あのときわたしは一生ぶんの汗をかいた
これからする話は、およそ20年ほど前にお手伝いしたイベントでおこった大事件のことだ。
あるイベントが、当時住んでいたわたしの町で企画された。
たまたまその町で仕事をしていたこともあり、お世話になっているかたに「やってみない?」とボランティアに誘われた。
内容は、町の復興創生のための朗読と音楽のイベント。
有名な著者をお招きし、みずから朗読していただく。それにあわせてプロのピアノ演奏が奏でられるという企画が持ち上がった。
会場はグランドピアノを入れると、200席ほどのギャラリーホール。
わたしは舞台袖で会場アナウンスすることとなった。
ところが、どういうわけかその著名人の出演交渉を任されてしまった。出演交渉のメールや電話のイロハもわからない。「わたしでいいのか」と言っている間もなく電話。そんなわたしの混乱ぶりも町のことも伝わってかわいそうに思ったのか、奇跡的に出演のご承諾が得られた。
課題は、出演料や旅費のこと。すごいかたが本当にいらっしゃるとなって、イベント実行委員たちは大慌て。あれだけ「いらしていただけたら、すごい素敵やね!」と言っていたのに、なんでやねん!
決まったとなれば出演料以外にも広告費、会場費、グランドピアノレンタルや調律のお金を工面しなければならない。
万事休す。
そこに、たまたま取材にきた新聞記者が「後援」を依頼してみてはどうかとアイデアをくださった。
気づけば、わたしは県の助成事業採択審査会場で立ち上がって質問に震えながら答えていた。これまた、採択されるという超ミラクル。
さぁいよいよ、調律師を探すことに。
インターネットで見つかったかたにおずおずとご無理をお願いした。
するとご出演のお二人の大ファンと言うではないか!
少ない予算にも関わらず、二つ返事でお引き受けくださった。
実行委員のメンバーは、めくるめくミラクルに感動しっぱなし。
まだなにも始まってもいないのに、連日乾杯の勢いだった。
そしてチケット完売。
いよいよ本番当日朝、予定通りレンタルピアノが到着。
「これ、階段がせまくて斜めになると思いますが、2階までよろしくお願いします。」
「はいよ」
ピアノ搬入業者のベテランおじさんは、慣れたもの。
ところが…
「よいしょ、よいしょ」
ついさっき、抱えて上がったピアノをそのまま抱えて1階に降りてくる。
「お姉さん、入口、入りませんで」
「え!! 測ったはずです」
「ドアの蝶つがいがひっかかるんですわ、3センチ」
「でも、午後にはライブが…」
「そりゃ、わかってます。入らないものは入らない」
「ど、どうしよう」
この時点で、リハーサルまであと3時間。
オロオロするわたしをしり目に、ベテランおじさんはひとこと。
「バラしますわ」
か、解体てか?!?!
たとえ調律ずみでも、トラックで運ばれた時点でグランドピアノの音は狂う。そのために調律師をお願いしている。
それが、さらにバラバラになったらどうなるか。
自分でも血の気が引くのがわかる。すぐに調律師に連絡をとり、会場に急行していただくことに。
グランドピアノの調律は、2時間~2時間半はかかると言われていた。それ以上の時間になることは間違いないだろう。
2階に運ばれたピアノが元の姿になったころ、小走りで調律師が到着。
大汗かいての調律が始まった。わたしはもう身の縮む思い。調律師は笑顔で「やりがいあります!」
神がここにいらっしゃった!
いっぽう、本来の役目である会場アナウンス。もう、朝から何もかもうわの空。とにかく午後は、持ち場を全うすることだけに気持ちを何とか切り替えた。
いよいよ幕が開いた。大きな大きな拍手!
それはそれは素晴らしい舞台で、夢のような時間。そのなかでアナウンスしているわたしも現実のものとは思えず、興奮していた。
そして、無事舞台は成功のうちに幕を閉じた。
最後のアナウンスを終えた途端、わたしは立ち上がることができなかった。それまで止まっていた血が、ドクドクドクと一気に身体に流れだし急に体重がドーンと感じられたからだ。
いさぎよく解体した搬入のおじさん、大粒の汗をかいて調整してくださった調律師、スポットライトを浴びる演者のおふたり…。このすべての出来事が、たった5時間のあいだに起こったとは到底思えない。
わたしは、「たった3センチ」で一生分の汗をかいた。
どうでもいいことだが、今年冷蔵庫を買った。
玄関がせまいので、搬入のお兄さんはしばし考えている。
「この蝶つがい、はずしていいっすか?」
「どうぞ、どうぞ。なんでもどうぞ」
搬入があっという間に終わり、ふと下駄箱を見ると見慣れぬ金具。
「お兄さんが戻し忘れた金具だ。つけてくれたらいいのになぁ」と言った夫に、「冷蔵庫が入ったんだから、それくらいイイんじゃない」と言った。
一生分の汗をかいたのにくらべれば、我が家の玄関の蝶つがいをはずすのは完璧!ありがたい。
あれからいろいろな仕事をしてきた。そのうちに現場のプロがハプニングが発生すると「はい、イベント発生!」と言っていることを知った。
「イベントは、ハプニングありきで臨め!」という戒めと、周りを落ち着かせようとしてくれる言葉でもある。
舞台裏では、いろんな人の熱い気持ちがミラクルを起こし続ける。けれどハプニングは蝶つがいでも起こる。
20年近くたっても、あのときの怖さは忘れることができない。
たかが3センチ、されど3センチ!!
仕事の大小にかかわらず、たくさんの人がそれぞれの分野でプロ魂を発揮するのを垣間見た貴重な日。未熟なわたしをあのとき助けてくださった方々には、足を向けて眠れない。皆様が本当に神様仏様に見えた。
そしてわたしは、新しい場所に行くとドアの蝶つがいを見るへんなクセがついた。
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