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『優雅で感傷的な日本野球』の変換装置

高橋源一郎『優雅で感傷的な日本野球』河出書房新社 1988年

『さようなら、ギャングたち』(1982)単行本第一作
虹の彼方に』(1984)
『ジョン・レノン対火星人』(1985)
『優雅で感傷的な日本野球』(1988)…と続く。
なめらかで諄諄くどくどしく情緒的で無味乾燥。それは言語そのものを扱っていながら言語で表現している、その滑稽を承知した上で書いているからだろう。
以下、その自在さを見る。

変換装置

作中作で、作家が書いた文章がルナール『博物誌』の流用だという指摘を受ける。彼は自作と博物誌を読み比べるうちに「まるで『博物誌』そのものじゃないか」と気づく。それは『博物誌』的変換の能力であると。
わかりやすく言うと、何かの出来事を文章化する際に、彼は『博物誌』の記述のようなスタイルで自動的に表現する、『博物誌』っぽい変換装置を自らに備えているということ。

「ランプの光で、書物の今日のページを綴っていると、微かな物音が聞こえてくる。書く手を休めると、物音もやむ。紙をごそごそやり始めると、また聞こえてくる。
 鼠が一匹、目を覚ましているのである。」

『優雅で感傷的な日本野球』p15

  上はルナールの文章。変換されると、↓

「蛍光灯の下で、原稿用紙に向かっていると、微かな音が聞こえてきた。ペンを止めると、その音も止まる。また書き始めると、再びゴソゴソ。 彼女が目を覚ましているのだ。」

同書 p15

「彼女は庭の真ん中を気取って歩き回る。」
 歩きまわっているのは「七面鳥」です。

同書 p19

上はルナールの文章。変換されると、↓

「彼女は部屋の真ん中を気取って歩き回った。まるでボーイ・ジョージのように。」

同書 p19

作中作において、その作者は変換例をいくつも羅列していく。その箇所を抜き出したノートを読み上げて、「わたし」(ランディ・バース)は「 野球には複雑なサインがあるってことを書きたかったんだと思う。サインは野球にとってすごく重要なことだからね」と分析する。つまり、
  ルナール『博物誌』→作中作の小説→「わたし」の分析→本書
という構造。つまり変換装置によって、数回の置き換えがなされている。

著者については、もっぱら既存のテキストに対する肉薄と変容を通してのみ作品を成すという批評もあるようだが、能力の有無はともかくすべては予め宣言済みのことではある。

奔放な連想ゲーム

精神病院の患者である「監督」が、「日本野球」を創造した「エケレケセマッタ」神のひどく冗長な物語を語る場面。それはどんな神話辞典にも取り上げられていない特殊なパターンをもつと言う。

いいや、多分聞きちがいではありませんのですじゃ。若い刑事さんがわしの話にちょっかいをだしていたほんの僅かな間に、「ネクロノミコト」は「ネリラリラン」に姿を変えてしまわれたのじゃ。この最初の神は非常に変化しやすい神として有名だったのじゃ。わしの調べたところでは、この最初の神は一秒間に二億回も変化したそうじゃ

同書 p148

神話素を突き抜けていく、新神話素がここにある。
言説の中の言説が、言説の時間軸で変化してしまうアクロバット。

父さん、こうやって僕たちはあらゆるところに出かけ「日本野球」しました。つまり、交換したり、省略したり、引いたり、削除したり、割ったり、抹消したり、取り消したり、縮小したりしたのです。僕たちはどこでも大いに歓迎されました。

同書 p167-168

重要なことは姿形を変え、何度でも語られる。
自らを指し示す指である。


この本を読んで野球を見ると、すべてが言語や記号や符号に見えてくる。
世界のすべてのものから雑味を取り除いていくと、平坦な記号に変換されるのかもしれない。

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