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2023.12.11 【全文無料(投げ銭記事)】人はどうすれば生きがいを得られるのか

いま、日本でも世界でも、人と人との『分断』が問題となっていますが、今回は、同胞とも先祖とも切り離された『負荷なき自己』か、縦糸横糸のつながりの中での『位置ある自己』か、共同体の中で、どう自己実現できるのかをハーバード大学のマイケル・サンデル教授の著書を参考に、筆者なりの主張を書き綴っていこうと思います。

外国人に地方参政権を与えるべきか?

私には、友人に在日韓国人女性がいますが、彼女は常々、住民税を払っているのだから地方参政権ぐらいは認めるべきだと言います。

しかし、住民税というのは警察や消防、学校、図書館などの住民サービスに対する対価であって、それを払っているから、その自治体の意思決定に参加できるということではありません。
例えば、マンションを借りている人が家賃を払っているからと言って、所有者たちの管理組合には入れないのと同じ理屈です。

と、上記の話をした時、彼女はこう言いました。
「国とマンションは違う」
「自分は日本で生まれたのに、両親が偶々韓国籍で、そのために地方参政権も持てないのは、同じ人間として差別じゃないか」
と。

しかし、これは日本でもリベラルの人が、よく主張することと一緒です。
彼らは『国民』ではなく、『市民』という言葉を使いたがります。
「同じ市民同士なのに、なぜ国の違いを持ち込むのか、もっと『開かれた社会』になるべきだ!」
といった内容のように。

慰安婦問題で謝るべきか?

また、『慰安婦問題』について、どう思っているのか彼女に聞いてみると、
「日本は戦前から韓国に対して植民地統治をして、それらの酷いことをしたのだから、補償をする必要がある」
と言います。

これを聞いて私は、やはり日本の左翼と同じ主張だと感じました。
まず、慰安婦問題は歴史的なプロパガンダであることは、既に史実で明らかになっています。
ただ、今回は、仮令たとえそれが史実だったとしても、左翼の主張が“論理的に破綻”しているということを述べておきます。

まず、日本が国籍の違いに捉われず、外国人にも平等の権利を与えるべきだという考えは、日本人も韓国人も生まれた国の歴史や文化に関係なく、同じ人間として扱われるべきだというリベラルな人間観に基づいています。

そういった人間観なら、私たちが生まれる前に先祖のした行為は私たちには関係ありません。
仮令たとえ我々の先祖が彼らの先祖に酷いことをしたとしても、お互いに生まれる前のことなのだから、私たちには何の責任もありません。
だから補償する必要もないわけです。

逆に、私たちが先祖の行為についても責任を負うべきなら、その子孫として先祖の遺産も引き継ぐ権利があります。
現在、他国に比べ安心安全で高い生活水準にある日本は、私たちの先祖が残してくれた遺産なのだから、今頃になって、他国民が勝手に入ってきて、その一部でも享受することは許されません。

こう読まれて、狭小な愛国主義者だと受け止める方もいるでしょうが、もちろん在日韓国人の方でも、きちんと日本国籍を取った人は別です。
国籍が簡単に取得できてしまう問題は別として、当然、我々の同胞として同じ日本国民になり、地方参政権だけでなく、全ての国民としての権利を享受できます。

昔から日本では、半島から戦乱などを逃れ、朝廷に忠誠を誓った人々は天皇から姓と土地を与えられ、朝廷で活躍した人々も多くいました。
日本は帰化人にも開かれた国でした。

しかし、在日韓国人でありながら日本国籍を取らないということは、我々の同胞になることを拒否しているということになるわけですから、当然、同胞として同じ権利を持つことはできません。
日本国籍を取得するということは、日本の歴史を引き受けて、先祖の遺産も負債も自分のものとして受け継ぐということです。
これは、他国であっても同じことが言えるでしょう。

『負荷なき自己』と『位置ある自己』の使い分け

『白熱教室』で有名なハーバード大学のマイケル・サンデル教授は、こういった人間観を『位置ある自己』と呼んでいます。
自分を先祖から子孫への縦の繋がりと、家族や地域、国家の中での横の繋がりの中でも自己を位置づける。
そういった縦糸と横糸が成す織物の中での『位置ある自己』という意味です。

それに対して、前に述べた祖先の歴史など関係ないという人間観を、教授は『負荷なき自己』と呼んでいます。
先祖からのしがらみや子孫への使命、隣人同胞への責務などの『負荷』から完全に解放された自由な個人という意味です。

私たちが『負荷なき自己』なら、他国民が自由に入ってきて同じ権利を享受するのも平等だろう。
しかし、それなら先祖のことについても、私たちには全く責任はありません。
だから歴史問題など全然関係ありません。

私たちが『位置ある自己』ならば、私たちの同胞に入るためには、一緒に『負荷』を引き受ける意思を表明してもらわなければなりません。
その場合、先祖の負債も引き受けるから、もし先祖の行為について謝るべき点があれば、一緒に謝って貰わねばならないことになります。

ですので、私の友人である彼女は、地方参政権については『負荷なき自己』の立場から要求し、歴史問題については『位置ある自己』として先祖の行為に関して謝罪や補償を要求している。
つまり、都合よく立場を変えて、両方の要求をしているということです。

サンデル教授の政治哲学の次元から考えれば、このような論理矛盾が見えてくるわけです。

『負荷なき自己』とリベラリズム

では、『負荷なき自己』と『位置ある自己』という考えは、どこから来たのか?

欧州では、宗教戦争に見られるように宗教的な対立が長く続きました。
そうした宗教的な道徳の論争から自由リベラルな政治を目指して、価値中立的な政府が理想とされました。
そこでは、国民はどのような思想信条を抱くのも自由で、政府は特定の思想信条に肩入れしてはいけないと考えられました。

その地の国民は、歴史のしがらみから解放され地域や家族、教会などにも束縛されない自由な個人として考えられました。
ここから『負荷なき自己』という人間観が出てきました。

『負荷なき自己』が集まり、“価値中立的な国家”になっているわけですが、このような社会であったとき、果たして互いへの同胞感が生まれるのかという疑問が生じます。

その事をサンデル教授は、それが正に現代のアメリカで起こっていると著書でも指摘しています。

この数十年でわれわれは、同胞の道徳的・宗教的信念を尊重するということは、(少なくとも政治的目的に関係する場合)それらを無視し、それらを邪魔せず、それらに――可能なかぎり――かかわらずに公共の生を営むことだと思い込むようになった。
だが、そうした回避の姿勢からは、偽りの敬意が生まれかねない。

マイケル・サンデル著『これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学』

“偽りの敬意”とは、互いの道徳的・宗教的を尊重するふりをしながら、無関心でいることです。
それでは国全体のことを損得でしか議論できなくなり、結局、民主主義を支える国民同胞感が失われてしまいます。

国民としての同胞感がなければ、多数決で負けても多数派の意見を、
「自分たちも含めた国家全体の決定」
だと、潔く認めることはできなくなるでしょう。

アメリカの前大統領選でも選挙後に不正が有った、無かったで混乱が続きましたが、それは民主主義の基盤となる国民同胞感が失われていたためだと思います。

と同時に、それは、政府は価値中立的でなければならず、国民は『負荷なき自己』としての自由を持つというリベラル思想の帰結だと私には思えます。

アリストテレスの考えた共同体

国民同胞感とは、正に『位置ある自己』の出番になるわけですが、この人間観の源流はとても古く、サンデル教授はアリストテレスまで持ち出しています。
アリストテレスは、都市国家ポリスを単なる防衛共同体や経済共同体とは捉えませんでした。

政治の目的は、まさに、人びとが人間に特有の能力と美徳を養えるようにすることだ。
共通善について熟慮し、実践的判断力を身につけ、自治に参加し、コミュニティ全体の運命に関心を持てるようにすることだ。

マイケル・サンデル著『これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学』

「人間は政治的動物である」
とは、アリストテレスの有名な言葉ですが、日本語では『政治』や『動物』には良くない語感が籠もってしまうので、誤解しやすいところがあります。
彼が言うのは、人間だけが高度な共同体を作れるという、現代の進化人類学にも通ずることを言っているのです。

その共同体の中で歴史を通じて深めてきた“共通善”があり、それを学び、更に維持し深めるよう他者と智慧と力を合わせる、そういう姿が共同体の理想だと考えました。

この理想は、 神武天皇の
「大御宝としての国民が力を合わせて、一つの屋根のもとに暮らしていこう」
という建国の理想とほぼ同じです。

人間の叡智が深まれば、人類として共通の根っこに繋がっていくということです。

共同体の“共通善”を伝える歴史物語と歴史教育

自分がある国家共同体に生まれたのは、自分の選択の結果ではありません。
『負荷なき自己』なら、他の国の方が良いから移民してしまおうということになってしまいますが、『位置ある自己』は、その共同体の中で親や地域の人々に育てられ、共通の国語で感じ考え、先人が残した“共通善”、即ち伝統的理想を学びます。

そういった『位置ある自己』なら、縦軸・横軸の『負荷』を自分自身の一部として感じて、有り難く引き受けるでしょう。
そして、その共同体の中で、自分なりの処を得て、自分の適性や能力を発揮していく。
そういう共同体の中でこそ、人間は生きがいを得られるのだと考えます。
それこそが、真の自己実現と言うべきでしょう。

共同体の“共通善”は、その共同体で言い伝えられた歴史物語によって表現されます。
サンデル教授は、こう言っています。

私の人生の物語はつねに、私のアイデンティテイの源であるコミュニティ
――家族や町、部族や国家、政党や運動―の物語に埋め込まれている。
・・・こうした物語はわれわれを世界のなかに位置づけ、われわれの人生に道徳的独自性を与えるのである。

マイケル・サンデル著『これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学』

自分の人生の物語が埋め込まれるべき共同体の物語を学ぶことは、その共同体の“共通善”を学ぶことであり、それこそが歴史教育の目的だと思います。
平成18(2006)年に改訂された教育基本法でも、前文で、
<公共の精神を学び>
<伝統を継承し>
という言葉が入れられたのも、『位置ある自己』として将来の国民を育てようという姿勢だと思われます。

多様な考えが“共通善”を深める

そうは言っても、在日韓国人の彼女からは、
「それは一つの道徳・宗教を全員に押しつける全体主義になる」
といった反論が、直ぐに出てきそうです。

そう言わないと、リベラルは存在意義を失ってしまいますから(笑)
しかし、イギリスは『位置ある自己』の共同体として自由民主主義を発展させてきました。
日本も長い歴史のほとんどの期間、八百万の神々でも仏教でも自由かつ多様な信仰を持ち、高度の農村自治を行って、平和で安定した国として続いてきました。

『位置ある自己』とは、全体主義に操られるロボットではありません。
その共同体の行く末を“我が事”として考え、子孫のために、それを少しでも良くするよう“共通善”をどう深めていくか考える。

そういった『位置ある自己』にとって、その“共通善”に賛同しない人々は、必ずしも“敵”ではありません。
そういう人は“共通善”の到らない処を考えているのかも知れません。
そのような人々とよく対話をすることで、“共通善”はより深まっていくでしょう。

そういった智慧を深める方向を一切考えずに、いきなり『価値中立的な政府』と『負荷なき自己』に走ってしまったのが、リベラル思想の迷走です。
欧米思想から学ぶには、こういった浅薄な部分ではなく、アリストテレスから現代のサンデル教授に到る本流を学ばないといけないのではないかと思います。

最後までお読み頂きまして有り難うございました。
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