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航空機事故におけるペットの問題

 2024年1月2日の羽田の航空機事故においてペットの扱いの問題が広く話題となっている。当該問題に関して取り得る立場は色々あろうかと思うが、大前提となる立場の違いを以下の三つの質問に対する回答で確認しておこう。


  • 航空機事故における「他人のペットが優先されて自分が死ぬ事態」と「他の人間が優先されて自分が死ぬ事態」との間には差異があるのか否か。

  • 航空機事故における「他人のペットが優先されて自分の子供が死ぬ事態」と「他人の子供が優先されて自分の子供が死ぬ事態」との間には差異があるのか否か。

  • 「あの人の子供よりも私の子供を助けて!」と叫ぶ親の身勝手さと「あの人の子供よりも私のワンちゃんを助けて!」と叫ぶ犬の飼い主の身勝手さの間に差異があるのか否か。前者と後者を耳にしたときの寛容さに差異があるか否か。

     差異があるとする立場A  差異がないとする立場B


 「人の命もペットの命も同じ命なんだから救って!」との主張が散見されるが、上記の三つの質問において立場Bを貫き通せるのだろうかを考えて欲しい。Bの立場を維持できるならば、現在の航空機運営体制の立脚する思想的立場を否定し得る、(ある意味で奇妙な事ではあるのだが)対等な思想的立場にいる。つまり、「結局、自分や自分の子供が死ぬ結果は変わらないんでしょ?それなら、他人のペットが優先された結果であろうが、他の人間が優先された結果であろうが、倫理的には一切の差異が無い」とするような思想的立場に居るのであれば、危機的事態におけるペット救済に関する技術論に踏み込むことができる。しかし、Aの立場を取るにも拘わらず「人の命もペットの命も同じ命なんだから救って!」と主張するのであれば、それは詰まるところ思慮が足りないだけである。

 このような、危機的事態における倫理上の問題を考えるにあたって「カルネアデスの板」という、緊急避難の本質や限界を考える思考実験がある。今回の航空機事故のペット問題は究極的には生命対生命の問題であるので、言ってみればカルネアデスの板問題の変種なのだ。

 ここで「カルネアデスの板」が何であるか事典の説明で確認しておこう。

カルネアデスの板
 倫理学的な思考実験の一つであるが、刑法学においても格好の素材とされる。古代ギリシアの哲学者カルネアデスが問題提起した事例に関連してこの名がつけられた。洋上で船が難破した際、漂流者が、1人しかつかまれない板を、他の漂流者から奪い取って生き延びた場合、この行為は正当といえるかどうかを、カルネアデスは問うた。この事例は、今日の刑法理論によれば、自分の生命を救うためにやむをえず他人の生命を犠牲にすることが許されるかという刑法第37条の緊急避難の限界を論じたものである。そのため、緊急避難の本質や限界を論ずる際に、この事例がしばしば引用される。
 このような生命対生命の場合につき緊急避難が成立するかについては争いがある。すなわち、この場合を違法阻却事由として処理するか、違法ではあるが、期待可能性がないものとして責任阻却事由とするかという対立であるが、いずれによっても不可罰となる点では同じである。違法阻却の本質に関する社会相当説によって緊急避難を肯定する見解もあるが、法益衡量説(価値の低い法益を犠牲にして価値の高い法益を救う場合、その違法性は阻却されるという説。優越的利益説ともいう)によれば、生命という最高かつ特殊な法益については違法阻却にあたらないと解することになる。どの説をとるかによって、この種の行為に対して、被害者が正当防衛をなしうるかなどについて違いを生じる。

名和鐵郎 「カルアネデスの板」の項目 日本大百科全書(ニッポニカ) 小学館

 航空機事故におけるカルネアデスの舟板は(基本的には)「時間」である。脱出時間という舟板に乗客乗員が全員掴まれるかどうか不明のなか救出されていく。このとき当然ながら手回り品は持ち出せない。手回り品を持ち出す時間ロスや動作の阻害に伴う時間ロスは、手回り品などよりも貴重な他者の生命を奪うことになるために許容されない。航空機事故において荷物を持ち出すことは、海難事故において救命ボートの人間を乗せるスペースに荷物を載せるような行為である。更に言えば、一旦救命ボートに載せた荷物は二度と動かすことのできない状況に擬えることができる。このため、倫理的には航空機事故においては時間ロスになり得るものをそぎ落として自分の身一つで脱出すべきとなる。

 以上の説明で航空機事故における「カルネアデスの板的構造」は明らかだろう。そして、航空機事故におけるペット問題の核心もまた理解できるのではないだろうか。

 つまり、カルネアデスの舟板に他人を押しのけて自分のペットを乗せることは倫理的に正当化できるのか、あるいは逆に他人のペットによって自分や自分の子供がカルネアデスの舟板から押しのけられることは倫理的に許容できるのかと言う問題である。すなわち、航空機事故においてペットの代わりに人間が死ぬ倫理上の問題なのだ。危機的状況において人間とペットの生命が等価なのであれば、ペットが救出された代わりに人間が救出されなくとも倫理的な問題は発生しない。しかし、ペットが救出される代わりに人間が死ぬことを倫理的に許容できないのであれば、人間とペットの生命は等価ではない。したがって、航空機事故において脱出できず死亡する生命に関して人間の生命とペットの生命が入れ替わることを不正義とするのか否かの問題なのである。


■追記:「問われる質問」について

 当記事冒頭の質問に関して、なぜ「自分のペットと他人や他人の子ども」の比較でないのかについて補足しておきたい。非常に当たり前のことなのだが、自己の行為に関して他者からの是認を得ようとする場合、他者の同意が必要である。すなわち、「あぁ、あなたはその行為をしてもいいですよ」と他者が同意しない限り、他者から自己の行為が是認されることはない。この構造をよく理解していない有名人の主張で、ニュースに取り上げられたものとしては以下のものがある。

 ロシア出身のタレントでコラムニスト・小原ブラス(31)が5日までに自身のスレッズを更新。羽田空港で日航機と海上保安庁の航空機が衝突して炎上し海保機の乗員5人が死亡した事故で、日航機の貨物室に預けられたペットは救出できなかったという報道について言及した。
 小原は「全然共感欲しくて書く訳じゃないのだけど、羽田衝突事故の件、やっぱ預けられたペットが燃える機内に残され死んじゃったの辛すぎる」と吐露。
 「ペット同伴可の便でも緊急時はペットを機内に置いていかないといけないルールも納得いかない。キャビン同伴なら動物は抱っこして連れていくべきだと思う」と投げかけていた。
 また「人命に関わると言う人もいるけど、動物は物じゃないから人命に関わったとしても人間と同等に助けるべきだと私は思う派です。人命優先主義の人には怒られるだろうけどね。うちのダルメシアンの顔を想像したら、他人が死のうが最優先で助けるもん」と思いをつづっていた。

小原ブラス、羽田事故“ペット犠牲”に沈痛「動物は物じゃない…」置いていくルールには「納得いかない」
2024/1/4 スポニチAnnex

 この記事はyahoo!ニュースにも転載されているのだが、記事に付いた以下のヤフコメが先述の構造をよく示している。

「他人が死のうが最優先で助けるもん」 これが答えですよね。

 飼い主にとっては家族同然だから、そのへんの他人の命よりも大事なのが本音でしょう。 何で理解されないのかみたいに思ってるのかもしれませんが、逆です。 みんなその気持ちをちゃんと理解してます。 だからこそ有事の際本当にあなたが何十人殺してでもペットを優先するだろうと容易に想像できるのです。 だから機内持ち込みが許されることはないだろうと思いますし、自分は絶対にそうであってほしい。

上記の記事についたコメント

 小原ブラス氏の主張と記事につけられたコメントを併せて読むと、なぜ「自分のペットと他人や他人の子ども」ではなく「他人のペットと自分や自分の子ども」となるのかが理解できるだろう。つまり、他人や他人の子どもに優先して自分のペットを優先する行為に是認を与えるのは、まさしく「他人のペットに代わりに自分や自分の子どもが死ぬ」という他者なのだ。

 それゆえにこそ、他者の立場から他人のペットに代わりに自分や自分の子どもが死ぬことが許容できるのかどうか判断しなければならない。そして、(現在の技術的前提のもとで)「航空機事故においてペットも人間と同等に脱出できるべきだ」と主張する最低限の条件として「感情的には認めがたいが、理屈として他人のペットに代わりに自分や自分の子どもが死ぬ事態は許容しなければならないな」と他者の立場から自分が納得し得るだけの理屈を見出しておく必要がある。


■補論:自己の行為に関する他者からの是認

 「なぜ○○してはいけないの?」という倫理上の問題が問われるのは、緊急事態におけるペットの問題だけではない。実に様々な局面でみられる問題だ。しかし、倫理上の問題が問われる場合の「自己の行為に関する他者からの是認」の構造を理解していない人間というものは少なからぬ数がいる。とりわけ倫理上の問題の問いかけをする人間の思考が幼稚である場合、この構造に全く気付くことがないことがないケースが少なくない。そこで、このことについて論じていこう。

 いわゆる中二病とも言われる、中学二年生くらいの精神水準の人間が思い巡らすことの多い倫理上の問題として「なぜ人を殺してはいけないのだろうか」という問題がある。実はこの問題は倫理というものの本質をよく浮かび上がらせる問題なので、この問題を適切に思考することは倫理を深く理解するのに役に立つ。そこで、「なぜ人を殺してはいけないのだろうか」という問題を見ていくことで、倫理問題における自己の行為に関する他者からの是認の構造を説明することにしよう。

 実は倫理問題は、問いの内容に踏み込む前に「なぜ○○してはいけないの?」と問いかける行為の有り様に注目しなければならないという、少し特異な構造を持っている。すなわち、内容以前に問いかける行為が倫理問題における自己の行為に関する他者からの是認の構造を創り出すのである。言い換えると、非独我論的世界を前提とした問いが倫理問題なのである。

 それというのも、独我論においては「なぜ○○してはいけないの?」との問いは単なる自問自答であり、功利計算の技術問題に還元できるため、当人へのメリットデメリットの比較衡量で決定される。そして、なによりも重要なのだが、独我論において他者の評価というものは一切存在しない。究極的には「自分がいいと思ったからいい、自分がよくないと思ったからよくない」という構造となり、価値判断の一切において一片たりとも他者の判断が入り込むことが不可能となる構造が、独我論での倫理問題となる。もちろん、独我論においても他者の判断によって自己の利得が変化する状況というものは起こり得る。しかしそれは、数学者フォン・ノイマンと経済学者モルゲンシュテルンが切り開いて現在も精緻化が進むゲーム論的状況に過ぎない。詰まるところ、功利計算の技術問題に還元できるものだ。すなわち、「自分がいいと思ったからいい、自分がよくないと思ったからよくない」という構造に変化はない。

 しかし、他者に「なぜ○○してはいけないの?」と問いかけ、その問いの回答についての正当性を他者とも共有しようとするとき、その大前提として他者の存在がそこにはある。すなわち、その行為は独我論の世界に閉じていない。そして、自分の回答に正当性を与えるものとしての他者の判断を要求している。

 つまり、「自分がいいと思ったからいい、自分がよくないと思ったからよくない」と認識した行為に対して、黙って実行ないしは黙って取りやめるといった事が出来ずに他者にアレコレ説明や弁明しているようでは、とうてい自己完結しているとはいえない。自己の行為(の予定や希望)に対する他者への説明や弁明は、自己の行為の正当化に他者の存在と判断を必要としていることの証左である。

 倫理問題を問いかける行為自体が、他者の判断を必要不可欠とするために、「なぜ人を殺してはいけないのだろうか」という倫理問題についての問は、他者に対して以下の二つの問いを問いかけていることに他ならない。

  1. あなたが私を殺してもよいか

  2. 私があなたを殺してもよいか

 通常の場合において、この1と2の双方の質問に対してYesと答える人間は基本的に居ないだろう。大抵の人間は2の質問に対して「自分が殺すのはともかくとしても自分が殺されるのは断固拒否する!」と答えるだろう。つまり、他者は「自分が殺されることを拒否する=自分を殺す正当性を与えない」のだから、回答の正当性に他者の判断を要求する場合の「なぜ人を殺してはいけないのだろうか」との問いに関して、基本的に「殺してはいけない」という回答以外は得られない。

 もちろん、これには例外的状況もある。つまり、上述の1と2の質問双方に対してYesと他者が回答する場合である。

 このような例外的状況を扱っている倫理学の典型的な分野としては戦争倫理学の分野がある。「あなたは私を殺してもいいし、私もあなたを殺してもいい」とお互いが了承し合っている"交戦状態"における倫理が戦争倫理だ。実際上の有り方は、ハーグ陸戦条約やジュネーブ条約などの戦時国際法にある通りである。しかし、それらの戦時国際法の根幹を為すものは「あなたは私を殺してもいいし、私もあなたを殺してもいい」という関係なのだ。

 例えば「交戦者資格を持つ兵士は、原則的に軍服を着用し、公然と武器を携帯していなければならない」との規定が典型的である。この規定は「あなたは私を殺してもいいし、私もあなたを殺してもいい」と兵士が了承していることを公然と示すためのものだ。一方、軍服を着用せず、武器も携帯していない文民に対して兵士が原則的に攻撃してはいけないのは、「あなたは私を殺してもいいし、私もあなたを殺してもいい」とは文民が了承していないことを「軍服を着ていない事、武器の不携帯」によって示しているからである。また逆に、軍服を着用せずに武器を隠し持った便衣兵・ゲリラが戦時国際法で非合法な存在とされるのは、便衣兵・ゲリラの存在が兵士と文民との区別を不可能にすることで「軍服を着ていない事、(外観上の)武器の不携帯」が「あなたは私を殺してもいいし、私もあなたを殺してもいい」についての同意あるいは不同意を示さなくなるためである。

 以上で論じた「なぜ人を殺してはいけないか」あるいは「なぜ人を殺してもよいか」に関する倫理問題は、いずれの場合も他者の同意によってその正当性を獲得している。すなわち「人を殺す」という究極的な行為においても、他者に正当性の一端を担わせるならば、他者の同意が必要であるのだ。つまり、自分だけで行為の正当性を完結することなく他者に訴えかけて正当性を獲得しようとする態度でいるとき、その倫理問題においては他者からの是認が必要不可欠となる構造を持つのである。










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