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天体観測

気がつけばいつだって
ひたすら何か探している
幸せの定義とか
哀しみの置き場とか

BUMP OF CHICKEN『天体観測』

 僕は今、大変困っているし、イライラもしている。さっきからずっと同じ姿勢でいるもんだから、足が痛んでさりげなく体重移動をせずにはいられない。この靴、そういやずっと履いてるよな、俺。
 眼前に見下ろしているのは、無人の赤焼けた海。左右の視界にどこまでも広がっている。ふと遠くに目をやると、水平線の奥から放たれるオレンジ色が目に辛いから、黙って俯いている。いる。いる。…。

 さぁ、そろそろ夜が近いからさすがに帰らなければ。僕は意を決して、隣で静かに呼吸をしているだけにしか見えない女の人に声を掛けた。
「あの、そろそろ帰りませんか。駅までなら送りますよ」
「何か用事でもあるの?それから、ひとりで大丈夫よ」「……。」

 ぐっ。どうせ暇なくせに、とまでは言わないけど用事なんか特に無いくせにと言わんばかりだ。暇でなければこんな道路の脇道で、ガードレールにもたれながら話なんかしない。話し掛けたのも俺の方だという手前、この事態をどう収拾していいのやら、万一の事を考えて交番が浮かんだところで、やおら話し掛けられた。
「わかってる、わかってる。話したいことなんてそもそもあんまりないから安心して。もうすぐ解放してあげるから、とりあえず歩きながら聞く?」

 この人はイライラする程(俺の気が短いのかもしれない)口数が少ない割に、口を開けば遠回しに僕のことを気遣ってくれる。話のテンポは悪いけど、話したら優しい女の人って一緒にいたら楽しいかな…などとうつつを抜かしているうちに、彼女の後ろ姿は大分遠くにあった。日没もだいぶ近い。カツカツと遠ざかる足音を追いかけながら、サンダルを履くにはまだ早い季節なのにな、と僕は思った。 
 
「私はね、」さほど遠くはない駅だ。時間もない。急いで彼女に追いつくと、彼女もすぐに口を開いた。
「人が普通に欲しがるものを欲しいと感じない。というより、色んなことに冷めちゃった。」「…?」

 この人は、ひょっとしたらお金持ちなんだろうか。普通って何だろう。俺の思っていることなんてお見通しだというように、別にわからなくて当たり前だから大丈夫よ、というようなことを言って彼女はまた俺を気遣った。でも、そう呟いてからは深刻な顔で俯いたままだし、何かありそうだ。

 こうまで気遣われると、俺の頭が良くないみたいでシャクだし、こうなったら謎めいたその話の意味をとことん追求してみたいと思い始めた。
「物欲がないって意味?それとも、」「物欲じゃないわ」
「冷めちゃったっていうのは、」「何もかも。私の望むものを欲しがってる人を見ると、どうしてもイライラする」
へぇ。この人でもイライラする事なんかあるんだ。望むものを欲しがる人、横取りされるのが嫌だってことか?せっかちというよりやたらと頭の回転が速すぎる会話の中で、この人の望むものって何だろう?と好奇心がわいた。
さっきからこの人の事ばかり、気になって仕方がない。ネイルとか塗ってる人なのかな。

「言っておくけど、何が私の望みなの?って聞かれても絶対答えられないからね。」「それじゃ話が終わっちゃうよ」「でも、そうなんだもの」

 僕達の周囲はとっくに真っ暗だった。目的の駅はもう目の前だったから、駅の薄明かりのそばで、帰路に着き難い恋人同士みたいに見えてたら悪いよなぁ、いやちょっとくらいそう見えても悪くないかなぁ、なんて想像した。
 ふと彼女を見ると、しゃがんで、アスファルトに小石でもって「A」をゴリゴリ言わせながら書いていた。理解不能だ。隣にしゃがみこむと、俺の履き古したコンバースが目に入って、女の人の前では何だか情けない。

「例えばこの“A”が私の望みだとするでしょ。で、Aを」「Aを?」「私の他に目指そうとする人がいるじゃない?」「うん。他の人が先に手に入れるかもしれないね」

 どうやら俺も、彼女のテンポについていけてるらしい。彼女はうなずいて、架空のAにぐるぐると花丸を付けた。

「私はAを欲しがっているけれど、先に取られても嫉妬はしないわ」「うん」「でも、哀しいというか無念だって、感じて終わり」「うん」

 彼女の“A”は、彼女の思念のごとく、花丸の上から大きなバツを何度も書いたせいでほとんど見えなくなった。だが、バツを引く手つきはとてもとてもゆっくりで、優しかったことを僕は見ていた。君の気遣いってこんなところにも表れるのか。

「君が言いたいのは」彼女が、初めて機敏といえる動きでパッと僕のことを見た。いつも話し始めるのは、あっちだったから不思議な感じだな。期待の念もすごい。僕は脚が痺れてないふりをして、立ち上がる。
「あのさ君はさ、誰よりも先に念願のAを手に入れたとする、」「それで?そうしたら私はどう感じると思う?」彼女は質問を口にしながら見上げたままだ。僕は言う。

「もしかして、全然うれしいって思わないんじゃない?」

 僕は今、彼女とは別の路線電車に乗り込み、ほとんど無人にも関わらず電車口に立ったまま、ゆらりゆらり揺られている。僕らはそれぞれ、ちゃんと帰路に着いた。
 僕と彼女が出会ったのは偶然だ。だが僕が彼女の謎めいた質問に答えられたのは偶然じゃない。だって、最初からずっと彼女は「私には欲しいものがない」って言ってたんだから。でも、それは彼女が自分のことだから理解しきれないだけなのだ。俺だって、何でこんな「ねじれた」感情になるんだ、って自分に問いさえすれば彼女みたいにきっとなる。
 彼女は『幸せとは何なのか』幸せになれないのなら『この哀しみは何なのか』が、わからないだけだと俺は理解している。解いてくれる誰かを探し続けてるのかもしれない。

 もうそこに一生、自分の答えなんか見つからないだろうに。

 俺が、全然うれしくなんかないだろうってことを答えてみせたあの時。彼女は一瞬驚いた表情でこう言って、尻餅をつきながら、大爆笑していた。「あー!だから、イライラする!」
 その後、あっ、電車なくなっちゃうよねってまた気遣いしてくれてたな。変だけど優しい人だった。俺が幸せだって思うものや、望むものなら、今日この手に掴めてるんだけどな。

君が今も探し続けるのなら、神にでも流れ星にでも願おう。(End.)



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