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宮崎県北の里山で、ヨーガの学びと実践の場づくりをしています。 ヨーガマールガ https://satoko-donco.sakura.ne.jp/cby/yoga/zagaku Threads https://www.threads.net/@sami.yogamarga

マガジン

  • スワミジカレンダー

    SPIRITUAL HERITAGE OF INDIAから選ばれた31の言葉からなるスワミジカレンダー。 スワミ ダヤーナンダジが一般の聴衆向けに話された言葉は、やさしくも奥深く、聖典を学ぶ私たちにとって宝物のような言葉です。 スワミジの仰っていることをより理解し、自分の言葉でも話せるよう、私なりに解説を書いてみようと思いました。 ヴェーダーンタを学ばれている方や、これから学ばれる方のご参考になれば幸いです。

  • 八支則のヨーガ(ヨーガ・スートラ)

    パタンジャリ著『ヨーガ・スートラ』で紹介される八支則のヨーガ(アシュターンガ・ヨーガ)について、先生から教わったことをまとめています。 自分の理解が至らない点も多々あるかと思いますので、一生徒の理解としてご参考までによろしくお願いします。

最近の記事

  • 固定された記事

#37 ヴェーダを学ぶ意味

以下、個人的な意見ですが、ヴェーダの教えを学ぶ意義を自分なりに言葉にしてみました。 社会から失われたダルマの価値 村のコミュニティが機能していた時代は、どこの集落でもダルマ(秩序との調和)に通じた長老のような人たちがいて、その人たちがコミュニティの精神的な拠り所となり、道徳・倫理という形でみんなが「ダルマとは何か」を自然に学べていたのだと思います。 村を訪れる旅の僧侶や賢者から、「有り難いお話」のような形で学ぶこともあったと思います。 ヴ

    • スワミジカレンダー 19【イーシュワラ11】

      「神とは何か」が探求であって 「どこに神がいるか」ではありません。 なぜなら、もしあなたが「どこに神がいるのか」と言うなら、神が姿を持つものだとあなたは既に決めてしまっているのです。 その人がどこかの空間に居場所を持っていて、感覚器官や考えや体を持っている人であると見なしているのです。 そのときに限り、「その人はどこにいるのか」と、あなたは尋ねることができます。 また、「そんな人はいない」と言えるのは、あなたがその人を知っているときた

      • 八支則のヨーガ 2.5【イーシュワラ・プラニダーナ】

        イーシュワラ・プラニダーナ イーシュワラへの献身・理解・熟考 カルマ・ヨーガの練習がイーシュワラ・プラニダーナ イーシュワラを想って行いを捧げる態度(アルパナ・ブッディ)、結果をイーシュワラからのプラサーダと受け取る態度(プラサーダ・ブッディ)、つまりカルマヨーガの実践、練習がイーシュワラ・プラニダーナです。 「イーシュワラとは何か」がわからなければイーシュワラを想うことはできませんので、スヴァッデャーヤ、聖典の学習がイーシュワラ・プラニダーナには必要です。 またイー

        • 【書評】超入門『バガヴァッド・ギーター』

          バガヴァッド・ギーターを学んでいることをお伝えすると、「おすすめの訳本はありますか」と尋ねられることがあり、いつも返答に困っていました。 ギーターなどインドの聖典と呼ばれる書物は本で独学するものではなく、「先生のいる先生」の下で年月を掛けて学ぶものとされているからです。 そうでないと、詩的に訳された美しい言葉に、何か大事なことがわかったような気になるけれど、実際はギーターの教えを理解するのではなく、すでに自分の知っていることをギーターに言わせてしまうということになりがちです

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        #37 ヴェーダを学ぶ意味

        マガジン

        • スワミジカレンダー
          19本
        • 八支則のヨーガ(ヨーガ・スートラ)
          10本

        記事

          八支則のヨーガ 2.4【スヴァッデャーヤ】

          スヴァッデャーヤ 聖典の勉強 聖典とは ヴェーダ(ヴェーダの結論部分であるウパニシャドを含む)と、ヴェーダの教えに矛盾することなく書かれた作品(マハーバーラタ、ラーマーヤナなど)が「聖典」と呼ばれます。 ヴェーダとは知識体(知識の集合体)を意味する言葉です。 オリジナルのヴェーダは人間が一生では学び切ることができないほど膨大であるため、より人々がヴェーダの教えを学べるように、聖者ヴャーサによって4つのヴェーダに分けられました。 それぞれの家系で4つのヴェーダのうちの一つ

          八支則のヨーガ 2.4【スヴァッデャーヤ】

          スワミジカレンダー 18【イーシュワラ⑩】

          私は行いにだけ選択を持っています。 結果には私の選択はありません。 「うまくいかなかったらどうしよう」 という恐れは、無知と妄想から生まれています。 なぜなら、結果は法則によって統括されていて、その法則は私が作ったのではありません。 もし私がこの物事の秩序体系の中にある自分を見ればどうなるでしょう? 空気や水が与えられています。 体や考えといった、知るための機能も与えられています。 すべてのものが与えられていることを私は観ます。 実際、どこまでか

          スワミジカレンダー 18【イーシュワラ⑩】

          八支則のヨーガ 2.3【タパス】

          タパス 修練 バガヴァッド・ギーター2章48番の詩では、ヨーガ(カルマヨーガ)の定義が述べられています。 この世界で起こる出来事は、「暑さ・寒さ」や「出会い・別れ」といった避けようのない二極の側面があります。 「時間」という法則の中、始まったものは必ず終わるし、得られたものは必ず失われます。 摂理としての二極性(二極に見える性質)はあっても、本来物事はすべてニュートラルで「良い・悪い」「正しい・間違い」などの二極はありません。 「出会いがよくて、別れは悪い」ということはな

          八支則のヨーガ 2.3【タパス】

          八支則のヨーガ 2.2【サントーシャ】

          サントーシャ 知足 アパリッグラハの話題とも重なりますが、所有の願望の対象には、「必要なもの」と「必要だと思っているもの」があります。 「必要なもの」は身体を維持するため、家庭や社会でのダルマ(役割・義務)を果たすために実際に必要なものです。 「必要だと思っているもの」は、「それがあったら安心、満足、幸せ」など、その物の持つ客観的な価値以上の価値を上乗せしているものです。 例えば、職場に通うために車が必要であれば、車は必要なものです。 ですが、「人にすごいと思われるた

          八支則のヨーガ 2.2【サントーシャ】

          スワミジカレンダー 17【イーシュワラ⑨】

          人生に失敗はありません。体験の数々があるだけです。 私たちは体験から学ぶのであって、失敗から学ぶのではありません。 一旦行いがなされたら、結果は法則によって処理されます。 法則は私の考えが届かない未知の宇宙全体にも満ちています。 人類が法則の全てを知る事はないでしょう。 その必要もありません。 確かな事は、物理学の領域の法則も、生物学の領域の法則も、生態学や、生理学や、心理学の領域の法則も、さらにはダルマの法則も、一人のイーシュワラをさまざまな側面

          スワミジカレンダー 17【イーシュワラ⑨】

          八支則のヨーガ 2.1【シャウチャ】

          シャウチャ 清らかさ シャウチャには、バヒル・シャウチャ(外側の清らかさ)とアンタル・シャウチャ(内側の清らかさ)の練習があります。 バヒル・シャウチャ 外側の清らかさ 外側の清らかさには、三つの側面があります。 ①清潔に保つこと ②整理整頓すること ③綺麗に着飾ること 特に女性であれば、綺麗に着飾ることもシャウチャと言われます。 ヒンドゥー(ヴェーダ)の文化では、私たちの体も神が宿る神殿と考えられます。 大事なゲストを迎える時には家を綺麗に片付けて飾るように、体に

          八支則のヨーガ 2.1【シャウチャ】

          ヨーガ・スートラとバガヴァッド・ギーター

          ヨーガと出会って体や心の変化を感じ、なんだか自分にとってヨーガが大事なものに思えて、もっと学んでみたいと思った時、多くの人が手に取るのが『ヨーガ・スートラ』だと思います。 「入門書」と思われがちなヨーガ・スートラですが、実際はサンニャーシーと呼ばれる出家修行者に向けて書かれた、瞑想に特化したテクニカルな経典です。 「ヨーガ」は語源、文脈によっていくつかの意味があり、ヨーガ・スートラにおける「ヨーガ」は「サマーディ 完全な心の集中」の意味で使われています。 (後述のバガヴァ

          ヨーガ・スートラとバガヴァッド・ギーター

          八支則のヨーガ 1.5【アパリッグラハ】

          アパリッグラハ 貪欲さのないこと 所有の欲求には、二種類あると言われます。 一つは「持っていない物」への欲求で、もう一つは「持っていないと思っている物」への欲求です。 例えば、家や食べ物、着る物などは人が安心して生きるために最低限必要な物です。 あるいは、仕事で使う道具なども、社会に貢献するために必要な物で、それらを持っていないとしたら、求めることに問題はありません。 「必要な物」で「持っていない物」を求めることは貪欲さではなく、自然な欲求です。 「持っていない物」を

          八支則のヨーガ 1.5【アパリッグラハ】

          八支則のヨーガ 1.4【ブラフマチャリヤ】

          ブラフマチャリヤ 禁欲の誓い ヴェーダの文化では伝統的に人生の4つのステージがあります。 ブラフマチャリヤ 学生期 グルハスタ 家庭、仕事期 ヴァナプラスタ 林住期、隠退準備期 サンニャーシー 隠退期 先生の下でヴェーダの学びに専心する「学生期」のことをブラフマチャリヤと言います。 先生がヴェーダの言葉によって明かす主題は、「イーシュワラとは何か」です。 また最後のステージであるサンニャーシーは、家庭や社会での全ての役割を手放して、聖典の学びを完成させるためのステ

          八支則のヨーガ 1.4【ブラフマチャリヤ】

          スワミジカレンダー 16【イーシュワラ⑧】

          妄想のない、あるがままを見て生きる人であるために、 イーシュワラを生活に持ち込まなければなりません。 嫉妬も怒りも全ての感情が、イーシュワラの現れた姿であると理解するなら、もはや私は嫉妬でも怒りでもありません。 違いますか? 私は物事をイーシュワラの現れた姿だと客観的に見ています、つまり、私は客観的な見方を用いました。 世界があるところに神はいます。 空間は神です。 風は神です。 火も水も土も神です。 音や触感や色や味や匂いも神です。 体は神で、

          スワミジカレンダー 16【イーシュワラ⑧】

          八支則のヨーガ 1.3【アステーヤ】

          アステーヤ 盗まないこと ステーヤ(盗むこと)のないこと(ア=否定の接頭語)がアステーヤ。 「自分は物を盗んだりしないから大丈夫」 と思っていても、「してもらったことに正当な対価を払わないこと」もステーヤだと言われます。 あるいは、自分のストレス発散のために相手にとって有益でない話を長々と聴かせたり、待ち合わせの時間に遅れたりすることも、「相手の時間を奪うこと」になってしまいます。 また、喜んでいる人に水を差すような言動も、「相手の楽しい気分を奪うこと」になりますし

          八支則のヨーガ 1.3【アステーヤ】

          スワミジカレンダー 15【イーシュワラ⑦】

          世界は、神が作者であり材料です。 ですから世界は100%、神自身が現れた作品です。 これが、神だけがあるという理由です。 あなたが眠りに入るとき、時間や空間をはじめとするどのような物も体験しません。 もちろんあなたはいるのですが、その崩壊状態の中で、あなたによって形がいっさい体験されていないのです。 これがスルシュティ、つまり、宇宙の現れ、宇宙創造が始まる前の状態です。 あなたはここから少し目覚めて夢の状態を体験します。 そこにはス

          スワミジカレンダー 15【イーシュワラ⑦】