呼ぶのだろうか。余白がないから時計を気にする。
たっぷり時間がある日は、時計を見る回数が減る。

「時間」についてゴチャゴチャと考えていたら、本屋アルゼンチンのTwitterの、沢木耕太郎さんの言葉がグサリと胸に刺さった。

人生にも「隙間」が大事。

時計が壊れていることに3時間も気付かずに遊べたわが家は、今、平和なのかもしれない。

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