見出し画像

さんぽ絵日記 鎌倉大町祭り

祭りの季節がやってきた。

今年は近いのに一度も行ったことがない大町の祭りを見に行こうと思っていた。ここの祭りはたいていわが町の祭りと同じ日程で行われるので、いつもは見にいくどころではない。でも今年はうちの町の神輿が修理中で、縮小開催だったのでチャンスだと思っていた。町内では見ることが叶わなかった神輿をどうしても拝みたかったということもある。

神社としては八雲神社という鎌倉駅からもほど近い場所にある小さな神社のお祭り。八雲神社はほかにもあるので、大町の祭りと呼ばれることが多い。在所の祭りのもろもろが終わったのは夜8時。今からではもう遅いだろうか。とりあえず、その八雲神社を目指す。

途中の交差点で、交通整理の警察官がいたので、これは近いなと踏切を渡ると、突然前方の暗闇から忽然と神輿が現れた。大町の大の字の提灯をいっぱいにつけた華やかな神輿が、静かにすすっと移動してきて、踏切で折り返して元の方向へと戻っていく。お囃子も掛け声もたぶんなかったのではないか。4基の神輿が次々に現れて、悠然と折り返して行った。

迫力の練り歩きを想像していたので、ちょっとあっけにとられて、神輿を追う。鎌倉の、大町の祭りだから、さぞかし観光客で賑わっているだろうと思ったのだけれど、それほどでもないのが意外だった。どちらかというと、ちゃんと住民が参加して、参加する人たちの家族が往来で応援する、という昔ながらの祭りの形が保たれているよう。

神輿を先導するのは大町八雲神社と書かれた提灯。花の形の紋が神社の社紋だろうか。よく見れば神輿を担ぐ人たちの多くがこの花紋を背中に背負った半纏を着ていた。きっちりと帯を締めて、白い半ダコをはき、ねじり鉢巻をしている人がほとんど。得体の知れない担ぎ屋は見当たらないので、ちゃんと担ぎ手は地元の人たちもしくは関係者であるようだ。そして、それほどには練り歩かず、上品な担ぎ方に感じた。もう時間的にだいぶ疲れてきた頃合いだったからかもしれない。

八雲神社の提灯に先導されて進む神輿

折り返した神輿は大町四つ角へ。この角には山車が停まっていて、笛と太鼓の音が聞こえてきた。早いリズムで盛り上がった時に鳴らすお囃子は、わが町のお囃子に、太鼓も笛の節もよく似ている。それもそのはずで、私が住んでいる地区のいくつかの町内のお囃子は、ここ大町の流れを組むのだと言われている。もっとお囃子を聞いていたかったのだけれど、神輿を追いかけて先へ進む。

四つ角を過ぎた神輿は八雲神社へと向かっていき、そこで境内に入るのを待っている。「わっせ、まだまだ、わっせ、まだまだ」ここでは即興なのか、まだまだの声が担ぎ手や周囲の人たちからあがっている。鎌倉では、「どっこいどっこい」の掛け声の神輿が多いけれど、ここの神輿は「わっしょい系」らしい。

ぼんぼりのような絵で飾られた祭り仕様の鳥居の脇には、大きくて時代がかった山車が鎮座しており、こちらでも若者がお囃子を鳴らしていた。一基ずつを鳥居をくぐった神輿のたどりついた境内で何が行われているのか見ようと人垣から覗くと、どうやら境内にたどり着いた神輿はぐるぐると回っている。大きな御神木の周りを、追いかけっこのように4基の神輿がぐるぐるひたすらに、ちびくろサンボのように回っていて、なんだか可笑しかった。そう、この訳の分からなさこそが祭りだ!

しばらく神輿の追いかけっこを見たら満足して、私は宮入りを待たずに帰路についた。

祭りの魅力は訳がわからないところにあると思っている。圧倒的な迫力の神輿、心浮き立たせる囃子は、想像と違う拍子や変化をする。どこに行けば神輿に会えるのか、このあと何が起こるのか、よくわからないままに町をさまよい、突如現れる非日常の世界に酔うのが祭りの醍醐味。

日常からの解放とともに繰り広げられるハレの空間。何十年、何百年と続けられてきたであろう、しきたり、約束ごと、振る舞いには意味なんて必要ない。ただ、それが続いている、そのこと自体が大切な意味なんだ。それこそが祭りを毎年する意味だと思っている。

在所の祭りに何年も参加していると、いつ頃この準備をして、当日はこの時間にこれをして、この時間にはここに行って、と当然のことながら、訳の分からなさは少なくなってくる。それがわが町の居心地の良さと愛着にもつながるのだけれど、なんだかわからないけれどすごい!面白い!という感動はだんだん薄れてくるのも事実。

ということで、今年は久しぶりに訳の分からなさに遭遇して、祭りの本来の意味を改めて確認できたような気がする。

大の字の提灯で飾られた夜の神輿

あとから、友人が送ってくれた写真によれば、私が行く前の時間帯だろうか、4基の神輿を合体して担ぐという場面もあって、これが大町の神輿の大きな見どころらしい。そして、昼間は神輿には提灯はついておらず、担ぎ手の格好も担ぎ方も夜とは違うのだそうだ。

そうそう、こんな風に途切れ途切れの噂のような情報だけが入ってくるのが祭りの面白いところ。それぞれが、それぞれの見方で祭りを見ているし、いつ始まったかすら定かでないほど古くから続いていることの正解など誰にもわかりはしない。

来年はわが町の神輿は無事修理を終えて帰ってくるはずだし、もう大町の祭りを見にいくことはないかもしれない。何のためにぐるぐる回っていたのか、わかる日は来なくていいと思っている。訳の分からなさをただ尊ぶ、それが祭りを見にいく時の正しい接し方だと思っているから。

そして、来年こそ5年ぶりに通常開催されるはずのわが町の祭りにて存分に、訳も分からず続いている、ほかの町の人から見たらへんてこで、ユニークな祭りを繋いでいこう。今からその日が待ち遠しくて仕方がない。

この記事が参加している募集

お祭りレポート

夏の思い出

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?