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女性は数が多くてもマイノリティ?

 市井のフェミニストだけではなくアカデミアのフェミニストもしばしば妄言を吐く。そして、そんな妄言を吐くフェミニストを崇め奉ってメディアは取り上げ記事にする。そんな記事が産経新聞に掲載され、yahoo!ニュースに転載された。

 今回のnote記事でトピックとして取り上げようと思うのは、件の記事の以下の太字で示した箇所に表れるフェミニストの認識および姿勢である。

武蔵大の千田有紀教授(家族社会学・ジェンダー論)が国会内で講演し、生物学的な性差から性自認(心の性)を重視する流れが強まっているとして、「性別の基準に性自認の尊重を置けば、『女性に見えないけど、あなたは本当に女性なの』と疑うこと自体、差別とされかねない。女性は数は多くてもマイノリティーだということを分かってほしい」と述べ、警鐘を鳴らした。

「女性は人数多くてもマイノリティー」武蔵大・千田有紀教授 性自認尊重のトレンドに懸念
奥原慎平 2024/3/25 産経新聞 (強調引用者)

(トランス女性の権利を優先する)LGBT活動家から「女性はマジョリティーだ」といわれている。女性は妊娠する身体を持ち、相対的に脆弱(ぜいじゃく)だ。数が多くても女性はマイノリティーだということを分かってほしい

同上 (強調引用者)

 千田氏の「数が多くても女性はマイノリティー」という主張は、道理に基づく正当性から自己の権利保護を主張するのではなく、マジョリティであるにも関わらずマイノリティ特権に基づく社会からの庇護を要求している。

 これは実に奇妙な発言である。この奇妙さについて今回のnote記事では見ていくことにしよう。


■マイノリティ-マジョリティの決定要因

 そもそも論として「マイノリティ-マジョリティ」という対概念は、発言力や保有する権力や脆弱性に左右される概念ではなく、集団に占める構成割合によって決定される概念である。「マイノリティ-マジョリティ」に関して、ドミナント・マイノリティ、あるいはノイジー・マイノリティやサイレント・マジョリティの用語によって注意喚起が為されるように、権力を持ち目立って発言しているからといって多数派(=マジョリティ)であることを意味せず、目立たず黙っていようが構成割合が高いものがマジョリティであり、目立とうが発言してようが構成割合の低いものはマイノリティである。つまり、グループの特性やなんやらに左右されないのだ。

 ここで辞書的意味を確認しておこう。

マイノリティー
〘名〙 (minority)⸨ミノリティ⸩
① 少数。少数派。少数党。⇔マジョリティー。〔アメリカ雑記帳(1947)〕
② 多民族国家で、相対的に数の少ない民族。

出典 精選版 日本国語大辞典

マジョリティー
〘名〙 (majority) 大多数。過半数。⇔マイノリティー。〔外来語辞典(1914)〕
※日本の思想(1961)〈丸山真男〉三「俗論に抗する、マイノリティどころか、国民意識の上では、マジョリティの上にあぐらをかいている」

出典 精選版 日本国語大辞典

 辞書において対義語であるマジョリティが「過半数=50%超」という意味が示されているから理解できるように、マイノリティ-マジョリティ概念は全体として考える範囲を限定して考えなければ意味の無い概念である。一旦、このことをジェンダー問題からは離れて説明しよう。

 例えば、「日本人」という集団は日本社会においてはマジョリティであるが、全世界でみるとマジョリティとなることはない。また、日本社会における「ウルドゥー語話者」はマイノリティだが、パキスタンではマジョリティだ。つまり、マイノリティやマジョリティの概念は絶対的概念ではないのだ。"全体"の範囲を指定してはじめて、対象となるグループがマイノリティやマジョリティであるかどうかが決まる。すなわち、"全体"がなにか不明なのであれば、マイノリティなのかマジョリティなのか、あるいはそのどちらでもないのか判定できない。

 「議論対象のグループが属する全体」を明示的か黙示的かを問わず指定した上で、マイノリティやマジョリティを巡る主張や議論が為される。そして、その際の「マイノリティ-マジョリティ」の判定基準は全体に占める構成割合である。

 したがって、千田氏が挙げた以下のような要因は「マイノリティ-マジョリティ」とは一切関係が無い。

女性は妊娠する身体を持ち、相対的に脆弱(ぜいじゃく)だ。

再掲(一部抜粋)

こんなものとは無関係に「マイノリティ-マジョリティ」は決まるのであり、更には千田氏が捨象するように要求している「数が多くても」という要因こそが「マイノリティ-マジョリティ」を決定づけるのだ。


■正当性に基づいてトランス女性の要求を拒絶すればいい

 千田氏が取り上げる、肉体が男性のままの性自認女性(※性同一性障害から医学的処置を施して女性化したトランス女性ではなく、肉体的変更がないまま性自認だけが女性であるトランス女性。以後、本稿において"トランス女性"の表記は後者のみを指すものとする)についての社会問題を記事から見てみよう。

 性自認を認めるなというのではない。これまで女性スペースの安全性や女性スポーツの公平性は身体によって担保されてきたが、性自認の尊重が過ぎれば社会のシステムが崩れる。

「女性は人数多くてもマイノリティー」武蔵大・千田有紀教授 性自認尊重のトレンドに懸念
奥原慎平 2024/3/25 産経新聞

 トランス女性問題とは、千田氏の見立てでは「シス女性の権利を大きく損なう道理に合っていない要求を、トランス女性がシス女性に突き付けてきた問題」である。要するに自分達(=出生時に割り当てられた性別と「自認する性別=性自認」が一致し、それに従って生きる人をシスジェンダーというが、そのシスジェンダーの女性)が不当な要求をされたという訳だ。

 そして、そんな要求をしてきたトランス女性への正道の対処は、以下のような台詞で頑として撥ねつければいいだけのことだ。

 私達シス女性はマジョリティで、肉体は男性のままの性自認女性であるあなた方は確かにマイノリティだ。だが、あなた方の要求は道理に合っていない上、私達シス女性の権利を損ねるものだ。したがって、あなた方がマイノリティであろうとも、あなた方の要求を聞き入れる訳にはいかない

筆者作成

 つまり、シス女性が自らの権利保護を主張するのであれば、正当性に基づいてトランス女性の要求を拒絶すればいいのだ。なにも難しい話ではない。千田氏が挙げたトランス女性の要求を拒絶する理由を、キチンと妥当性をもった議論で示せばよい。シス女性の言い分とトランス女性の言い分のどちらがより妥当かを社会が判断して、シス女性の言い分の方が妥当性が高ければシス女性の権利保護が認められて、トランス女性の要求が社会的に却下されるだろう。

 それをすればいいだけのことだ。


■男性に対してフェミニストは「それは言い訳!」と糾弾したような?

 千田氏が挙げたトランス女性の要求を拒絶する正当な理由をもう一度確認しよう。

性自認の尊重が過ぎれば社会のシステムが崩れる

再掲 (一部抜粋)

 この認識から「現状の社会システム維持にとって性自認の尊重の行き過ぎは良くない」という主張が当然出てくる。そして、その主張に基づいて千田氏を含むシス女性は、トランス女性の要求を拒絶して自らの権利保護を社会に訴えている。つまり、トランス女性に対しては以下のように彼女らは告げているのだ。

 『社会のシステムが崩れる』だからアンタたちの要求は認められないんですよ

 デジャブを感じさせる拒絶である。ホモソーシャルな社会にどっぷり浸かったオッサンがドヤ顔で説教を垂れる構図としてフェミニストが散々に槍玉に挙げている構図と同じである。「社会のシステムの維持」の観点から落としどころを探る議論は、既得権益を失うことを恐れて悪の権化として振る舞うジェンダー特権を持った人間の言い草として一刀両断に解釈されてきた言説である。

 しかし、「社会のシステムが崩れる」と指摘する人間の性別によって妥当性が変化するとでもいうのだろうか。指摘するのが男だとダメだが女なら良いというのであれば、それはジェンダー平等ではない事態だ。つまり、社会のシステムの維持から正当性を引き出すことを認めるのであれば、男性であっても女性であっても認めなければならない。逆に、社会のシステムの維持から正当性を引き出すことを認めないのであれば、男性であっても女性であっても認めてはならないのだ。

 結局のところ、許容できる範囲の落としどころを探る議論というものは、フェミニスト達が「男性の既得権益を守るために汲々とした見苦しい言動」として糾弾してきた理解とは異なり、「社会システムの維持とのバランス」を取ろうとした営為でもあったのだ。もちろん、全ての議論が無私の議論であろうはずもないが、それでも男性の既得権益を守ることを目的にしたものばかりでもなかったのだ。

 これまでフェミニスト達が男性に要求してきたような倫理的な態度すなわち誠実性を重視するならば、フェミニスト達は自己総括して「社会システムの維持を考えた議論は、何も既得権益を守ることを目的とした議論ではなかったとやっと気付きました。すみませんでした」と十分に反省してから、「性自認の尊重の行き過ぎは社会のシステムを崩れる」という観点から性自認を尊重する範囲を議論していくべきだろう。


■「パパは私をヨシヨシするべきでしょう?」というメンタリティ

 前節で示したように、性自認の尊重の行き過ぎ問題は社会のシステムの維持の観点から議論され、その中でシス女性の権利保護も目指していくストロングスタイルの方向性が正道である。つまり、核心の部分において

     「アンタら間違ってんだよ。だから、無理!」

と正面から論破する形になる。マジョリティであるシス女性がマイノリティであるトランス女性の要求を正論で叩き潰して、自らの権利を守るのである。正道ではあるのだが、実にマッチョな議論である。そしてトランス女性の要求を議論で叩き潰した責任は当然ながらシス女性にある。また、駄々をこねている人に「ダメだから」とキッパリ断る精神的負荷という決断コストをシス女性は自ら支払うことになる。

 しかし、千田氏の主張に賛同するフェミニストは、ハッキリ断る決断コストと正論で自らの権利を守り相手を叩き潰す責任との負担を忌避する

 更に、「社会のシステムの維持」から自らの主張の正当性を引き出すことはこれまでフェミニストが「男性の既得権益を見苦しく守るための言動」として糾弾してきた行為と同型であるために、戻ってきたブーメランが痛くてしょうがないのだろう。それゆえ、それらを回避するために以下の奇天烈な理屈を引っ張り出してきたという訳である。つまり、自らがマイノリティであると主張することで「社会がマイノリティに対して特別に与える庇護」を獲得することを目指すのである。

数が多くても女性はマイノリティーだということを分かってほしい。

再掲 (一部抜粋)

 さて、千田氏が上記の主張を出してきた理由を理解するために、なぜ(現代)社会はマイノリティに対して特別に庇護を与えているか、その構造を把握しよう。

 社会にはマジョリティとマイノリティが居る。そして、マジョリティは多数派であることで社会から重要視されるという特権を持っているとされている。このマジョリティ特権についてなのだが、現状のデフォルトの状態で特権状態になっているとされている。つまり、新たに特別扱いするが故に特権状態になるわけではないのだ。一方、マイノリティはデフォルトの状態では特権状態でない。それゆえ、デフォルトの状態でみるならばマジョリティよりもビハインドの状態にあると見做されている。したがって、マジョリティと同等にするために、新たに特別扱いすることで特権状態になる。

 別の言い回しをするならば、マジョリティ特権というものはパッシブ型特権であり、マイノリティ特権というものはon-offのあるアクティブ型特権と言えるだろう。つまり、マジョリティは何もしなくとも特権状態だが、マイノリティは社会が「on状態」にすること特権状態になるということである。

 このマジョリティ特権とマイノリティ特権の違いを把握すれば、なぜ千田氏が「数が多くても女性はマイノリティ」と主張したかが理解できる。

 「数が多い=マジョリティ」として扱われると「現状で特権状態にあるでしょ」と見做されてしまうのだ。それゆえ、社会が(マジョリティである)シス女性に対して何らかの介入を行う義務は存在しなくなる。つまり、シス女性の権利保護は自力救済で何とかしろとなる。

 一方で、マイノリティとして扱われると「現状では特権状態に無いために、社会が介入しなければならない」と見做されるのだ。つまり、社会が庇護を与えてマジョリティと同等の状態にしてやる義務が出てくるのだ。つまり、シス女性の権利保護は社会による救済によって為されるのだ。

 まさに、パパにヨシヨシしてもらえるという女性特権がシス女性にはあることを社会は忘れるな、という訳だ。

 しかし、シスジェンダーであるシス女性はシス男性と同様に「多数派=マジョリティ」である。一方、トランスジェンダーであるトランス女性やトランス男性は「少数派=マイノリティ」である。このとき、いくらLGBT活動家によって責め立てられる立場にシス女性が立とうが、女性における構成割合においてトランス女性とシス女性の割合が逆転することはあり得ないのだから、トランス女性がマイノリティでシス女性がマジョリティであることに変化はない。

 したがって、シス女性がマジョリティであるにも関わらずマイノリティ特権に基づく社会から庇護を要求することは妥当ではないのだ


■「私に反論するのは差別主義者!」のブーメラン

 フェミニストは「何が性差別かは、フェミニストである私が決める!」として散々に男性を断罪してきた。そして、フェミニストの言説や行動に対して疑問を投げかければ「オマエは差別主義者だ!」とレッテルを貼り付けてきた。最近の日本の例で言えば、公金を使用した際の領収書すらマトモに提出しない女性支援団体の会計に関する批判ですら「女性差別だ!」と糾弾するフェミニストが多数居たことからも明らかである。

 「救済されるべき被差別対象者≒マイノリティとの社会からの公認」を得られれば、マイノリティに関する事柄について疑義を抱く人間に対して差別主義者とのレッテルを貼り付ける特権を得られていたのである。

  • マイノリティである女性政治家

  • マイノリティであるフルタイム女性労働者

  • マイノリティである女性管理職

  • マイノリティである理系女性

  • マイノリティである女性研究者 ets

 例示した女性達が存在する環境は女性が少なく男性が多いが故に、これらの女性は辞書的意味通りの「マイノリティ」として認識される。そして、これらの女性の有り様に、その環境下のマジョリティである男性が疑義を抱こうものなら女性(やフェミニスト)は直ちに「お前は差別主義者だ!」と非難できたのである。つまり、ジェンダーギャップ指数の構成項目に関係してくるようなシーンにおいて、その環境下でのマジョリティである男性の「差別」の判定に関するフリーハンドを、マイノリティである女性(やフェミニスト)は得ていたのだ。

 そんなフェミニストの「差別」の判定のやり方がブーメランとなって突き刺さったのがトランス女性問題である。

 トランス女性問題に関するシーンにおいて、シス女性はマジョリティであり、トランス女性はマイノリティである。それゆえ、マジョリティであるシス女性は、マイノリティであるトランス女性の有り方に疑義を抱いたならば「お前は差別主義者だ!」とレッテルを貼り付けられるようになったのだ。

 そんなトランス女性問題を巡る事態へフェミニストが泣き言を漏らしているのが記事の以下の箇所だ。

国連が定義したトランスジェンダーには異性装者やノンバイナリー(男性にも女性にも当てはまらない人)といった属性に加え、女性のアイデンティティーを主張するのに、外見上はひげを生やしたままなど女性にみられる気がない属性もある。その人の性自認を疑えば、「差別」とされる世界が広がりつつある。

「女性は人数多くてもマイノリティー」武蔵大・千田有紀教授 性自認尊重のトレンドに懸念
奥原慎平 2024/3/25 産経新聞

 「『なんか違うくない?』と言っただけで差別主義者にされちゃう。いままで相手側の男連中に『差別主義者!』と好き放題レッテルを貼り付けて断罪できたのに、トランス女性問題ではシス女性はマジョリティになるために、断罪される側になっちゃった!!」という訳だ。

 マイノリティはマジョリティを任意に差別者として断罪できるというガバガバな差別認定がブーメランになった為に、慌てて「シス女性は"数が多くても"マイノリティなんですぅ!」という馬鹿げた強弁を行っているのである。


■トーンポシリングで逆ねじを食わされるフェミニスト

 一時、啓蒙記事の盛んに取り上げられたので「トーンポシリング」の用語について知っている人も多いのではないかとは思う。とはいえ、そこまで一般化した用語でもないので、用語理解のために以下のサイトの説明を引用しよう。

トーンポリシングとは?
 トーンポリシング(Tone Policing)とは、社会的課題について声を上げた相手に対し、主張内容ではなく、相手の話し方、態度、付随する感情を批判することで、論点をずらすこと。話し方のトーン(Tone)を取り締まる(Policing)という意味から、「話し方警察」等とも訳される。

 Collins dictionary.comによると、トーンポリシングは「議論の内容ではなく、口調を理由に議論を拒否すること」と定義されている。

 この言葉は2000年代初頭にアメリカで広まり、SNSの浸透により世界中に広がった。日本で使われるようになったきっかけの一つは、2017年にアメリカのWeb漫画『「冷静に」なんてなりません!』が日本語で紹介され、SNSで話題になったことだった。

 近年、インターネットやソーシャルメディアが普及したことで、差別やハラスメントといった社会問題に対し人々が声を上げやすい環境となった。それにより社会課題の認知向上や、議論の活性化につながる例もある一方で、いつの間にか発言者の話し方や態度に注目が移り、議論が脱線してしまうこともある。

 そうした状況が、典型的なトーンポリシングの例だ。具体的には、議論の場で特に怒りの感情を伴って何かを主張した人に対して「伝え方が悪い」「そんな言い方では伝わらない」「もっと良い伝え方があった」「怒らないで主張してほしい」などと指摘することが挙げられる。

社会をもっとよくする世界のアイデアマガジン「トーンポシリングとは」

 この用語が使用され始めてしばらくは酷いものだった。聞くに堪えない罵詈雑言であっても、非難すればすぐさま「男は直ぐにトーンポシリングしてくる!」と話にならない有様だった。

 まぁ、私のnote記事も最近は揶揄が罵倒に近くなってきているので非常に良くないのだが、今の私のnote記事が可愛く見えるレベルのフェミニストの言説が数多くあった。今も「クソオス」との語を平気で使っているツイフェミのSNSのアカウントなどは大して変わらないのだが、その手のアカウントの主とはおそらく会話すら不能なのではないかと思われる。

 「トーンポシリング」の概念はトーンポシリングの概念が存在しなければ説明が大変であった種類の論点ずらしを指摘することを容易にした。そんなトーンポシリングを多用する悪質な論客への批判がやり易くなった半面、対話の構えのない論者も量産した印象がある。

 自省込みの印象論を披露すると、ある程度の相手に対する敬意が無ければ基本的に対話は続かない。つまり、敬意無しだと表面的な短い対話で終了してしまうため、議論を通して異なる他者との合意を生み出していくには、どうしても議論相手への敬意が必要と思われる。

 また、利害が対立する他者との合意を導く議論において妥当性、合理性、客観性等の必須である。それにもかかわらず、妥当性や合理性、あるいは客観性を相手に求めたときに「それはトーンポシリングだ!」と言い出されると、最早議論にはならない。

 フェミニストは実にそのような理屈で議論を不成立に導くことが多かった。その辺りのトーンポシリングに関する認識は、先に引用したサイトの続く説明の以下の箇所あたりの話を曲解したものなのだろう。

既得権益を維持するための戦術
トーンポリシングはマジョリティとマイノリティ、差別をする側と受ける側等、関係性が対等ではない場合に既得権益を守るための戦術として使われることがある。「話し合いは冷静であるべきだ」「合理的であるべきだ」というような議論のあり方を社会的強者の立場にある人々が決め、同じ枠組みの中で議論することを相手にも求めるのだ。逆に、抑圧された人々が感情と共に訴えようとしたときに、「感情的では建設的な議論にならない」「中立の目線で語るべきだ」と否定することで、会話の主導権を相手から取り戻し、議論を避ける。

同上

 フェミニストは、男性との議論においては「差別を受ける側」「マイノリティ側」であったために、罵詈雑言バリアで男性論者を遠ざけておきながら「男性は女性の訴えに耳を貸さない!対話する気が無い!」と喚き散らしていた。そして、「対話する気なら罵詈雑言は引っ込めて、多少は表現を改めて対話の構えをとってくれ」と頼んでも「それはトーンポシリングだ!」と非難してきたものだ。

 そんなフェミニストの態度を散々見てきた人間からすれば、シス女性のフェミニストがトランス女性から対話において以下のような態度を取られても「お前が始めた物語だろ」という感想にしかならない。

LGBT活動家の主張には「女子トイレや女湯に入りたいというトランスジェンダー女性はいない」という声に加え、「手術要件が廃止されれば、その時に話し合えばいい」という声もある。「女子トイレを使いたい」と主張するトランスジェンダー女性(生まれつきの性別は男性、性自認は女性)がSNS上で女性に対して暴力的な言葉を使っているケースもある。

「女性は人数多くてもマイノリティー」武蔵大・千田有紀教授 性自認尊重のトレンドに懸念
奥原慎平 2024/3/25 産経新聞

 トーンポシリングだの何だのと言って相手がどう感じるかも置き去りにして自分の感情の赴くままに喚き散らすことを是としてきたフェミニストが、いざマジョリティの立場に立ったとき、マイノリティのトランス女性から逆ねじを食らっても自業自得としか思えない。






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