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さんぽ絵日記 御谷(おやつ)の森

今年は咲くのが遅かったさくらがちょうどあちこちで鎌倉を彩っていた頃、名前だけはよく知っていた御谷おやつを訪れた。

ここは鶴岡八幡宮のすぐ裏手にあり、北鎌倉から鎌倉へぬける通りからも近いので、きっと近くを通り過ぎたことのある人は多いと思うけれど、御谷おやつの奥まで入ったという人は案外少ないのではないか。これまでの私のように。

かねてから、鎌倉の山は書き割りのようだと思っている。海側から八幡さまの方を向いて見ると、鎌倉にはまちをぐるりと囲むように山が巡っていて、それこそが天然の城砦であり、鎌倉がここにある所以。もちろん今では鎌倉七口以外にも鎌倉へ入ることのできる道も、鉄道もあるけれど、基本的には美しい緑の山々にすっぽりと覆われた町が鎌倉だ。

ところが、そんな山々は裏側へまわればたいていどこも住宅地や墓地、ゴルフ場が陣取っていて、木々の生えた山が残されているのは、尾根から斜面にかけて帯状に残されたたいして広くはない緑だったことがわかる。まるで舞台の書き割りのような薄っぺらな山なのだ。

それでもこの書き割りがあることで、町が額縁のように縁取られて、古都鎌倉を美しく見せていることにはまちがいない。そして、この額縁ができたきっかけが御谷おやつであるという。

もともと御谷おやつには、鶴岡八幡宮の僧が暮らす二十五坊という住坊があったのだそうだ。八幡宮は今では神社だけれど、江戸時代までは鶴岡八幡宮寺と呼ばれていて、半分はお寺だった。当時は寺も神社も、神も仏も同列だったので、そういうことはよくあることだった。

明治時代になると神仏分離令によって、神か仏かどちらかにしなければいけなくなり、鶴岡八幡宮寺は鶴岡八幡宮という神社になったため、当時十二あった僧院(坊)はすべて廃止されたという。

戦後の高度経済成長期、東京オリンピックに向けた開発の波が鎌倉にも押し寄せて来て、御谷おやつでも住宅地造成の話が上がった。けれど、古都の風景を愛していた地区の住民から湧き上がった開発反対運動は、鎌倉市民、文化人などへと広がっていく。やがて賛同者の寄付と鎌倉市の援助で開発用地を買い取ることで、開発を押さえ込むことができた。御谷おやつはそのため、日本におけるナショナルトラスト運動発祥の地とされている。

やがて昭和四十一年にはこの運動が元になって、「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法」(古都保存法)が誕生する。現在鎌倉の「額縁」のように見える山々の緑の多くが、この古都保存法で守られている地区で、宅地造成や建物の新築、改築などが届出しないとできないようになっている。

そんな経緯は知っていたものの、実際に今まで御谷おやつを訪れたことはなかったので、この日、北鎌倉から鎌倉へさんぽの途中に御谷おやつの奥へと立ち入ってみたのだった。

谷戸を走る一本道の両側は金網で仕切られていて、立ち入ることはできない。けれども、見渡せる一面には、たんぽぽ、つくし、ほとけのざ、ハナニラ、シャガ、ハナダイコン、ギシギシなどなど、春の野の花が咲き、明るいみどりの原っぱが広がっている。右手の小高い尾根は、きっと八幡宮の裏山だろう。この野原はどうやら今も八幡宮の境内の一部ということのようだ。

正面に見えるむくむくとした小さな山は狻踞峰(さんきょほう・さんこほう)という古くからの霊地で、修行の場だったという。海側から八幡宮を見たときにも背後に鎮座している峰だ。もしもこの山が住宅地になっていたらと想像してみると、たとえ小さな山だけだったとしてもここが残っていることのありがたみがわかる。

両側に春の野原を見ながらまっすぐな道を奥へと進む。金網の向こうの崖下にはやぐらのようなものも見える。道がくねっと折れると登り坂になり、そこには桜の木があって、鳥が蜜を吸ったのだろう、五弁の花びらがガクにくっついたままたくさん落ちていた。

花見の人出で大賑わいの八幡宮からほとんど離れていない場所なのに、ここの静かで人一人いないこと。落ちたさくらは踏まれることもほとんどなく、ひらひらと積もっていた。

坂を登りきったところは美しい和風の建築があり、「抱雲荘」と門に掲げられている。ここは「手島右卿記念館」といい、書家が晩年を過ごした場所だったのだそう。

右手の崖には水がちょろちょろと流れて小川というか風情ある小滝が。

するとすぐに一本道はいわくありげな古いトンネルに吸い込まれる。天井がやたらと低く、入り口は石積みのアーチで、奥の方は岩盤そのままの手掘りのようだ。一応車も通るような雰囲気で、先を覗くとけっこう先に明るい出口が見えた。なんて趣のあるトンネル!鎌倉にこんなトンネルがあったとは知らず、思いがけない邂逅にうれしくなる。

通り抜けたい衝動に駆られたけれど、入り口の脇には「私有地につき関係者以外立入禁止」の看板があったので、やむを得ず引き返す。帰ってから昔の絵地図を見てみると、ひとつとなりの谷戸である西御門のほうへつながっていたらしい。昔は一般の人も通れたのかもしれない。

通ることはできなくても、こんな素敵な場所をたくさん隠し持っているのが鎌倉。いつまでも残って欲しい。

帰り道、原っぱの中ほどにある看板をよく見ると、江戸時代の八幡宮境内の絵図から転載されたかつての二十五坊の様子が描かれていた。山裾に沿って並ぶ十数個の建物。御谷ノ入り口には門があり、山に囲まれた静かな谷は全体が桃源郷のようだ。そして、その雰囲気は今も変わらない。そういえば数年前までの永福寺跡はこんな風だったことを思い出す。

うぐいすが、ほうほけきょうと鳴き、桜吹雪舞う静かな谷戸には、かつてのものは何も見当たらないのだが、新しい建物もほとんどない。訪れる人もなくひっそりとした空白は、ただ昔へ想いを馳せるにはふさわしいと思えた。

御谷(おやつ)の一本道


御谷の森の経緯についてはこちらのページと、「かまくら子ども風土記」などを参考にさせていただきました。


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