見出し画像

小金城(千葉県松戸市) 2024年2月


歴史と立地

小金城は東葛地域を戦国末期に支配した高城氏が拠った東葛最大規模の中世城郭。「東葛の中世城郭」によると、古河公方配下の千葉・原・高城氏と小弓公方足利義明との戦いが1520年代に勃発。根木内城を中心として存在した行人台・小金・名都借・前ヶ崎城の周辺で複数の戦いが起こった。小弓公方と結ぶ扇谷上杉朝興への備えも必要となり、小金城の拡張へとつながっていくと「東葛の中世城郭」では考察。1537年に高城氏の本拠は根木内城から小金城へと移る。その際には本佐倉城の千葉昌胤が祝いに訪ね、高城胤辰が迎えたと「松戸の歴史散歩」。

戦国時代末期には北条方だった高城氏。1566年には小金城を上杉軍が包囲。この時、小金城に近い大寺院の本土寺には制札が出され上杉軍が布陣。絶体絶命の小金城だが、強固な城となっており、高城氏は籠城で耐え抜くことに成功。その後に上杉軍は臼井城へと移動し、謙信の数少ない敗北と言われる臼井城の戦いに続く。

豊臣軍の小田原攻めの際には小金城の主力は高城氏当主とともに小田原城へ詰め、小金城は安蒜・吉野・平川・血矢・日暮・高橋といった家臣団が守るも、下総討伐軍を前に抵抗せずに降参し、開城後には城が焼かれたと「松戸の歴史散歩」。

小金城は江戸川を望む下総台地の西の縁に立地。小金城のすぐ南から谷津が入り込み、中世には存在したといわれる小金の町にまで水運が通じていたと推定する「東葛の中世城郭」。また西の砂州上の横須賀にも市が開かれるくらいの町が中世からあったようだ。防御性だけでなく、江戸川を通じた水運による繁栄が小金城の立地と規模の背景にあると想像される。

松戸市史では中世の空間に関する大胆な考察。本来、松戸から柏方面へと直線的につながっていた鎌倉街道下道(旧水戸街道の原形)。その頃は小金の町は本土寺の門前町として繁栄。根木内城に拠っていた高城氏が千葉氏よりも古河公方との関係を強めると、古河方面への交通が発展し、それに合わせた立地に小金城も設けられた。小金の町は城下町となり、中世の街道も小金城の方向に曲げられたという考察。

撮影地点

現地にあった解説の碑には古い空撮画像の上に城郭の地形表現。表現をなぞって、撮影地点を記す。

北小金駅から大手口へ

地点A2の北小金駅前の道しるべからは、一帯が寺社の多い歴史ある地域であることがよくわかる。

地点A3には慶林寺。1565年に病没した小金城主・高城胤吉の妻が菩提を弔うため出家し建てた庵が発祥。子の胤辰が母の菩提を弔うため寺をこの地に建立。1590年の豊臣軍による小金城陥落。その際の城主は胤辰の子の胤則。1591年には江戸に入府した徳川家康によって護られ慶林寺となる。

地点A4には台地の狭窄部にあった大手口。

地点A5の台地狭窄部から北側の谷を眺める。結構な急坂が下る。

中郷から大谷口

いきなり脇にそれ、地点A6から台地を南に下る。

地点A8から小金城広がる台地を見上げる。マンションが建つのは馬場山の郭。

地点A9は大谷口と呼ばれる小金城への入口。

地点Bは、大谷口から登城路の風景。

外番場から本城、中城

地点A10から地点Cの本城方向を眺める。この先は、かつては土橋がかかり、両側に堀があったようだが全く気配もない。マンションが建つのは中城の郭。

地点A10から地点Cの本城へと向かう土橋には、北と南から横矢がかけられている高い防御構造。

地点Cの本城の風景。新しいマンションが建っている位置は中城。「東葛の中世城郭」によると、本城の発掘調査では多数の建物遺構が出土。鉄砲玉や火災の跡も発見。高城氏滅亡の際には合戦に至ることなく小金城は開城されたようだが、「松戸の歴史散歩」には城が焼かれたとあるので、その際の火災だろうか。

地点Dから中城方向を振り返る。このあたりには、外番場(左手)から中城(右手)に渡る土橋があったようだ。

地点Dの土橋には南側から横矢がかけられる構造。

地点Dには小金城址の碑が立つ。

地点Dから北西の低地を望む。遠くのマンションがある位置は流山の東福寺が建つ台地。

地点Eは複雑な交差点。小金城の時代も、北と南から谷津が入った、外番場郭内の狭窄部。守備の要だったに違いない。

地点Eの縄張り図を見ると、狭窄部の土橋の南から横矢がかけられる構造が存在したようだ。

地点Eから北側の谷に降りる道。小金城時代は堀の機能をはたしていた谷か。

地点Eから南側の谷に降りる道。小金城時代は堀の機能をはたしていた谷か。地点A9の大谷口につながる。

馬屋敷から根郷屋

地点Dから馬屋敷の郭方向に向かう道を行く。

地点Fから地点Gへは登りとなる。

地点Gには神明神社。由緒書きによると天文年間(1532年から1555年)に城の鎮守として高城氏が創建。小金城落城後に帰農した家臣団が大谷口村をつくり、神明神社を村の鎮守とした。昭和期の開発の際には移転もされたが、現在まで守られてきている中世からの歴史ある神社のようだ。

地点Hから根郷屋へと下る坂道。マンションが建つのは馬屋敷の郭。

地点Iからは流山方向の低地が見える。

地点Jの根郷屋から馬屋敷に立つマンションを見上げる。

馬屋敷がある台地の斜面を地点Kまで近寄って眺める。途中に平坦面があり、腰曲輪だろうか?

立体写真

金杉口から大谷口歴史公園へ

金杉口となる地点Mには小金城の数少ない遺構が残る大谷口歴史公園の碑が立つ。

大谷口歴史公園への登り口。

大谷口歴史公園の地点Nには門。

地点Oには堀の復元。障子堀であることが発掘により判明。障子(間仕切り)の高さは2メートルもあったと現地解説板。

立体写真

一段上がって地点Pには土塁。


地点Qには畝堀の復元。発掘により高さ90センチのかまぼこ型の畝が連続的に存在したと現地解説板。

立体写真

番場と大勝院

畝堀のあった地点Qの斜面の下の地点Rを登る。

地点Sには大勝院。由緒書きによると、小金城の前の高城氏の本拠だった根木内城の祈願寺として大勝院は柏市光が丘付近にかつて存在。本拠が小金城に移った後に、大勝院も移転。豊臣軍の小田原攻めの際には高城氏の滅亡とともに、大勝院も焼失。

江戸時代に入り、大勝院は再興し、学問僧を多く輩出する寺院に発展。

地点Sから南の方角を眺める。大勝院正面に通じる参道であり、番場と外番場の郭をつなぐ土橋へと通じる道。

番場と外番場の郭をつなぐ土橋があったらしい地点Tから、大勝院方向を眺める。

地点Tの土橋には、西から横矢がかけられている構造があったようだ。北から南に侵入する敵への防御か。

地点Tに立つマンションは城址の文字が入っている。

番場から達磨口へ

番場と外番場の郭をつなぐ土橋があった地点Tから、堀にもなっていた谷を下る。

地点Vには達磨口の遺構。

現地解説板によると達磨口には昼には架け渡し、夜には回転させる木橋があったという。現在残る遺構と木橋の関係に想像をめぐらすが難しい。物見台のような高まりがある。

立体写真

達磨口の物見台のような高まりから達磨郭の方角を眺める。この風景の中に木橋がかかっていたのだろうか?

立体写真

達磨口の地点Wから地点Yのある台地を見上げる。「東葛の中世城郭」によると、向台館という小金城の支城があったとされる台地。

向台館があった台地の途中の地点Xから達磨口を見下ろす。

横須賀を歩く

「東葛の中世城郭」によると市が建つほどの町となっていた横須賀。低地の中の砂州上の町。日本歴史地名体系によると、1438年の本土寺過去帳の記録に記される地名らしい。

明治迅速測図にも描かれている道沿いには旧家が並ぶ。

横須賀の集落内には女躰神社。

女躰神社の境内は貝混じりの砂からなる。砂州・砂丘であることが実感できる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?