ふたりの“未来から来た”天才と電気/いつも微笑みをまたたかせて
今日は、私の大好きなふたりの天才と…あと実はもうひとり、現代のすばらし科学者のお話をさせてくださいね。
日本では学校で教わることもなかったこともあってか、あまり知られてはいないのかもしれないのですが、19世紀末から20世紀のはじめに活躍したーストリアの発明家に二コラ・テスラという人がいます。
彼の発明は多岐にわたり、とても分野をひとつにまとめることができないのですが、中でも交流電源システムの実用化は最も有名な功績としてあげられています。無線の基盤技術となったテスラの発明は、今日のラジオ、テレビ、ラジコン、インターネット、携帯電話、スマートフォンなどに受け継がれ、他の電気に関する多くの発明も時代とともに多くのものを生み出すことになりました。
現代の暮らしの多くが、彼の発明をきっかけとして与えられているのですね。
テスラとはじめての電気
テスラが電気に興味をもったきっかけは幼いころの愛猫といたときのことでした。ある夜に愛猫マチャクの背中をなでていたら、猫の背後に火花の円盤、自分の手から火花のシャワーを見たというのです。しかも家の中には大音響が響き渡り、驚いた子どものテスラは学識豊かな父に尋ねます。父親も言葉をあぐねてしまいますが、嵐のときに木々に見られる電気と同じだと告げます。
このことに大きなインスピレーションを受けたテスラは、自然は大きな猫なの?ではこの背中をなでているのは誰なの?と疑問を抱き、この背中をなでられるのは神だけだと直観を得たそうです。
生涯をかけて電気という神秘を追い続けたテスラの、幼いからこそ瞬時に自然の本質を見抜いてしまう、それはハートがオープンだからこそ可能な、素晴らしい啓示の瞬間でした。
有機交流電燈
もうひとり、詩の中で電気を象徴として描いた詩人・作家の宮沢賢治。賢治が終生ただ一冊の詩集として世に出した『春と修羅』、その序文はこのような言葉ではじまります。
本当に素晴らしい宇宙観です。
私たちは、自分は自分であって、独立して存在し、他のものとは切り離された確固とした個であると感じて日々を生きています。つながりあっていると思っても、この瞬間の営み、たとえば歩くとか呼吸をするとか、椅子に座ったりグラスを置いたりするささやかなことが、時間も空間も超えてすべてとつながっているとはなかなか思わないのかもしれません。
ですが、賢治は独立した自分という個人などというものではなく、その本質は宇宙誕生からの無限の因果といういのちの連なりであって、自分として存在していると認識するような現象が起こっているのだといいます。
そして、肉体・精神・魂からななる私たちは、死んだあとは魂はすべてのものを創造する無に戻り、そしてまたこの世に他の存在となって生じてきます。輪廻転生というものがありますが、けっしてひとつの魂が次々と転生をするわけではなく、無であるあらゆる情報の様々なエッセンスを携えて転生をしてくるのです。
スマートフォンが壊れたら(肉体が壊れたら)、データをクラウド上に保存して(魂が無に還る)、新しいスマートフォンに移しますよね(転生してこの世に生まれる)。それに似ていますね。
未来から来たふたりのスターシード
あまりに鋭い知性と時代を先取りした発明や予言の数々。テスラは未来から来たとも言われていたようです。
宮沢賢治も、本当に豊かな宇宙観から本質を語りましたが、彼の作品が生前に評価をされることはなく、私の知る限りでは中原中也が賢治が生きているときに、彼の詩の絶賛していたひとりの人だと思います。
賢治は自身を「私は白鳥座のデネブから来た」と言っていたそうです。こんなことを言われて「あ、そうなんだ。ようこそ」なんて言う人、100年以上前の日本にはいなかったことでしょう。
以前、スピリチュアリズムの探究をしていたときに宇宙意識の開発を学んでいました。その目的は「永遠なるものにふれ、自分自身にそれを見いだすこと」です。そのレッスンの中で、北極星が魂の起源とする文化が多数あることを教わりましたが、北極星が白鳥座のデネブとなるのは今から約8000年後です。
賢治は8000年…いえ、もっと先の未来から来たのかもしれませんね。
テスラと賢治…ふたりのように宇宙の魂を持つ人をスターシードと現代でいいます。より具体的には、スターシードとはこの地球に根差した惑星的価値観よりも、恒星的価値観が強い人のことを指し、前者はつながりや絆を大切にし、後者は単独行動と孤独を大切にします。
大衆は自らがおかしいと考えることは決してありませんよね。それは同調こそ善であるからですが、スターシードは常にルールを逸脱するために共通の価値のなかで何かを紡ぎ出すことは苦痛でしかなく、自分のみが感じられる価値を追求するときにこそ生きる歓びを感じられるのです。
テスラも賢治も孤独を愛した人です。情緒が豊かだからこそ、苦しみも悲しみもたくさん感じたでしょう。ですが決して分離した孤立を生ずるようなものではなく、すべてと響き合う光とともに舞うような、孤独の至福を感じる生だったのではないかと思います。
つめたくうららかな蒼穹のはてに
いつも微笑みをまたたかせて…
現代の理論学者、佐治春夫さんは『続・宇宙のカケラ 物理学者の詩的人生案内』の中で、宮沢賢治の詩を紹介し、このようなお話をされています。
仲のよいあえない人たち、もうあうことができなくなってしまった人たち…いいえ、私たちは離れ離れになるなんてできないのですね。今この瞬間も呼吸をするだけで私たちはあっている。どれほど離れていても…ふふ、嫌いな人とも…知らない人とも、私たちは今ここで、この刹那に、あっている。
それどころか古代、生命のはじまり、地球のはじまり、宇宙のはじまり…息を吸うだけでつながっていて、私という現象のなかにとけこむ。ここに孤立など、ひとりぼっちの寂しさも、どこにあるというのでしょうか。それどころか、谷川俊太郎さんが歌うように、「愛されることから逃れられない」。自分なんて愛してもらえない?いえいえ、愛してもらいないなんてありえないのですよ。むしろそのほうが無理な話…なのですね。
賢治は自分の詩が「冷たく透明な食べ物であるように」と願っていました。佐治さんは賢治の見た“青さ”を、人間が他の動物と違って自らの終焉を予測できるからこその「永遠世界への憧れ」「静かな希望への象徴」の色合いではないかといいます。
人々は、はるか昔、ポツンと地上に立つ自分と、見上げる宇宙のどこまでも続く蒼穹の青さを、どのような心情で見上げたことでしょう…
そして、帝釈天のインドラ網も青い光を放っているそうです。帝釈天はインドラ網を宇宙中に張り巡らせ、すべての現象を知ることができます。このインドラ網、インドラネットですが、インターネットの語源なのですよ。
またたく照明と電気、現代とインターネット、未来人がもたらした知恵…テスラと賢治、他にも愛する詩人たち、もちろん佐治晴夫さんも、私は本当に大好きで、あまりに慕わしくて、懐かしくて、うるうると泣きそうになってしまうのです。
佐治さんはこのようなメッセージを私たちに投げかけてくださいます。「日々の生活のなかで、自分を見失いかけたとき、どんなにささいなことであっても、他者に微笑みかけることができさえすれば、それが連鎖となってインドラの網を照らし、明るみへの道しるべになるはずです」…と。
私も、どうしようと不安になったり、病気があまりに苦しくて泣いてしまったり、今でもあります。だけど、どんなに辛くてもその人の前で笑っていたら、その人は「よかった」と思って安心してくれるかもしれないですよね。
だから、決して文句や不満や愚痴は言わない。苦しくても笑っていようと思うのです。
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