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小竹海広「『最近の若者は』が若者の心に響かない深い理由;主語を変えるだけで伝わり方は大きく変わる」への批判

はじめに

 奢り奢られ論争で「主語がデカい問題」をトピックにした鎌田和歌氏の記事を前回批判した。前回記事に関しては彼女のダブルスタンダードな姿勢への批判が中心で、主語がデカい問題とは何かについて十分に論じることが出来なかった。この主語がデカい問題というのは中々興味深い問題なので少し掘り下げて考えてみたい。

 ジェンダー問題とは離れて「主語がデカい問題」を考えたいので、別の題材でこの問題について論じている小竹海広氏の記事を見ることで論じていきたい。取り上げる記事は、小竹海広(2022)「『最近の若者は…』が若者の心に響かない深い理由;主語を変えるだけで伝わり方は大きく変わる」東洋経済オンライン、である。

 小竹氏が記事中で解説する「主語がデカい問題」に違和感を覚えたので、その点に関して批判していくのだが、小竹氏の記事での「主語がデカい問題」は言ってみれば客寄せパンダの役割の問題で、記事の中心的なテーマは副題に挙げられた「主語を変えるだけで伝わり方は大きく変わる」である。

 この「中心的なテーマは『主語がデカい問題』ではない」との判断は、記事の前半部では「デカい主語」の話をしているが後半部ではしなくなる点による。また、本文における「主語がデカい問題」への考察の浅さを見る限り、最近ネット界隈で取りざたされる「主語がデカい問題」をテーマにする態で読者を呼び込んでいるのだと思われる。

 それに関連して、当記事の読者に注意を喚起しておく点がある。

 当記事で行っている批判は、小竹氏の記事の中心的なテーマとは言えない客寄せパンダの部分、すなわち「主語がデカい問題」の部分への批判であって、記事全体に対する論評ではないという点である。その点に関しては注意して頂きたい。


1.文頭での「主語がデカい」という概念の混乱

 まず、小竹氏の記事における文頭での定義を確認する。

「〜だとみんなが思っている」「〜は欧米では当たり前」「最近の若者は〜」など、それぞれの事情を考慮していない言葉を目にする機会があります。これをネットスラングで「主語がデカい」といいます。特定の人や自分のことを主語として使うのではなく、あたかも不特定多数の人が主張するかのように伝える手法です。

「最近の若者は…」が若者の心に響かない深い理由 主語を変えるだけで伝わり方は大きく変わる 小竹海広 2022.5.27 東洋経済オンライン

 さて、この文頭での定義は少し問題がある。それというのも「デカくなる部分」が異なる二つの手法に対して「主語がデカい手法」と一纏めしているからだ。引用部の記述で示す。

  1. それぞれの事情を考慮していない言葉

  2. 特定の人や自分のことを主語として使うのではなく、あたかも不特定多数の人が主張するかのように伝える手法

タイプ1とタイプ2は異なる。タイプ1は「主張内容の過剰な一般化の誤謬」であり、タイプ2は「発信者の過剰な一般化の誤謬」である。挙げられた具体例に即して考察しよう。

例1:最近の若者は〜
例2:〜だとみんなが思っている
例3:〜は欧米では当たり前

 タイプ1「主張内容の過剰な一般化の誤謬」、すなわち「それぞれの事情を考慮していない言葉」という意味での「主語がデカい」に該当するのは、例1である。一方、タイプ2「発信者の過剰な一般化の誤謬」、すなわち「特定の人や自分のことを主語として使うのではなく、あたかも不特定多数の人が主張するかのように伝える手法」というのは例2である。例3に関しては文脈によってタイプ1になることもあれば、タイプ2になることもある。

 タイプ1と2の違いを詳しく説明しよう。以下の抽象的な主張の構造で考えよう。

「『AはBである』とCは思っている」と個人Dが主張した。

 タイプ1は「Aがデカい型」である一方、タイプ2は「Cがデカい型」である。実際にA・Cに具体例の語を入れて確認しよう。

例ア:「『最近の若者はBである』とCが思っている」と個人Dが主張した。
例イ:「『AはBである』とみんなが思っている」と個人Dが主張した。

 例アのようにタイプ1は主張内容の箇所に一般化された語が入るのに対して、例イのようにタイプ2は主張をする発信者の箇所に一般化された語が入る。つまり、過剰な一般化が為される箇所が違うのだ。

 次の、タイプ1の誤謬とタイプ2の誤謬を併せ持つ例ウで相違点をハッキリさせよう。

例ウ:「『男はバカだ』と女は思っている」と女性Dが主張した

 まず例ウの主張内容について考えよう。

 例ウの主張内容は「男はバカだ」というものだ(ただし、こんなセリフが登場する大抵の文脈では限定的な話との暗黙の了解がある)。論理的に考えればバカでない男も存在するので「男はバカだ」は偽である。つまり、全ての男に対して主張できる内容ではないのに過剰に一般化している。これがタイプ1の誤謬「主張内容の過剰な一般化の誤謬」である。

 次に例ウの発信者について考えよう。

 もちろん発信者自体は女性Dなのだが、この女性Dがどのような立場で発信しているかが問題なのだ。女性Dは彼女の個人的立場から「男はバカだ」と主張しているのではなく、女を代表する立場で「男はバカだ」と主張しているのである。すなわち、「私(=女性D)は『男はバカだ』と思っている」と主張しているのではなく、「(私を含む)女性は『男はバカだ』と思っている」と主張しているのである。しかし当然ながら「男はバカだ」とは思っていない女性も存在するので、女性Dの主張は間違いである。つまり、全ての女性の意見を一般化した主張ではないにも関わらず、自分の主張を女性全体の意見として過剰に一般化している。これがタイプ2の誤謬「発信者の過剰な一般化の誤謬」である。

 さて、文脈で変わるといった「例3:〜は欧米では当たり前」の構造は上記の例ウに近いことが多い。タイプ1「主張内容の過剰な一般化の誤謬」となる文脈と、タイプ2「発信者の過剰な一般化の誤謬」となる文脈とではどのように変わるかを見ていこう。ただし例3の形のままだと考察しにくいので例エの形に変えて考察していく。

例エ:「脱原発は欧米では当たり前だ」と個人Dが主張した

 まず、例エにおいてタイプ1「主張内容の過剰な一般化の誤謬」となった文脈で見よう。タイプ1の文脈で例エを厳密に表現すると「欧米に属する国は全て脱原発である」となる。この文脈で例エの主張は正しいといえるだろうか。

 確かに、ドイツを筆頭にイギリス、イタリア、スペイン、ベルギー、またアメリカのカルフォルニア州などは脱原発の方向といえる(とはいえ、ウクライナ戦争から原発回帰に方向転換しつつある国もある)。しかし、"欧米"の語は米・英・独・仏・伊・西・葡・蘭・白・丁・典・諾…といった多くの国のグループを指す単語であり、例示したなかにも「仏=フランス」が含まれている。フランスは有名な原発大国であり、脱原発の声もあるものの原発推進の声も負けじとある。

 つまり、"欧米"との単語で示される国々のなかの主要国の一つであるフランスに関しては「脱原発は当たり前でない」のだ。

 したがって欧米全体でいえる事ではないにもかかわらず欧米全体に当てはまる事柄として主張されているので、タイプ1「主張内容が過剰に一般化されている誤謬」といえる。

 次に、例エにおいてタイプ2「発信者の過剰な一般化の誤謬」となった文脈で見よう。

 タイプ2の文脈について場合分けをすると2つに分けられる。自分あるいは自分が属する特定集団の意見を全体集団の意見とする場合と、自分は属していない特定の集団の意見を全体の意見としてしまう場合である。具体例で示そう。

例エ-1:「脱原発は欧米では当たり前だ」とドイツ人Dが主張した
例エ-2:「脱原発は欧米では当たり前だ」と日本人Jが主張した

 例エ-1では、個人Dあるいは欧米の中の一つの国の国民であるドイツ人の意見の発信を、欧米諸国全体の意見の発信としてしまう場合である。ざっくりいえば「自分の意見はみんなの意見」とする場合である。この場合は、発信者自身の範囲を拡大して過剰に一般化する誤りを犯している。

 例エ-2では、日本人Jが見聞きした「欧米諸国に属する特定の人物や集団の意見」を欧米全体の意見としてしまう場合である。ざっくりいえば「あの人の意見はみんなの意見」とする場合である。つまり、特定の人物や集団の意見であるのも関わらず、それを全体の意見として意見の持ち主の範囲を拡大して過剰に一般化する誤りを犯している。

 以上、文頭の箇所において「主語がデカい問題」として小竹氏が取り上げているものは、主張内容の過剰な一般化の誤謬の問題と、発信者の過剰な一般化の誤謬の問題である。また、発信者の過剰な一般化の誤謬の問題を更に細分化すると、発信者自身の範囲を拡大して過剰に一般化する誤りと、特定の人物や集団の意見であるのも関わらず全体の意見として意見の持ち主の範囲を拡大して過剰に一般化する誤りとなる。小竹氏の記事の文頭における「主語がデカい」の概念は、これらの相異なる概念が混同され、一纏めにされている問題が指摘できる。


2.小竹氏自身は「主語がデカい問題」を掴んでいない

 本文での「主語がデカい」に関する議論の混乱についてなのだが、これまた文頭で提示された定義の混乱とはまた別である。「主語のデカさ」と「発信者の資格」の話が混同されてしまっているのだ。

 なぜそんなことが言えるのか、根拠となる箇所を引用しよう。ちなみに引用箇所は本文のかなり初めの所に登場する。

「欧米に住んでいたわけでもないのに、なぜそんなことが言えるの?」といった違和感を与える言い方なのです。

同上

 この引用文より前の部分で列挙された具体例のなかに例3「〜は欧米では当たり前」がある。上記引用文とは直接的な関係は示されていないのだが、文章の位置関係から引用文は例3への批判であると解釈できるだろう。そして、表題および文頭の「主語がデカい」概念の定義の紹介から、この引用文は「主語がデカい」との観点からの批判として提示していると考えられる。しかし、引用文の内容をよく見てみると、主語がデカさの観点からの批判としてはかなりオカシイのだ。

 引用文の「欧米に住んでいたわけでもないのに、なぜそんなことが言えるの?」という批判は、発信者の発信するに足る資格の有無を問題視している。「欧米に住んでいたならば発信してもよい。しかし欧米に住んでいないならば発信する資格はない」という前提が、引用での批判をする批判者の考えのなかにある。つまり発信者の資格・能力を疑問視しているのである。

 発信者の資格・能力を疑問視することは、「主張内容の過剰な一般化の誤謬」や「発信者の過剰な一般化の誤謬」を問題視することとは全く別である。したがって「主語がデカい」とは何の関係も無い部分を引用文では批判対象としているといえるのだ。

 すこし小竹氏の記事から離れて、先に出した例ウの一部を改変した例オを用いて「主語のデカさ」と「発信者の資格」の違いを解説する。

例オ:「『男はバカだ』と女は思っている」と男性Dが主張した

 例オにおける発信者の資格・能力に対する批判は「女性の意見を代弁する資格が男性Dにあるのか?」という批判になる。

 「Dが女性であれば『女は○○と思っている』と主張しうるが、Dは男性なのだから『女は○○と思っている』と主張できないのではないか?」という観点での批判に関して、その批判対象は男性Dの代弁者資格の有無である。つまり、「男はバカだ」の部分における「男」の主語のデカさや「『男はバカだ』と女は思っている」の部分における「女」の主語のデカさは批判対象ではない。この観点での発信者の資格・能力に対する批判は基本的に「主語のデカさ」とは関係が無いのだ。

  もちろん、例オにおいても例ウとも同様の部分、すなわち「主張内容(=「男はバカだ」)の過剰な一般化の誤謬」も「発信者の過剰な一般化の誤謬」もある。

 例オの発信者は男性Dであるので、文法的観点からは「男はバカだ」と思っている主体ではない(ただし、自分は主張していない態で、別の主体の意見として自分の意見を仮託することはしばしば観察される。とはいえ例オについて女性の意見として自分の意見を仮託しているかどうかは微妙ではある)。したがって、「自分の意見はみんなの意見」型の発信者自身の範囲を拡大して過剰に一般化する誤りはあり得ない。

 だが、「あの人の意見はみんなの意見」型の、特定の女性の意見を女性全体の意見としてしまう誤謬は例オにおいてもあり得る。この誤謬の構造は、先程の男性Dの代弁者資格の有無を問題視した構造とは異なる。

 このことを考えるにあたっては下の状況を想像すると理解しやすい。

状況:女性Eが「男はバカだ」と言っているのを男性Dは聞いた。その女性Eの発言から「女性は『男はバカだ』と思っているんだ」との信念を男性Dは抱いた。

この状況は、一部の女性が言っていることを全部の女性が言っていると思い込んでしまうという、巷でよくみられる話である。

 この状況において「なぜ女性Eの意見が女性全体を代弁した意見と見做せるのか」に関して、女性Eの資格と男性Dの資格を問題視し得る。すなわち、「女性Eが見識を持った女性であるから、彼女の意見は女性全体の意見と見做し得る」なる場合と、「男性Dが見識を持った人物であるので、彼が『女性Eは女性を代表し得る』と判断したため、女性Eの意見を女性全体の意見として見做し得るのだ」となる場合である。

 女性Eの代表性を批判対象とする場合と「女性Eの代表性」を認めた男性Dの見識を批判対象とする場合に分かれるが、どちらの場合も女性Eに関わる部分においては「主語のデカさ」が関係する。

 ここでこれまでの考察を整理しよう。

例オ:「『男はバカだ』と女は思っている」と男性Dが主張した

【主張内容(=「男はバカだ」)の過剰な一般化の誤謬】が批判される場合
「男はバカだ」と思っている現実の女性が居て、その現実の女性の信念に登場する「バカな男」が男全体の有り方として過剰に一般化されている場合

【発信者(=男性D)の資格・能力】が単純に批判される場合
「男はバカだ」と思っている現実の女性を実際に示す構え無しに、自分の想像上の女性の意見、すなわち机上の空論の自分の意見を女性全体の意見として、男性Dが女性全体を代弁しようとしている場合

【特定の女性の意見を女性全体の意見としてしまう誤謬】が批判される場合
「男はバカだ」と思っている現実の女性が居て、その特定の女性の意見が女性全体の意見として過剰に一般化されている場合

【発信者(=男性D)の資格・能力】が複合的な形で批判される場合
「男はバカだ」と思っている現実の女性が居て、その特定の女性の意見を女性全体の意見であると判断した男性Dの見識に疑義がある場合

 以上がこれまで述べてきた、例オに対する批判の形である。このとき、「主語がデカい」と言い得るのは1番目と3番目の批判である。2番目と4番目は発信者の資格・能力を批判しているのであって批判対象は主語のデカさではない。

 ただし、4番目の批判に関しては「特定の女性の意見が女性全体の意見である」との男性Dの判断において過剰な一般化がなされているために「主語のデカさ」と間接的に関係してくるが、批判対象はあくまでも男性Dの見識であって「主語のデカさ」とは直接的には関係が無い。

 また、上記の1番目の批判を根拠として4番目の批判が行われるケースも考えられる。大元の主張において主語がデカい場合、その大元の主張はたいてい極論や暴論といった雑な主張である。そんな極論や暴論を主張する人間の意見を全体の意見として紹介する論者に対して、その論者の見識に疑義が生じる場合がある。この場合は、4番目の発信者の資格・能力への批判であっても、大元の主張の主語がデカさが批判において関係してくることもある。とはいえ、この場合もメインの批判対象はあくまでも発信者の資格・能力である。

 話を小竹氏の本文の例に戻そう。

 「欧米に住んでいたわけでもないのに」との理由で生じる違和感は、「欧米に住んだことのない奴は欧米の実情を大して知ってもいないだろう。そんな半可通の奴が言っているテキトーな事をなぜ信用しなければならないのか」といった、発信する資格を有しない半可通への不信からくる違和感であって、主張における主語のデカさからくる違和感ではないのだ。

 以上のように、「主語のデカさ」について小竹氏が適切に掴んでいるとは言いかねる部分が本文に存在する。


まとめ

「主語がデカい問題」が持つ誤謬の種類には2種類あって、一つは「主張内容の過剰な一般化の誤謬」であり、二つ目は「発信者の過剰な一般化の誤謬」である。

 また発信者の過剰な一般化について更に詳しくみれば、「自分の意見はみんなの意見とする誤謬」と「あの人の意見はみんなの意見とする誤謬」がある。

 主語がデカい問題に近接して登場する問題として「発信者の資格の問題」がある。この発信者の資格の問題について、主語がデカい問題に直接関係する問題と、間接的には関係するが本質的には主語がデカい問題ではない問題に分けられる。

 主語がデカい問題と直接関係する問題は、「自分の意見がみんなの意見とする場合」の発信者自身が代表者としての資格を持つのかどうかという問題である。

 本質的には主語がデカい問題とは関係のない問題も2種類あり、「発信者とは別の主体の意見を発信者が代弁している場合の代弁者資格の問題」と、「発信者とは別の主体に属する特定の人物や集団の意見をその全体の意見として紹介する紹介者資格の問題」である。

 以上のことを踏まえて、小竹氏の記事における「主語がデカい」に関する議論への批判を確認しよう。

 小竹氏の記事の文頭における「主語がデカい」の定義においては、「主張内容の過剰な一般化の誤謬」と「発信者の過剰な一般化の誤謬」とを混同し、一纏めにしてしまっている問題がある。

 また、本文の議論のなかで、「主語がデカい問題」と「発信者の資格の問題」が混同されている問題がある。とりわけ、主語がデカい問題とは無関係の「発信者の代弁者資格の問題」が主語がデカい問題として扱われてしまっている。

 ただし、「はじめに」の部分でも述べたが、これらの小竹氏の記事への批判は、記事の中心的なテーマとは言えない客寄せパンダの部分、すなわち「主語がデカい問題」の部分への批判であり、記事全体に対する論評ではない。

 また、当記事の中心的な関心事は小竹氏の記事ではなく「主語がデカい問題」である。「主語がデカい問題を考察」するにあたって「小竹氏の記事への批判という手段」を用いた形である。そのところをおさえて頂ければ幸いである。

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