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「連載小説」姉さんの遺書2

    (夏薔薇~ソニアリキエル〜の章)

「母さん、少し休んだら。あとの事は僕に任せて」
「そうさせて、もらおうかしら」

母を休ませてあげたいのは本音だが、母からこれ以上何の情報も得られそうにないから黙らせたいと言うのも、また本音だった。
二階の寝室の扉を開けると其処だけ時間が止まったようだった。父の古い蔵書や使い込んだリネン類から漂う懐かしい匂いが僕を包んだ。
そう言えば五年前に父が肝硬変で亡くなった時も、母はこの部屋で泣いていた。しかし、ここまで取り乱してはいなかった。闘病生活を共に過ごした中で、ある程度の心づもりが出来ていたのかもしれない。
だが、ふと「血は水よりも濃し」と言う言葉が、僕の頭に浮かんだ。母にとってどんなに愛していても夫は他人で、姉は血を分けた実の子……悲しみの度合いが違うのか。
あぁ、僕はどうしてこんな時にこんな不謹慎な事に考えが及ぶのだろう。

母に普段から愛用している弱い睡眠導入剤を飲ませた。泣きじゃくる母の声が浅い眠りの寝息に変わるまで、ベッドの端に座って僕は辛抱強く待った。

家に戻る前に亮一義兄さんに連絡を取った。
自宅での不審死なので、姉の遺体は警察が連れて行ったと言う。義兄の声は憔悴し、ところどころ掠れながら僕の耳に届いた。
「すまなかった、康司くん。僕が付いていながら、こんな事になって……警察から珠姫が帰って来たら直ぐに連絡するから」
「お願いします」
姉さんを奪った男は、こんな時までスマートで隙がなかった。実家を去る時、振り返ると母が育てる遅咲きの薔薇が主の悲しみを無視するように咲き乱れていた。


「康司さん、これ!」
家に帰ると待ち構えていた幸子が姉からの宅配便を渡してくれた。
「私は席を外すわね」
一杯の珈琲をデスクの上に置いて、二階に上がって行った。
カッターナイフで宅急便コンパクトを丁寧に開封した。姉からはもう二度と贈られる事のない僕への最期のプレゼント。
中には一通の見覚えのある銀行通帳と象牙の印鑑、手紙が二通入っていた。通帳は僕が就職した時に姉が一緒に行って作ってくれた僕名義のものだ。通帳の表紙には、走り書きのような文字で付箋が貼ってあった。
『これを使って』
見ると三百万と端数の金が入っていた。
手紙の一通は僕宛だったが、もう一通は知らない会社か何かの名前が記されていた。
どういう事だろう。
僕は焦る気持ちを押さえながら、姉からの最期の手紙を開けた。
その筆跡は普段の姉の流れるような綺麗な女文字とは程遠いものだった。精神を病むと人は文字まで乱れてしまうのだろうか。



康司さんへ

今まで愛してくれて、ありがとう。
弟としてではないわ。
姉さんは知っていたの。ごめんなさい、貴方の愛に応えられなくて…
姉さんはずっと前から知っていたの。貴方が私を見つめる目が異性に対する雄の目だってこと。
でも卑怯な私はそれを無視してきたの。

ねぇ、康ちゃん覚えてるかしら?
貴方は私に約束してくれたわよね。
姉さんを泣かすヤツは許さない、僕が絶対姉さんを守るって。
忘れちゃったかしら?
そうよね、貴方まだ小さかったもの。
でも姉さんは、とっても嬉しかったの。
ねぇ、康ちゃん
あの指切りは、まだ有効かしら?
ううん、時効でもダメよ。
お願い、姉さんの一生に一度の最期のお願いをきいてちょうだい。
姉さんは死ぬの。今から死ぬの。
泣かなくてもいいのよ。泣かないで。
姉さんは貴方が思っているほど綺麗な女じゃないの。
この心の中に汚い嫉妬が生まれたわ。
姉さんは醜い嫉妬を抱く女になっちゃったの。
嫉妬は汚いわ、自分で自分をもう許せないの。
ねぇ、バカでしょう?
嫌いになった康ちゃん?
あぁ、本題をお話ししなくちゃね。

亮一さんと姉さんが「不妊治療」をしていたのは知っているでしょ?もう十年よ、辛かったわ。本当に辛かったの。
女性としてのプライドなんて粉々になるの。
分からないわよね、男の康ちゃんには。
三度よ、三度もあの人の子供が流れたの
血が、血がね、流れるの…私の子宮があの人の子供を拒絶してドス黒い血の塊になって痛みとともに堕ちていくのよ。生命が堕ちていくの。
姉さん、限界だと思ったわ。年齢的にも精神的にもね。
でも、あの人の家は許さかったの。どうしても家を継ぐ跡取りが欲しいんですって。
今どき、バカげてないかしら、笑っちゃうでしょ。
離婚すれば良かったのかしらね。
でも姉さんには決断出来なかったのよ。

康ちゃんに言うのは酷いわね。
私、亮一さんを愛してたの。
だから妻の座にしがみついていたかったの。

或る日、あの人が若くて健康そうな女の子を家に連れて来たわ。
私は一瞬で分かったの。
あぁ、この娘に自分の遺伝子を残すのねって。
亮一さんが言ったの。
「愛してるのは珠姫だけだ、ごめん。我慢してくれ」
って。
まるで、今から始まる事を正当化するように堂々とね。
それだけなら私、死のうなんて思わなかったわ。
そのお嬢さんが私を頭の先からつま先まで見たの。
まるで「子供の産めない女って、こうなのね」って観察するように、見下すように。
その娘は
「よろしくお願いいたします」
って言っただけよ。それだけ…
でも女の部分の私が我慢出来なかったの。
それから、二人は愛し合うようになったわ。
私には分かったの。亮一さんの中で何かが変化しているって。

悔しかったわ。その時、初めて殺意を抱いたの。
亮一さんにではないわよ。何にも知らないその娘に。

醜いでしょ?汚いでしょ?
それが私なの。
幻滅よね。でもお願いだけはきいて、康ちゃん。
私、嫌なの。
どうしても嫌なの。だからだから死んじゃうの。

ねぇ、お願いよ。
あの二人を裂いて。私が死んだ後にどんな女に子供を産ませても構わないわ。
私、私が生きてるうちに会ったあの娘は嫌なの。

ごめんなさい。
お願いよ、お願い。
康ちゃん、貴方の手は汚させないわ。
ただ電話を掛けてくれればいいの。

姉さんの最期のお願い、康ちゃんなら
きっと叶えてくれるわね。
ありがとう。
さようなら、私の康司。

                珠姫

追伸 ここへ電話を掛けて、もう一通の手紙を渡してちょうだい。
『Cut Ties service』〇〇−〇〇−〇〇〇〇



狂ってる。
姉さんも義兄さんも義兄さんの両親も…
狂ってる……けど…
僕は姉さんの死を知ってから始めて泣いた。手紙を握りしめて声を圧し殺してデスクに突っ伏して泣き続けた。
「亮一さんに殺された」
母の一声は正しかったように思えた。
僕もまた、狂気の淵に立たされているのだろうか。それでも構わない。
姉さん、姉さんの願いが狂っていても、僕は幼い日のあの約束を守るよ。

ソニアリキエルの咲き誇る庭で、麦わら帽子を被った少女の姉さんが微笑んでいる。
「康ちゃん、こっち、康ちゃん、こっちよ」
走る姉さんの後を僕は追いかける。追いかけても、追いかけても姉さんの白い手に届かない。
「ねぇね、僕大きくなったら、ねぇねを守ってあげる」
「康ちゃん、約束よ」
約束をすると始めて僕の指は姉さんに触れられた。
「指切り、げんまん…」
白く細い姉さんの手、姉さん、忘れてなんていないよ。

つづく


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