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2022.6.24 西郷に学んだ庄内藩士

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庄内の人々の西郷隆盛への敬慕

世の中には不思議な付き合いがあるものです。
西郷隆盛と庄内藩(現在の山形県庄内地方)の人々との交流です。

1868(明治元)年の戊辰戦争では、庄内藩は西郷隆盛率いる明治政府軍に降伏しましたが、西郷の高潔な態度に感激し、その後、藩主自ら70余名の藩士を率いて薩摩に赴き、西郷に親しく教えを請います。

西郷は1878(明治10)年の西南の役で戦没し、天皇への反逆者として『逆賊』の汚名を着せられますが、1889(明治22)年、明治天皇が正三位を与えて汚名を晴らすや、旧庄内藩の人々は西郷の語った言葉をまとめた『南洲翁遺訓』を刊行し、風呂敷包みに背負って、全国に配布して回りました。

庄内の人々の西郷への敬慕は現代まで続いており、1976(昭和51)年には南洲神社が創設され、『財団法人庄内南洲会』が西郷の人徳を称える活動を続けています。

人々が一人の偉人をかくも純粋に敬慕した、いかにも我が国らしい美談です。
今回はその経緯を辿ってみたいと思います。

庄内藩の人々を感動させた明治政府軍

1867(慶応3)年12月、江戸の薩摩藩邸に結集していた浪人たちが、江戸の治安を乱していました。

江戸の治安維持を任されていた庄内藩士1000人を中心とする5藩は、薩摩藩邸攻撃を命ぜられ、邸を砲撃し、焼き払いました。

この事件をきっかけに、鳥羽伏見での明治政府と徳川幕府との戦いが始まり、以後1年半ほどの戊辰ぼしん戦争が続きます。

庄内藩は会津藩、米沢藩などと共に幕府側に立ち、新政府側に立った秋田に攻め入って連戦連勝を重ねました。

庄内藩は元々良民を手厚く保護する藩政を執ってきており、藩主・家臣・領民の結束が強い藩でした。

藩政を支えてきた商人の本間家も、スナイドル銃などの最新兵器購入のために莫大な献金をしました。

米沢藩、会津藩の降伏後も、庄内藩は最後まで藩領土への新政府軍の侵入を許しませんでした。

しかし、庄内藩以外の全ての藩が降伏したので、1868(明治元)年9月、新政府軍に恭順の意を示しました。

このように、最後まで頑強に新政府軍に戦ったので、庄内藩の人々はどれほど厳しい降伏条件を突きつけられるのかと心配していました。

しかし、勝者として庄内藩鶴ヶ岡城に入ってきた新政府軍は、刀を持たず、丸腰でした。

新政府軍の兵士の中には勝ちに奢って乱暴狼藉を働くかも知れないので、それを防ぐためでした。

逆に敗者の庄内藩士には帯刀を許し、武士の面目を持たせました。
これには庄内藩の人々も驚きました。

しかも、新政府軍の使者としてやってきた薩摩藩の黒田清隆が示したのは、驚くほど寛大な条件でした。

11代藩主・酒井忠篤ただずみの謹慎、弟の忠宝ただみちへの代替わりと、16万7千余石から12万石への減封でした。

さらに黒田は、藩主の上座に座って、一応の“言い渡し”を終えると、直ちに藩主の下座に降り、
「役目の為に、ご無礼を致しましたが、お許し下さい」
と、礼儀正しい態度をとったのです。

武士道を弁えた黒田の態度に、庄内藩の人々は心を動かされました。

この世に、そんな素晴らしい武士がいるのか

1869(明治2)年、庄内藩の家老として敗戦処理を進めた菅実秀すげさねひでが東京に出てきて、黒田に対し寛大な処置に対するお礼を述べました。

すると、黒田は、
「あれは私の処置ではありません。全て西郷先生の指示でやったことです」
と明かしました。

新政府軍の指揮官だった西郷は、庄内藩が降伏した翌日にはすぐに帰ろうとしました。
まだ降伏したばかりで、後で何が起きるのか分からないので、黒田は西郷を止めました。

<けれども西郷先生は、
『戦いは……勝てば、もうそれでいいよ。あとは、同じ日本人……。新しい日本をつくる同志じゃないか。もう敵でも味方でもないよ』
と、おっしゃったのです。>

菅は、
「この世に、そんな素晴らしい武士がいるのか」
と感動した。

そして、菅から西郷の話を聞いた庄内藩の人々の感動も察して余りあったのです。

1870(明治3)年、18歳だった前藩主の酒井忠篤は、70余名の家臣を引き連れて、西郷に学ぶために鹿児島を訪れました。
西郷は彼らを歓迎し、いろいろ話を聞かせました。

忠篤は西郷の教えに感激し、大名気分を捨て去り、家臣たちと寝食を共にして過ごしました。

これら庄内藩の人々が西郷の言葉を記録に残したのが、後に『西郷南洲翁遺訓』としてまとめられたのです。

西郷の涙

『遺訓』の中には、西郷が庄内藩士たちに語った肉声がまざまざと感じられる一幕があります。
こんな一節です。

<ある時、西郷先生が、こうおっしゃった。
「国民の上に立って、政治にたずさわる者は、つねに慎みの心をもって、どこにいても品行正しく、贅沢をしないように心がけ、自分の仕事に一生懸命に取り組むような……、つまり人の手本になるような人でなければならないね。
・・・
ところが、近ごろの政府はどうだい。
今は、これから何もかもはじめなければならないという、いわば時代の出発点に立っている大事な時期なのに、豪邸に暮らし、高価な服に身をつつみ、美しい女性を愛人にし、そして関心があることといったら、個人の財産を築くことばかり……。
こんなことでは、何のために明治維新をなしとげたのか……、その本来の理想を達成することなど、とてもおぼつかないよ。
あの鳥羽伏見の戦いにはじまって、五稜郭の戦いで終わった戊辰戦争は、日本を再生するための“義”の戦いだったはずだよね。
けれど、その戦いの結果できあがった新政府が、そんなありさまさ!
今のままなら、どうなる? 
結果的に、あの戦争は今の政府の高官たちの“利”のための戦いだった、ということになってしまうよ。
こんなことでは、世の中の人々に対して、そして何より、あの戦いで戦場に散っていった戦没者たちに対しても、私は……本当に申しわけなくて……」
そうおっしゃると西郷先生は、こみあげてくる思いを抑えきれずに、しきりに涙を流されていました。>

戊辰戦争を西郷の相手側として戦った当の庄内藩士たちも、この西郷の言葉には、涙をこらえ切れなかったのではないだろうか。

日本を再生するための“義”の戦い

西郷は、
「戊辰戦争は、日本を再生するための“義”の戦いだったはず」
と言いましたが、その『義』に関して次のように語っています。

<「節操や道義……恥を知る心、こういうものを国民が失ったら、国は、とても持たないね。
これは、西洋でも同じことだよ。
たとえば、政治家や官僚や公務員などの上に立つ者が、国民から利益を得ることばかりを求めて、社会正義を忘れてしまったならば、どうなる?
国民もその真似をして、その心は、どんどん拝金主義に向かい、いやらしい貪欲な心が、日を追うごとに国民の間に広がっていくよ。
・・・
そうなってしまったら……、いったい、どうやって国を維持すればいいんだい?>

道義を国民が失ったら、国は持たない。
明治政府の高官たちが私利私欲にふけっている姿は、自ら国を壊している。

それでは『日本再生のための義の戦い』と信じて、命を捧げていった戦没者たちに申し訳ない。
その思いが西郷の涙となっていた。

西郷が戊辰戦争を『日本再生のための義の戦い』と捉えていたことを知れば、
「戦いは……勝てば、もうそれでいいよ。あとは、同じ日本人……。新しい日本をつくる同志じゃないか」
と、庄内藩の人々に寛大に接した理由も理解できます。

西郷は庄内藩士を
「最後の最後まで徳川家に忠義を尽くした立派な武士」
と称えていました。

今後は日本の再生のために、共に忠義を尽くして欲しいというのが、西郷の願いでした。

西洋は野蛮じゃ!

明治維新という『日本再生のための義の戦い』は、黒船の来航に象徴される欧米諸国の脅威の下で行われました。

その欧米諸国について、西郷は庄内藩士たちにこう語っています。

<ある時、西郷先生が、こうおっしゃった。
「“文明”というのは、どういうことかわかるかい? 
それは、道徳心が人々に広くゆきわたって、それが実践されている国のようすを、称えて言う言葉なんだ。
けっして宮廷が大きくて立派だとか、人々の服装が美しくて綺麗だとか、そういう外から見た、フワフワした華やかさを言うのではないよ。
・・・
私は昔、ある人と議論したことがあるんだよ。
その時、私は、こう言ったのさ。
『西洋は野蛮じゃ!』
するとその人は、こう言った。
『いや、西洋は文明です』
そこで私は、
『いいや、いいや……、野蛮じゃ!』
と、たたみかけた。
すると、その人はあきれて、
『どうして西洋のことを、それほどまでに悪くおっしゃるのですか?』
と、不満そうに言い返してきた。
そこで私は、こう言ってやったのさ。
『ほんとうに文明の国々なら、遅れた国には、やさしい心で、親切に説得し、その国の人々に納得してもらった上で、その国を発展させる方向に導いてやるんじゃないかな?
けれど西洋は、そうではない。
時代に遅れて、ものを知らない国であればあるほど、むごくて残忍なことをしてきたし、結局のところ、そうして自分たちの私利私欲を満たしてきたじゃないか。
これを“野蛮”と言わないで、何を“野蛮”と言うんだい?』
私がそう言ったら、その人は口をつぐんで、もう何も言わなくなったよ」
そう言って、西郷先生はお笑いになりました。>

当時、欧米諸国はアジア・アフリカの諸国を植民地化し、搾取していました。

支配者がその様では、国民全体が植民地根性を抱いて、私利私欲のために働くようになります。

西洋の『野蛮』がアジア・アフリカに『野蛮』を生み出します。

西郷は『文明』とは、
「道徳心が人々に広くゆきわたって、それが実践されている国のようす」
と考えました。

西洋諸国に植民地化されてしまえば、そんな文明国にはなり得ません。

そうした西洋諸国の『野蛮』から、国を守ろうとすることが『攘夷』でした。

『[新訳]南洲翁遺訓 西郷隆盛が遺した「敬天愛人」の教え』の著者である皇學館大学の松浦光修教授は、次のように喝破しています。

<「攘夷」によって先人たちが護ろうとしていたものは、単なる“国益”ではありません。
ここが大切なところなのですが、最終的に護ろうとしていたのは、“道義”なのです。>

後世への最大遺物

西郷から、
「最後の最後まで徳川家に忠義を尽くした立派な武士」
と称えられていた、そんな忠義の武士たちであったからこそ、西郷の道義あふれる振る舞いに感じ入り、前藩主が70余名もの藩士を引き連れて、西郷の許に学びに来たのです。

庄内藩士たちは、西郷の言葉に学んで『新しい日本をつくる同志』となったのでしょう。

西南戦争の12年後、明治天皇が西郷に正三位を追贈して名誉を回復されるや、『南洲翁遺訓』をまとめ、全国に広めようとしたのも、『新しい日本をつくる同志』としての志に違いありません。

西郷隆盛を『代表的日本人』の一人として描いた内村鑑三は、『後世への最大遺物』と題した講演で次のように語っています。

<「誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。
それは何であるかならば、勇ましい高尚なる生涯であると思います。>

西郷隆盛と庄内藩士たちの“高尚なる生涯”は、現代の我々に贈られた『後世への最大遺物』そのものです。

それをどう活かすかは、私たちの生き方に懸かっているのです。

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