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映画『VORTEX ヴォルテックス』をみる。

『花腐し』以来のシネ・リーブル梅田であります。『ケイコ 目を澄ませて』から始まった本連載、2023シーズンの最終戦となる今回は鬼才ギャスパー・ノエの最新作を公開初日に堂々迎え撃ちます。この日のために1年間体づくりしてきたと言っても過言ではありません、彼の代名詞である"エログロ"要素を一切排除し辿り着いたまさに新境地。まずはインタビューからの引用。

「最初、数シーンだけをスプリットスクリーンで撮影する予定で、映画の全期間に渡って敢行するつもりはなかった」「けれども編集室で、登場人物の1人がフレームから離れ、もう一方が1人だけになったとき、彼または彼女が何をしているのかを、同時に、かつ、ずっと見ていたかったことに気づいた」本作が持つリアルタイム/ドキュメンタリー性の表れ、さらに続けます。

「スプリットスクリーンによって、同時並行で進行しているのに、決して交わることのない2つのトンネルをたどっているように感じられるんだ。“人生の道”と言ってもいいかもしれない。取り返しのつかないほど分離された2人なんだ。この演出は、優れた空間ロジックが必要で、私は常に頭の中でルービックキューブを解いているような感覚に陥り、夜はよく眠れなかったよ」

心臓病を抱えた映画評論家の夫と、認知症に苦しむ元・精神科医の妻が織り成す老老介護の物語には様々な側面が感じられた。例えばそれは家庭内別居だったり、病気の妻をアパートの中に半ば"閉じ込めている"現状だったり。自分の薬は自分で処方する、なぜなら"自分はまだ現役の医師だ"と錯覚しているから。介護施設への入居拒否、自分達で解決すべき問題と主張する姿。

唯一の頼みである息子(恐らく彼の結婚相手も病院に通院中)は、薬物中毒に侵されている。彼の抱える不安や心の闇が孫のキキにも暗く長い影を落としていた。二分割された画面内で3人の視点が交錯し始めると、観客は次第に"認知限界"を超えた逃げ場のない恐怖へと追い込まれていく。冒頭流れる「心臓より先に脳が壊れるすべての人へ」の真意は、ここにあったのか。

「徘徊編」「ガス編」というおどろおどろしいタイトルの付いた本編映像も非常に痛々しい。孫にプレゼントするミニカーを買おうと店に入ったが次第に食品売り場を彷徨う素振りを見せ、挙句行方を探し合流した夫に促されるがまま花束を買ったが、後で思い出したようにプランターに突き刺して元の無表情な生活へと戻っていくだけ。死の淵に絶望し、また夜が明けるだけ。

ガス栓を閉めるまでの道中、夫婦は一切目を合わせることがなかった。分断されていたのはスクリーンではなく家族の絆そのものだったかもしれない。たしかに二人は同じ時間を生きていたはずなのに。ガス=目にみえないものをみよというメタファーだったか。ダリオ・アルジェントは勿論のこと得体の知れぬフランソワーズ・ルブランの殺風景な顔の芝居が実に素晴らしい。

「人生は夢の中の夢」「死ぬということは忘却ではなく同化していくこと」という台詞も印象的でした。つまり自らの死に自覚的であるということは、そう容易ではない。ただ二人には、その準備のための時間が十分用意されていたはずで。それは3年前に夫が心臓を患った時に、あるいは不倫相手に現を抜かす最中、終わりのない長電話に興じる間もずっと妻は独りだった。

あるいは夫自身もまた静かに"認知限界"を迎え始めていたのかもしれない。口籠もってみたり返答に窮してみたりする場面が多かったのは、紛れもなく彼自身もまた認知症に侵され始めていたからではないかと。平行線を辿っていたかにみえた二人の人生が実は水面下で交わり、いつしか同じ方向を歩き始めていたのかも。徘徊した妻の肩に手を置き家路に就く二画面が虚しい。

(タイプライター=やり直しが効かない=人生、という解釈もあり得るか?)

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