街の本屋がなくなる|通って得た価値
僕がかつて住んでいた東京の阿佐ヶ谷にある「書楽」という本屋が今年の1月に閉店していたことを今更ながら知りました。驚くとともに非常に寂しい気持ちになっています。
書楽は阿佐ヶ谷駅南口の駅前にある小さな本屋で、大型書店の様に膨大な書籍を展開しているわけではなく、駅前という利便性が魅力の小さな街の本屋でした。
在庫が豊富というわけではないけれども、その小さなスペースのなかでも最大限に魅力を発揮しようと、書店員さんたちが工夫を凝らした展開をしてくれている点が伝わってくる、そんな街の本屋だったのです。
書楽では仕事帰りにしょっちゅう新書を仕入れていました。他にもカズオイシグロがノーベル賞を受賞したときに買い集めたのも書楽で、文春文庫で出ている内田樹の本も、河出文庫のウェルベックも、全て書楽で買って読んでいたことを思い出しました。経済学を勉強していた時も、まずは書楽で物色して本を探し、見つからなければ大型書店かネットで仕入れるといったことをしていました。
この様に読了本の思い出がたくさん詰まっている本屋ではありますが、僕がこの書店に強い思い入れを持っているのは、本を買ったことだけが要因ではなくて、駅近ということもあって何度も立ち寄っている点にあります。
書楽に立ち寄って棚を物色することで、自分のなかに「これ読んでみたい」「面白そう」といった知的好奇心が刺激されることになります。時には購入してさっそく読むこともあれば、購入しただけで積読されることもあれば、購入を見送ることもあります。これを週に複数回繰り返し続けますが、書店は新刊を発売しつつ回転しているので、毎週行けば毎週異なる棚の展開がされており、決して飽きることはありませんでした。
仕事でもプライベートでも外出時に阿佐ヶ谷駅を使っていた僕は、少しでも時間があれば書楽に立ち寄っていたので、知的好奇心の大半は書楽から手に入れて成長したと言っても過言ではないのです。
そのため、消費者としての僕にとっては、金銭を支払った分の価値だけではなく「立ち寄って知的好奇心を刺激された」という金銭を支払っていない価値も感じていた書店ということになります。
しかし、こういった「立ち寄って知的好奇心を刺激された」という価値は企業側で計上される売上とは異なり、(たぶん)集計もされていないものなので、現代の潮流である「なくなる街の本屋」の波に飲まれてしまったのだと思います。
実際に購買に至らなかったのならば価値がないのも同然だと言われればその通りではあります。それでも、毎週通い詰めることでその書店から多くのことを学んだ人は僕だけではないはずです。
この「立ち寄った回数」や「知的好奇心を刺激された回数」も現代のテクノロジーをもって数値化してマーケティングなどに落とし込めば、減少する街の本屋さんを救えたのでしょうか。何とも悔やまれる思いでいます。
今住んでいる街にはこういった小さな本屋がなく、物足りない日々を過ごしていますが、これから引っ越す予定もあるので、その時は物件選びの条件に「立ち寄りたくなる街の本屋があること」というのを入れておきたいと思います。
何はともあれ、書楽の書店員のみなさん、今まで本当にありがとうございました。
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