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【チーム紹介】神田康範の軌跡

こんにちは、サク来です。

このnoteがお休みしていた24年4月16日、神田社長の退任が発表されました。
旗揚げから携わった功労者がまた一人、火の国を去ることとなります。

今回は神田社長の軌跡を振り返って参ります。

Title Photo by @KpbProject


最高の出だし-立ち上げから初の日本一まで


19年に立ち上げられたKPBは、地元・熊本出身の神田社長によりその歴史をスタートすることとなりました。
後に火の国となる球団ともう一つ、リーグとして成立させるために必要な球団を見つけていた所で、森社長が大分Bを立ち上げたことでKALがスタートしました。

20年に行われたトライアウトやキャンプなど積極的に現地に足を運び、現場の声を拾う様子が見られました。


サラマン隊が生まれた日に行われた応援団発足に関するミーティングでは、スーツではなくラフな格好で出席されていました。
当時のサク来も「スポーティーな身なりのイケオジ」と書いていたので、間違いはないでしょう。
ここでは火の国サラマンダーズにかける熊本県の野球振興・地域振興の役割と目標を、そしてそれを実現させるには応援が必要だということを熱弁されており、火の国にかける思いが人一倍であることを認識しました。

初年度は細川監督と馬原ピッチングGM、元SBの吉村選手を押し出す形で始まりました。
開幕戦ではスーツ姿で出席し、雨天のなか集まったファンと触れ合う姿も見られました。
野手では水本選手や高山選手、投手では宮澤選手や猿渡選手の活躍、さらに途中加入からNPB移籍第1号となった小窪選手の奮起もあり、初年度は圧倒的成績でリーグ優勝。
さらにドラフト会議では石森選手がドラフト3位で中日に指名されるなど、順風満帆な出だしで初年度を終えました。


悲願の日本一と悔し涙-グラチャン初優勝まで


細川監督退任後、ピッチングGMだった馬原監督が務め、西・瀬戸口・藤岡コーチとPIG BOSSとともに2年目がスタート。
2年目は新規参入の北九州Pに苦しめられる形となりました。
9月まで続いた死闘を制し、9月15日にKAL2連覇を達成、県内で行われるグラチャンへと駒を進めました。

神田社長は主砲・モタ選手の獲得に奮闘したり、エース・芦谷選手の売り込みに精を尽くしたりと東奔西走。
さらに夏にアメリカ・アナハイムへ行ったり、KKRとのドリンク:Candyサンライズを発売したりと多角的な方面で話題を提供してくれました。

グラチャンでは初戦の士別SB、決勝戦の信濃GSを倒し、悲願の日本一を達成。
藤崎台を歓喜の渦で沸かせました。
しかしドラフト会議でサラマン戦士の名前が呼ばれることなく、プッシュされていた芦谷選手、西島選手はキャリアを終えることとなりました。


勝負の3年目、波乱の4年目-退任まで


3年目は地元出身の山口翔選手と元ヤクルトの中山選手、さらに大﨑選手や菅原選手といった他の独立リーグで活躍した選手の補強を行いました。
この年の目玉だったNPBファーム参入にも全力を注ぎ、新たにスポンサーを募るなど尽力しましたが、7月末に断念しました。


神田社長はこの時コメントにて熊本県における球場不足に向き合い、新球場設立の方針を示しました。

9月にKAL優勝を決定すると、月末のグラチャンでは埼玉武蔵HBを倒し連覇達成。
ドラフト指名では大分Bと北九州Pの流れに乗ることはできませんでしたが、新たな夢を抱きました。

オフに馬原監督を始めとした首脳陣が退任し、後任にローズ監督、他の独立リーグでプレーしてきた広畑コーチと荒西コーチが就任することが決まり、更なる躍進が期待されました。

しかしご存知の通り、ローズ監督はキャンプ中に退団。
荒西監督代行が指揮をとりますが、投稿日時点で3位と昨年同様苦しい立ち上がりとなっています。
神田社長ラストゲームとなった5/4の試合も終盤に打ち込まれ敗戦。
それでも退任セレモニーでは涙を浮かべながら今後の火の国の発展を祈るスピーチを披露しました。


神田社長、今まで火の国を引っ張ってきてくださり、ありがとうございました。
栃木で絶対に会いましょう。
絶対に。


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