「人間失格」の男の妻になって…
「人間失格」と言っても太宰治の文芸作品ではない。ある日、突然「人間失格」の烙印を押された夫とその妻の私の話だ。
2010年 12月20日 早朝
私の夫は大動脈瘤破裂による「くも膜下出血」を引き起こした。救急車で搬送された一軒めの病院では手術室が満室だと言う理由で「手術は出来ない」と断られてしまった。しかしその時既に主人の右目は瞳孔が開いていた。当時の私は
「瞳孔が開くことは、死が近いことを意味する」
などとは思ってもみなかった。
夫の事態と「助けてください」と騒ぐ私の前で、救急医はパソコンを駆使して県内の脳神経外科の手術室の空きと手術出来る医師を探してくれた。
「奥さん、ありました!一軒だけ!直ぐに連絡を取ります!」
この医師の迅速な対応のおかげで、遠く県庁所在地の二軒めの病院まで主人は救急車で搬送される事になった。
「搬送中に心臓が止まったら、諦めてください」
まさに一か八かの生命を掛けた賭けだった。
人々の心配をよそに主人の心臓は搬送中も手術中も一度も止まることはなかった。
「クリッピング手術」という脳動脈瘤の根本をチタン製のクリップで挟む手術が一度は成功するが、翌早朝、二度目の大出血を起こして、再び緊急手術が行われた。
二度の大手術を乗り越えて、夫は一命は取り留めたが「遷延性意識障害」(漢字ばっかり 苦笑)となった。
俗に言う「植物人間」になって私の元へ還ってきた。
2011年 3月
「三ヶ月間」という急性期医療の期間を終え、主人と私は追われるように次の回復期病院へ転院することになった。
回復期に入り転院と言っても容態が良くなったわけではない。早い話が、もう現代医療の外科的治療は施しようがないから「ハイ、次ね」とトコロテンのようにポンと次の医療機関へ押し出されたわけだ。
私は何度も何度も「もう少しだけ居させてください」と病院側に懇願した。
しかし、元首相 小泉純一郎氏が厚生大臣の時に発案した「医療改革制度」に基づいて、どんな重病人もその例外にはならなかった。
誤解されないように言っておくと小泉純一郎氏は、好きな政治家の一人だ。
「痛み無くして改革なし」
健康だった頃は「なんじゃ、そりゃ?」と気にもかけなかった政治改革だった。主人が大病を患って初めて、私達夫婦がその「痛み」にスッポリと納まってしまったことを知った。
急性期病院のスタッフ全ての人々に私は今も深く感謝している。なにしろ主人の「生命」を救ってくれたのだから。そんな大恩ある病院に迷惑を掛けることは出来なかった。何故なら、私達が居ることによって次の「助かる生命」が、助からなくなるかもしれないのだから。
しかしそれでも、大手術を何度も乗り越えた主人に三ヶ月間と言う時間はあまりにも短かったと素人の私は思う。
転院する際、主人は外されていた「頭蓋骨」を元に戻され腫れがひいただけの大病人だった。何度も痙攣を繰り返す大病人をストレッチャーに乗せたまま「福祉タクシー」で高速道路を40分以上、私は立ったまま震え続ける夫を支えて、次の回復期病院へ転院させた。
3月9日 小雨の降る、春にはまだ遠い寒い日だった。車椅子に座らせることも繰り返す痙攣で、危険で出来なかった。主人の頭には医療用ホッチキスの痕がまだ生々しく残り、眼さえ開いていない状態だった。気管切開をした喉の穴から漏れるヒューヒューと呼吸をしているか細い音だけが、「俺はまだ生きている」と私に言っているようだった。
私はこの転院先の回復期病院にも、とても感謝している。身体が大きく、いつ発作を起こすか分からない主人を個室へ移動してくれ(最初に入った四人部屋ではベッドが大きくて他の患者さんの邪魔になった)午前と午後に一回ずつ毎日リハビリをしてくれた。
「遷延性意識障害の患者には、とにかく話し掛け、刺激を与えてください」
急性期病院で、そう教わってきた私は毎日毎日、バカのように一人で話し掛け、音楽を聴かせ、オルゴールを鳴らし続けた。
胃ろう食の与え方を覚え、入れれば当然排泄するわけでオムツ交換を覚えた。
そう!「植物人間」は、テレビドラマのように大人しく綺麗に寝ているだけではない。糞もすればゲロも吐く(下品ですみません)
オムツ交換だけは本当に大変だった。なにしろ、まだ80キロ近くあった主人を40キロにも満たない私が、体位を変え尻を拭き、新しいオムツに変える。大の時には、どんなに愛していてもその悪臭に吐き気を催す事もしばしばだった。
しかし生きていて一番恥ずかしいであろう姿を他の人に長い期間晒すのは忍びないと思い、必死になって習得した。
私は責任感と緊張から三度、過呼吸発作を起こして倒れている。酷い頭痛と脚が震えて歩行困難になり、手の指は曲がって変形した。人が身体に酸素が行き渡らなくなると、こんな酷い状態になるのだと初めて知った。
介護していた私の方が車椅子に乗り、主人の病院から別の病院へ搬送された(回復期病院では、急性期の治療はしてくれない)
「人はストレスで死ぬ」
急性期病院のイケメン脳神経外科医が言った言葉の意味がようやく分かった。
主人を私一人で車椅子に乗せられるようになると私達は、毎日病院内を散歩するのが日課になった。朝の8時から夜の8時まで、看護師さんや介護士さん達は私のことを「病院に住んでるね」と言って笑った。
あの当時の私は夫と営んでいた水道事業の職を失い、無職のまま僅かばかりの貯蓄を切り崩しながら毎日病院へ通っていた。
あの日も主人の車椅子を押して病院内を散歩している最中だった。
「あんな人を生かしているから、悪いだよ!!」
突然、歳老いてしわがれた大きな声がリハビリ室に響いた。
私は辺りを見回した。車椅子に座ったお婆さんが、遠くから私と主人を居丈高に見据えて居た。
「えっ?ひょっとして主人のこと?」
(少し認知症なのかな?)
最初はそう思った。
「あんな人を私達の税金で生かしてるから、私達の医療費が上がるんだよっ!年金も下がっちゃうしさ~」
主人と私が、まるでお婆さんに悪いことをしたかのように何度も罵倒された。
そのお婆さんは、リハビリ仲間のあいだでボスのような存在だったから、決して呆けてはいなかった。
「死に損ない!」
「あんな人は早く死ねばいい!」
誰からも愛され、私の誇りだった夫は、度重なる手術と意識障害の為に確かに他人には蔑まされるような姿に変わっていたかもしれない。でも、その病気との闘いの痕は私の元に還ってきてくれた「生命との闘い」に勝った勲章だと私だけは思っていた。
「すみません、すみません」
何度も何度も謝って、その日から散歩のルートを変えた。
「すみません、すみません」
「生きていて、ごめんなさい」
主人の存命中、私は何十回、何百回、何千回、何万回と謝り続けた。
お婆さんが言っている事は間違っていない。確かにそうなのだ。植物人間の夫を生かしておいてもらう為に国は年間、何千万円もの医療費を負担してくれる。もちろん、私も何百万円かは支払うが…。
でもね、でも…
お婆さん
「さんちゃ〜ん、みかん貰って来たよ!」
得意気に玄関に破れたスーパーの袋が置かれた。
中には汚い不揃いのミカンが沢山入っていた。
先にも述べたが主人は元気な頃、水道事業を営んでいた。
「なぁ~に?これ?」
「今日ね、近所のお婆さんの家の水道を直してあげてね、お金要らないよって言ったら、代わりにくれた(笑)」
庭に生えた樹からお婆さんがハサミで切ってくれたのだろう。
「えーー、それって結構な工事じゃない!お金もらわなかったの?」
「だって、お婆さん、お金なさそうだったからさ」
「全く〜」
「いいじゃん!また明日、俺が一生懸命働くからさ」
主人は、そんな人だった。
困っている人が居れば、真っ先に手を差し伸べ、自分より弱い人は支え続けた。
そして私は主人が人の悪口を言っているのを一度も聞いた事がない。
人を羨むな
人を憎むな
人を蔑むな
主人は、よく私に言った。
正にその通りに生き抜いた人だった。
それでも病気になれば、これだけ肩身の狭い思いをしなければならない。
「あんな人を生かしているから、悪いだよ!!」
お婆さんの目に主人はゾンビのように映ったのかもしれない。当時、真っ暗闇の中に居た私にあの言葉はキツかったなぁ~。
「すみません、すみません」
「生きていて、ごめんなさい」
謝る事しか出来なかった。
そうだ!私は、あの時、お婆さんを恨み憎んだんだ。
「なんて常識のない人!」
と蔑んだんだ。主人が最もしてはいけないと言っていた事のうち二つを見事にクリアしていたわけだ。
でも、あの酷い罵倒があったから
「何クソっ!」
「この人を私が治してみせる!」
と頑張れたのかもしれない。
長い長い時間が経って、憎しみも蔑みも風化され、ただの苦い想い出に変わった。
結局、私はこの長い文章で何が言いたかったのだろう(笑)
あぁ、一つだけ言いたい事があった。
今、病気で苦しんでいる人、障害のある人、重病人や認知症の家族の介護をしている人……
何もしてあげる事が出来ない私だけど、これだけは声を大にして言える!
どうせ生きるのなら、
どうか堂々と生きてください!!
私のように謝り続ける生活なんてしないで、堂々と胸を張って生きて下さい。
「生きる権利」は誰にでも平等にあるはずだから…
うん!
「生きてちゃダメ」と言われ続けた主人が生きててくれただけで、勇気や元気を貰えた人が少なくとも此処に一人居る。
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