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エッセイ:相対主義はひとまずおいて(再考)

みんな違ってみんないい、なら何でもあり。はアカンやつです。
みんな違ってみんないい、でも決断しなきゃならない時もあるよねって話です。


人は自由より隷従を選ぶ

人は生まれ落ちてすぐ、さあ自由に生きろと言われて生きていけるものではありません。赤ちゃんを思い浮かべるまでもなく、人が生きていくためには人が必要です。何が言いたいかというと、人は自由より他者を含めた環境に隷従することを選ぶということで、自分の置かれた環境を、人は無視できません。生きるとは環境によって与えられた選択肢を都度選ぶことだといえますが、選択肢があまりにも多いのが現代。

今や一人一台スマホの時代、アイデンティティポリティクスなどといい、性自認といい、挙げていけば切りがないのですが、コンテンツにしろ政治的アイデンティティにしろ何にしろ、個人主義的価値観抜きには、与えられた選択肢から選び得ないのが現代です。ですので、みんな違ってみんないいのですが、一方で人は何らかの集団に属しておりまして、いわば「全体」主義的な価値観で選ばなければならない時もあると。家族旅行に行く、誰かとご飯に、遊びに行くにも何処へ行くのか決めなければならないし、企業の経営陣は経営方針を決めなければならない。集団の構成員「みんな」でどうするのかを決めなければならない。筆者はこれを「政治」だと考えます。人は個人であると同時に、集団の在り方を決断する政治的な存在であると。

政治が物事を決断するには議論が不可欠ですが、それだけでは片手落ちで、例えば物心ついたばかりの子供が幼稚園に行きたくないと駄々をこねた時、それを受け入れる大人もいるでしょうし有無を言わさぬ大人もいるでしょう。あくまでも決定権は大人にある。政治とは力関係抜きには語り得ないわけですが、どうもこの国の政治は力についてはまともな議論もせずに、正しい決断をしてこなかったような気がしておりまして。正しさとは力を行使する正当性と定義致しますと、途端に黙り込んでしまう。アレルギーみたいなものかも知れません。それとも、過ちを繰り返さないためでしょうか。

国家の役割は国民の生命と財産を守ることで、安全保障でいえば、軍事に限らず、食料安全保障、エネルギー安全保障、経済安全保障、こういった力関係が如実に反映されるマターは、この国に暮らすすべての個人に関わることですので、もっと力についての議論があって然るべきでしょう。その際に、人それぞれ異なる意見があっていいし言論の自由は守られるべきですが、一人の中に個人としての意見と全体に属する個人としての意見、両方あってもいいのではないでしょうか。たとえ矛盾があったとしても、どちらも自分のことだと捉えれば解消します。重要なのはその自覚ではないかと。
しかし、人は政治と無縁に生きているわけではない、などというと途端に説教臭くなりますね。

いや、いいのです。ワイはノンポリやしグローバルにブイブイいわしとるさかい、日本なんてなくなってもええねんというのなら構いません。そんなあなたが羨ましいです。とは冗談ですが。筆者はこの国にしがみついて生きていくしかないので、同意して下さる方が一人でも増えたらと。それだけのことでございます。

以上、実生活ではめんどくさい奴だと思われるので絶対に言わないことを、長々と思いつくままに書き連ねて参りました。お付き合いくださいましてありがとうございました。