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act:22-雪の大多喜 権現坂はスリップトラップ御用心

 昭和52年1月、今年も大多喜に雪が積もった。
都会からの海水浴客で毎年にぎわう勝浦かつうら御宿おんじゅく鴨川かもがわの隣町、我らが大多喜町は、常春の国「南房総」なのに雪が降るというと案外驚かれるんだけど、現に雪は昨夜から降り続き、今朝もまだパラパラと散発的に降っている(※1)。お陰でウチの前の権現坂ごんげんざか通りには既に20cmぐらいの雪が積もってて、まるで雪国みたいだ。
この大多喜は房総丘陵の山の中、さらにこの町ナカは山に囲まれた盆地だ。お陰で夏は異様に暑く、そして冬はこの通りクソ寒い。毎年お正月が終わってしばらくすると、きまってこのようにドカッと雪が降るんだ。
しかしどんなに寒くてもオレは学校に行かねばならない。フリーダムなオレの自由と尊厳を踏みにじる学校は死ぬほど嫌いだが、それ以上に親や先生に怒られるのはもっとたまらない。そんな究極の葛藤の末に今日も渋々学校に向かう決意をしたオレは、トックリのセーター(※2)にマフラーを撒き、長靴を履いて玄関をあけた。もちろん傘も持っているぞ、彼の八甲田山でも遭難知らずの重装備だ。

 玄関の引戸をあけてまずオレの目に飛び込んできたのは、この雪でスリップして坂を登れず、苦しみもがく哀れな一台の自動車だった。
実はオレの家の前の道は、それまでなだらかだった権現坂ごんげんざかがちょうど急になっているところで、今日のように雪が積もった日は、タイヤがスリップして坂を登れない車をよく見るんだ。現に今、オレの真ん前で、坂上の役場に通勤途中の職員さんの車が、タイヤをブンブン空回りさせて四苦八苦しているのであった。

(雪が降ったウチの前の坂道は、ゴキ○リホイホイならぬ自動車ホイホイでした。)

役場はこの坂のすぐ上、嘘偽りなく目と鼻の先で、精々あとわずか10m程で着くというのに、その手前でこうしてタイヤがスリップして坂を登れないとはな、何とも皮肉なものだ、あまりに残念すぎる光景である。
まぁ当の職員さんにしたら、ここまで来たというのにまったく想定外のトラップだったことだろう、罰ゲーム以外のなにものでもないよな。
でもこの職員さんもタイヤチェーンさえ巻いてれば、こんなことにはならなかったんだろうけどなぁ‥、しかしここは常春の国「房総半島」だ、この大多喜周辺の山間部以外じゃ滅多に雪は積もらない、そのせいでタイヤチェーンを持っている人も非常に少ないんだ。今朝はそんな房総人の心の隙をついて大自然が牙をむいた形なんだなぁ。お陰でこの通り、普段はなんてことないウチの前の坂道も、今日は車殺しくるまごろし権現坂ごんげんざかと化しているってわけだ。
‥まぁこの残念な光景は、雪が降った日の我が家の風物詩でもあるけどね。

 しばらくその様子をボーっと眺めてたオレだったが、このままウチの前に自動車を放置されても困る。オレは一旦家に入ると、まだ寝ていた父さんと、一緒に学校に行こうと長靴を履いていた弟クニオに声をかけ、さらにちょうど登校しようと通りかかった隣のユーイチにも声をかけて、その自動車を押してやった。
 「うんとこせぇー、どっこいせぇー!」
掛け声にあわせ、皆が揃って車のトランク部分に体を押しあてて力をこめた。同時に職員さんがアクセルを踏みこむ。
ギャギャギャギャッ!
タイヤは空転しながらベチャベチャの雪をオレたちにぶっかけてくる、まったく容赦ないぜ!
だがそれでもオレは怯まない!なぜならこれは人助け、それこそオレたち大多喜無敵探検隊のスローガン『この町を影ながら見守る正義の秘密組織』の使命である、ましてやオレはこの組織を率いる隊長だ!オレがやらずに誰がやるというのだ(キリッ
そうやって何度か挑戦するうち、車はどうにか滑ってる所を乗り越えることができて、そのまま車体を弱々しく揺らしながらも権現坂ごんげんざかの坂上まで登り切ったのだ!思わずみんなで万歳三唱だ!
4人のおとこたちはお互いの健闘を称え合った。もちろん職員さんにはエラい感謝された。
実はこのひと仕事も我が家の雪の日の風物詩なのだ。
きっとあの職員さんは、近い将来かならずやお礼を持って我が家を訪ねてくることだろう。彼は車を壊すことなく役場にも遅刻せずに済んだが、そのかわりオレたちは車が跳ね上げる泥まじりの雪をこうして被ってるわけだ、クリーニング代を考えても菓子折りのひとつぐらいなら安いもんだろう。それにあの職員さんの車はウグイス色で目立つカローラだ、毎日通勤でうちの前を通過してることは知っているぞ。菓子折りくれないなら見かけるたび物欲しそうに手でも振ってやろう、何なら役場まで追いかけていったっていいんだぞフフフ、フフフフフ。

 「じゃークニオ、ユーイチ、オレたちも学校に行こうか。」
そう思った矢先だった、タイヤチェーンを響かせて、今度は一台の保冷トラックが坂の下からやってきた。トラックは、道の隅によけたオレたちの横をゆっくりと通り過ぎ、この権現坂ごんげんざかをじわじわと登っていく。
ふとその時だった
「うぇ~い、サ~ナ~ダ~♪」
奇妙なかけ声でオレを呼ぶヤツがいるなぁ~と辺りを見回すと、何とそのトラックの後ろ、荷室の扉にしがみ付いた子供が、こっちに向かって手を振っていたのだ。

タダシくんだった。

(タダシくんはトラックの扉に掴まり、私に声をかけてきました。)

いやいやそれはダメだろう!見つかったら怒られるって!!
トラックは、タダシくんを荷室の後部扉に貼りつかせたまま、何ごともなかったかのように権現坂ごんげんざかをゆっくりとゆっくりと登り切り、やがて駅前通りとの交差点で左側に、つまり小学校がある方向にと、これまたスローモーションのようにゆっくりゆっくり曲がっていった。
あのトラックは漫画家がよく泊まりにくるという寿恵比楼旅館すえひろりょかん(※3)手前の新角食堂しんかどしょくどうのジイチャンのだよなぁ。大体いつもこの時間に、タダシくんの家の前の久保くぼ地区の国道を通過してウチの前の権現坂ごんげんざかを越えて、小学校の先のお店まで行くんだよな。
‥ははぁ~なるほどね、タダシくんは雪で歩くのが億劫で、通りかかった新角食堂しんかどしょくどうのジイチャンのトラックの死角にこっそり乗っかって、そのままちゃっかりと小学校まで無賃乗車するつもりだな。
そもそも彼のこの犯罪行為は、新角食堂しんかどしょくどうのトラックの定期巡回コースをしっかりと把握し、そしてジイチャンが町の誰よりゆっくりノンビリ運転する特性を十分踏まえ、さらに無賃乗車時の安全な乗車ポイント、つまり運転席から完全に死角となる荷室後部扉の開閉バーや足を載せるバンパーまでを入念に精査・検討した上での、概ね確信犯的な犯行といえよう。うんうん相変わらずいつものタダシくんだ。
タダシくんは、たまに一緒に遊ぶ1学年上の友だちなのだが、、まぁ彼にかかわるといつもロクなことがない、ひとまずオレは見なかったことにしておこう。記憶からも抹消だ。
だがしかし、こうして朝一番でタダシくんと遭遇したことで、オレの脳裏には何とも言いがたい暗くモヤモヤした感情が沸き起こっていた。例えていうなら不意に目の前を黒猫がよぎったときのような、根拠不明ながらもほのかにいやな予感がする、本能がザワつく感じなんだ。
‥まぁでも考えすぎだな、今朝はスリップしてる車を押してあげたし、これから大嫌いな学校に行かねばならないので、既にオレは心身ともに疲れている。多分そのせいだ、きっとなんでもないさ。

 雪が舞う中を徒歩で5分、オレは今日もテンション下がったままで学校に到着した。もちろんテンションが低いのは雪のせいじゃない、不意にタダシくんに遭遇してしまったこともあるが、それ以前にオレは学校が死ぬほど大嫌いなのだ。故にいつも小学校が爆発四散してこの世から消えてほしいと強く願っているが、これだけ天に祈っても大多喜小学校は今だに爆発するそぶりすらない。いっそ漫画の漂流教室(※4)のように学校ごと文明崩壊後の未来へでも行ってしまってほしいものだ。
‥あぁもちろんその際はオレが学校にいない時にお願いしたい。

 しかし今日の大多喜小学校はひと味違った。
オレはいつものように大嫌いな学校に着いて自分の席に座って早々、一気に目の前がパァッ!と明るくなった!なんと教室の黒板に
『今日は雪のため給食を食べたら生徒は下校します』
と書かれていたのだった!
しかもご丁寧に目立つピンク色のチョークで丸囲みされてるぞ!
どうやら担任の齊藤弥四郎さいとうやしろう先生が、早朝の職員室で決まったことをあらかじめ黒板に書いておいてくれたようだ。
当然クラスの生徒たちはこの話でもちきり!あっちでもこっちでも、この雪で何して遊ぼうかで盛り上がっている。カマクラを作りたい、大きな雪だるまを作りたい、チームに分かれて雪合戦大会をやろうなど、それはそれはにぎやかだ。
そんな中、弥四郎やしろう先生が出席簿を持って教室にやってきた。そして朝礼が始まり、本日の早帰りの方針を生徒たちにあらためて教えてくれたんだ。

(若き日の齊藤弥四郎先生。定年後は「夷隅民話の会」の会長をされています。)

なんでも今日は雪が積もって危ないから、さらにまだまだこれから雪が降りそうだからということで、生徒はみんな給食を食べたら一斉に下校と決まったんだそうだ。
この英断を下したのはどうやら時田校長ときたこうちょうらしい。時田校長ときたこうちょうといえばオレの中では悪の大魔王。なにせ彼は校長だ、言うなればこのオレから常に自由と権利を奪い取る大多喜小学校の最高権力者なのだ。覚えたくもない勉強や不意打ちテストの数々も、彼の指示によるものだというのは容易に想像がつくし、さらに何がいいのか『学校を花いっぱいにする(※5)』という彼独自の理想と価値観の元にオレたち生徒をまるで奴隷のようにこき使い、どこまでも無報酬で野良仕事を強要させるのだ。いつもいつも生徒に鶏糞けいふんだの牛糞ぎゅうふんだのといったとびきり臭い肥料を授業の合間にネコ車で、いわゆる農作業用の一輪車で運ばせては、まったく腹の足しにもならないマリーゴールドやホウセンカ、様々な色のチューリップ、サルビア(※6)などの植物を、せっせせっせと学校中に植えさせるというトンでもないやみ伯爵はくしゃく、それが時田校長ときたこうちょうだという認識だったのだが‥、ところがどっこい、校長はずっと敵のふりして皆の目を欺いてきたが、その実はどうやらオレたちの味方だったようだ!
そんな彼の真意が今のオレにはわかる、わかるぞ!本日この一際早い集団下校のその隠された真実とは、つまりこういうことだ
『せっかくの雪だ、せいいっぱい遊ぶのだ私の可愛い教え子たちよ』
うん、まちがいない!人一倍聡明なオレだからこそ、今回の校長の気持ちが手に取るようにわかるのだ!

(時田校長は、自然を大切にする心を教えてくれた、とてもやさしい方でした)

時田校長ときたこうちょう、今まで色メガネごしに校長を見ていたようですたいへん申し訳ありませんでした、本日オレは考え方をあらためました!貴方様はなんと素晴らしい先生なのでしょう、さすが我ら生徒の目指すべき真の大人の理想像!今日から私は、誰より校長をお手本に生きていきたいと思います!
きっと21世紀の未来の大多喜小学校では、二宮金次郎にのみやきんじろうの石像の隣に、その偉業を称えた時田校長ときたこうちょうの胸像が誇らしげに立てられていることでしょう。オレはそんな歴史に残る偉人の傍で、その歴史が生み出される瞬間に今まさに立ち会えているのかもしれません!いやいや感無量でございます!

‥まぁ偉人の話はそんなところでいいか、一先ずは置いとこう。
何にせよアレだ、ようは本日午前中の4時間目までの授業に耐えて給食を喰ったら、オレたちゃみんなパーリィタイムというわけなのだよ!
イヤッホーーイ!

1977年(昭和52年)1月、
小学4年生のオレの雪の想い出は、まだまだゆる~く続く。
しかし先に言っておこう、オレが早朝に感じた不穏な予感だが、やはりこの先みごとに的中したのであった‥。

【注意】登場人物名及び組織・団体名称などは全てフィクションであり画像は全てイメージです…というご理解でお願いします。

【解説】
(※1)昭和後期、平成時代の前ぐらいまでは、大多喜町ではいつも1月を過ぎた頃にドカッと雪が降り、案外積もったのを記憶している。最近では雪は降ってもあの頃のように派手に積もらないようだ。
(※2)トックリのセーターとは、所謂タートルネックのセーターのことだ。昭和の頃は、徳利とっくりの口の形状に似ているこのセーターのことを「トックリのセーター」と呼んでいた。
(※3)旅館寿恵比楼すえひろは、漫画家の白土三平しらとさんぺい氏、つげ義春つげよしはる氏たちがよく利用した宿としてファンの間では有名である。現在は廃業し、建物は2019年に取り壊された。この旅館についてはこちらの物語にも登場する、ご参照されたし ↓
act:10-オレのなつやすみ 夷隅川の川下り【冒険編】
(※4)『漂流教室』ひょうりゅうきょうしつは、1972年から1973年にかけて少年サンデーに連載された楳図かずお氏の漫画。
荒廃した未来世界に小学校の校舎ごと送られてしまった主人公の少年・高松翔をはじめとする小学校児童たちの生存競争を描いた作品である。
Wikipediaより抜粋
(※5)当時の大多喜小学校は、校内敷地各所に設けられたたくさんの花壇に、それはそれは色とりどりの花を生徒主導で植えていた。この話に登場する時田校長は、子供たちの情操教育、命を大切にするという意識を持たせるためか、とても熱心に指導にあたられていたのを記憶している。この大多喜小学校の花壇は、当時非常に高い評価を得て、確か県か夷隅郡が主催の「花いっぱいコンクール」で優勝した。
そして文中、時田校長をはじめ、小学校自体をかなりディスっている私だが、これは単に当時の私が勉強ぎらいなダメっこだったからである。学校は大切だ、日本の教育制度は誠に素晴らしい。歳を喰うごとに、そのありがたさをひしひしと感じる。それ故に今の私は、自分の子供には学校でしっかり勉強せよと口うるさく言っている。
(※6)文中に登場した植物「マリーゴールドやらホウセンカ、様々な色のチューリップ」は勿論食べられないが、この中では唯一サルビアは蜜が吸える、当時の私たちはこぞってこの蜜を吸いまくっていた。

※昭和のオッチャンから令和のチビッ子たちにお願い
文中のタダシくんのように、タクシーがわりにトラックの背後に掴まって移動するなんてことは、本当に危ないので絶対やらないように。
※ちなみにこのお話の続きは、また何回か後の更新で予定しております。

大多喜町MAP 昭和50年代(1970年代)

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