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差別主義者のごはん論法「差別と区別」

 差別問題を議論するとき「差別と区別の違い」がトピックになることがある。しかも、かなり根本的なそもそも論で争点になることがある。2023年現在でホットな話題でいえばLGBT問題、とりわけトランスジェンダー(とトランスジェンダーに偽装した男性)の公衆トイレや公衆浴場の利用・悪用問題だろう。とはいえ、それらの問題は私の主な関心事ではないため深入りしない。また、日本の社会的関心事としてはかなり下火になったBLM問題でも「差別と区別の違い」は問題になっていた(註1)。あるいは朝鮮学校の補助金問題なども区別なのか差別なのかで議論になる。

 つまり、差別問題は差別対象がなんであれ区別の概念と根本的にかかわっている。

 この差別問題における「区別/差別」のトピックは、「区別を差別」と主張するケースもあれば「差別を区別」と主張するケースがある。どちらのケースもウンザリするような詭弁が弄されることが多いのだが、本稿では「差別を区別」と主張するケースについてみていこう。

 その中でもとりわけ差別主義者が用いるごはん論法を今回取り上げる。


「区別/差別」の判断基準となる倫理の重要性と詭弁の横行

 差別と区別の行為そのものについていえば「対象に関して異なる扱いをする」という点において、区別にも差別にも違いは無い。差別問題が議論される文脈での区別と差別の違いは、その行為そのものに対する価値判断にあるのだ。当該行為が正当であれば区別であり、不当であれば差別なのだ。そして、正当・不当を判断するのが倫理である。

 この関係を譬え話で説明しよう。

 野球で「球を打った後に一塁まで走る」という行為は同じであっても、アウトになるときとセーフになるときがある。そのアウトとセーフは野球のルールにしたがって判断される。

 つまり、「対象に関して異なる扱いをする」という行為に対して、倫理によってアウトとされたものが差別と称されるのであり、セーフとされたものが区別と称されるのだ。すなわち、「正当-不当」という対概念に対応した「区別-差別」の対概念があるのであって、差別問題の議論の文脈において差別概念が区別概念と単独で存在しているわけではないのだ。

 対象に関する異なる扱いが差別になるのか区別になるのかは、倫理によって決まる。「○○は差別ではなく区別なのだ」と主張するとき、あるいは逆に「○○は区別ではなく差別なのだ」と主張するとき、その主張がどのような倫理に依拠しているのか主張者は明確にする必要がある。

 しかし、残念ながらどちらの場合も自らが依拠する倫理を明らかにしないことが多々ある。「AとBとでは扱いが違う!差別だ!」と主張するときになぜ扱いが違えば差別といえるのか、「AとBとでは扱いが違っても差別ではない!単なる区別だ!」というときになぜ扱いが違っても差別にならないのか、その判断基準となる倫理が明確でなければどんなに違いを声高に主張されても主張の正しさを主張自体から判断することはできない

 具体的な問題における区別・差別の議論において、区別・差別の判断をする際に依拠する倫理を明確にしないならば、その判断の正しさを検証することはできない。正当なり不当なりを判断する基準が不明ならばどうやってその判断の正しさを論理的に導き出すことができるだろうか。

 判断の根拠を示さず結論ありきで主張が為されるならば、議論相手や観衆にそれらしく見える理屈が提示されることになろう。そして、それらしく見える理屈というものは得てして詭弁になってしまうのだ。

 本稿で問題にする差別主義者のごはん論法は、「区別/差別」のトピックにおける倫理の決定的な重要性を理解していない思考・あるいは理解しているからこそ故意に誤魔化そうとしている態度から来ているのだろうと思われる。


一般的文脈の「区別」と差別問題の議論の文脈の「区別」

 差別問題の文脈を離れて「区別」の語が登場するときは、単に以下の辞書的な意味になる(註2)。

く‐べつ【区別】 
[名](スル)あるものと他のものとが違っていると判断して分けること。また、その違い。「善悪の―」「公私を―する」

大辞泉

 辞書的意味から分かるように、差別問題の文脈から離れて一般的文脈になると「区別」の語と倫理は関係が無い。例えば「スイカの種とメロンの種を区別する」「合格者と不合格者を区別する」といった語の使用法で考えれば明白なように、"違っていると判断して別扱いをする行為"そのものに対する正当性についての価値判断を、一般的文脈においては(基本的には)行っていない。一般的文脈における「区別」の語の意味は単に「あるものと他のものとが違っていると判断して分けて別扱いをする」といった程度の内容しか持たない。

 しかし、一般的文脈の辞書的意味と差別問題の議論での文脈による区別の意味の差から、差別主義者はごはん論法の詭弁を用いることがあるのだ(註3)。

 つまり、「あるものと他のものとが違っていると判断して分けて別扱いをする」という行為自体への価値判断を伴わず行為内容のみを指す語としての「区別」と、「倫理的に正当な別扱い」という価値判断を伴う行為を指す語としての「区別」を、同一議論において使い分けるといった詭弁を弄することがあるのだ。

 何故そのようなことが可能であり、何故そのようなことをする動機があるのかといえば、「区別」の語が差別問題の文脈においては「差別」の語と排反的関係にあるのに対して一般的文脈においては「差別」の語を包含する関係にあるからなのだ。


差別主義者のごはん論法

 では、ある程度の抽象性を持った形での差別主義者のごはん論法の例を用いて考察していこう。ただしこのとき、「区別」の語に関して、

区別A:特徴や違いで単に分けて別扱いする行為を指す語としての「区別」
区別B:分けて別扱いする、倫理的に正当な行為を指す語としての「区別」

と表現してごはん論法の構造を分り易くする工夫をする。

[差別主義者のごはん論法の原型]
 ある差別に対して「この差別は、大前提として○○という違いで分けているよね。つまり、○○で区別Aしているんだよね。それは『区別という語で表現される事態』なんだから、差別ではなく区別Bであって倫理的に正当な行為だよね

 上記の抽象的な原型の構造からは「なにを無茶苦茶な理屈で差別を正当化しているんだろう?」との感想をすぐに抱くだろう。しかし、その感想が抱けるのも差別主義者のごはん論法のおかしさが明確になるように抽象化して例示しているからだ。抽象度が下がって具体的な形になるほど、この詭弁に気づかない人が出てくる。

 それはさておき、原型の正当化の理屈は以下だ。

  1. 区別Aする事態

  2. 「クベツする」との音の連なりの文で表現される行為をする事態

  3. 区別Bする事態=倫理的に正当な行為をする事態

 一見すると「1.は2.である。2.は3.である。ゆえに1.は3.である」といった推移律から論理的に導出されているかに見える。しかし、ここが詭弁の詭弁たる部分だ。それっぽく見えなければ詭弁にならない。それゆえ、あたかも論理法則の推移律から導き出されているかのような外見を演出するのである。しかし、当然ながら、これは推移律に則った導出ではない。では、この部分の論理的に正しい形はどうなるか見てみよう。

1.区別Aする事態
2’.特徴や違いによって単に分けて別扱い行為をする事態
2”.倫理から正当と判断された"分けて別扱い行為"をする事態
3.区別Bする事態

 つまり「1.は2’.である。2”.は3である。1.と3.は関係ない」となるのだ。このように差別主義者のごはん論法は論理的に間違っている。しかし、この手の間違っている理屈で差別主義者はヘンテコな主張をすることがあるのだ。


ごはん論法を用いる差別主義者には何が足りないか

 差別主義者がそんなごはん論法を用いたヘンテコな主張をすることに関してピンとこない人もいるだろう。そこで、もう少し抽象度を下げて差別主義者のごはん論法の主張を3つほど例示しよう。

[抽象例1]
 ある人種差別に対して「この人種差別は、大前提として人種という違いで分けているよね。つまり、人種で区別Aしているんだよね。それは『区別という語で表現される事態』なんだから、差別ではなく区別Bであって倫理的に正当な行為だよね

[抽象例2]
 ある男女差別に対して「この男女差別は、大前提として性別という違いで分けているよね。つまり、性別で区別Aしているんだよね。それは『区別という語で表現される事態』なんだから、差別ではなく区別Bであって倫理的に正当な行為だよね

[抽象例3]
 ある趣味による差別に対して「この趣味による差別は、大前提として好み違いで分けているよね。つまり、好みの違いで区別Aしているんだよね。それは『区別という語で表現される事態』なんだから、差別ではなく区別Bであって倫理的に正当な行為だよね

 上記は差別の対象を変えているだけで、詭弁の構造には変化が無いことは明らかである。では、さらに抽象度を下げて具体的にしよう。この辺りまで抽象度を下げると、差別主義者のごはん論法の詭弁にもっともらしい印象が生じ始める。

[具体例1]
 黒人はバスの後ろに座り、白人はバスの前に座る制度に対して「バスの座席指定制度は、大前提として黒人と白人で分けているよね。つまり、人種で区別Aしているんだよね。それは『区別という語で表現される事態』なんだから、差別ではなく区別Bであって倫理的に正当な行為だよね

[具体例2-1]
 ある男女の就職差別に対して「男女別採用コース分けは、大前提として男性と女性で分けているよね。つまり、就労期間中に妊娠する可能性の有無で区別Aしているんだよね。それは『区別という語で表現される事態』なんだから、差別ではなく区別Bであって倫理的に正当な行為だよね

[具体例2-2]
 男女の兵役差別に対して「男性への兵役義務は、大前提として男性と女性で分けているよね。つまり、子供を産めるか産めないかで区別Aしているんだよね。それは『区別という語で表現される事態』なんだから、差別ではなく区別Bであって倫理的に正当な行為だよね

[具体例3]
 萌イラスト排除に対して「萌イラスト排除は、大前提として画風という違いで分けているよね。つまり、画風で萌イラストかそうでないかの区別Aをしているんだよね。それは『区別という語で表現される事態』なんだから、差別ではなく区別Bであって倫理的に正当な行為だよね


 上記の具体例1は、アメリカの公民権運動の発端となった有名な事件を下敷きにした例なので、ごはん論法に気づかずとも題材から不当であることが常識的判断として明々白々である。したがって、「ごはん論法という詭弁を用いているから主張がオカシイ」という認識にはらなないかもしれない。あるいはむしろ、間違っていることが明白だから主張に説得力を感じず、ごはん論法という粗を見つけ易いかもしれない。

 しかし、以降の具体例2-1,2-2,3に関しては、同じ側で主張する人達が現在も少なからず居る主張であるから、具体例1のような題材による常識的判断は批判的思考の邪魔をしないだろう。

 とはいえ、具体例2-1,2-2、3のいずれの場合も差別主義者側の主張であるので、主張への批判的検討無しに「立ち位置からしてオカシイ」とする党派的思考しかできない人もいるかもしれない。あるいは逆に、具体例に目を通したとき「自分達の主張サイドがストローマン論法で貶められている」と解釈して反発する人達もいるかもしれない。

 もしも上記のような党派的思考しか出来ない人は是非とも主張の論理構造に着目する「批判的思考」を養っていただきたい。

 さて、では具体例2-1から2-2,3といった順でみていこう(具体例1は省略)。

 ある男女の就職差別に対して「男女別採用コース分けは、大前提として男性と女性で分けているよね。つまり、就労期間中に妊娠する可能性の有無で区別Aしているんだよね。それは『区別という語で表現される事態』なんだから、差別ではなく区別Bであって倫理的に正当な行為だよね

具体例2-1

 具体例2-1において、まず一般的文脈での区別の意味すなわち「差異を判断して分ける」という意味で「妊娠する可能性の有無で区別している」というのは(具体例の世界での)事実を記述しているだろう。しかし、その事実は就職において就労期間中に妊娠する可能性の有無で分けることの倫理的な正当性を何ら保障しない。つまり、その事実を記述している表現は、差別問題の議論の文脈で用いられる「区別=倫理的正当性を満たす異なる取り扱い」ではないのだ。この「区別=差異を判断して分ける」と「区別=倫理的正当性を満たす異なる取り扱い」とを混同して議論することが、この男女差別問題におけるごはん論法である。したがって、この理屈を用いても「男女別採用コース分けは差別ではなく区別」とは論理的には言えないのだ。

 男女の兵役差別に対して「男性への兵役義務は、大前提として男性と女性で分けているよね。つまり、子供を産めるか産めないかで区別Aしているんだよね。それは『区別という語で表現される事態』なんだから、差別ではなく区別Bであって倫理的に正当な行為だよね

具体例2-2

 具体例2-2において、まず一般的文脈での区別の意味すなわち「差異を判断して分ける」という意味で「子供を産めるか産めないかで区別している」というのは(具体例の世界での)事実を記述しているだろう。しかし、その事実は兵役において子供を産めるか産めないかで分けることの倫理的な正当性を何ら保障しない。つまり、その事実を記述している表現は、差別問題の議論の文脈で用いられる「区別=倫理的正当性を満たす異なる取り扱い」ではないのだ。この「区別=差異を判断して分ける」と「区別=倫理的正当性を満たす異なる取り扱い」とを混同して議論することが、この男女差別問題におけるごはん論法である。したがって、この理屈を用いても「男性への兵役義務は差別ではなく区別」とは論理的には言えないのだ。

 萌イラスト排除に対して「萌イラスト排除は、大前提として画風という違いで分けているよね。つまり、画風で萌イラストかそうでないかの区別Aをしているんだよね。それは『区別という語で表現される事態』なんだから、差別ではなく区別Bであって倫理的に正当な行為だよね

具体例3

 具体例3において、まず一般的文脈での区別の意味すなわち「差異を判断して分ける」という意味で「イラストの画風で区別している」というのは(具体例の世界での)事実を記述しているだろう。しかし、その事実はイラストの排除について画風で排除するものとしないもの分けることの倫理的な正当性を何ら保障しない。つまり、その事実を記述している表現は、差別問題の議論の文脈で用いられる「区別=倫理的正当性を満たす異なる取り扱い」ではないのだ。この「区別=差異を判断して分ける」と「区別=倫理的正当性を満たす異なる取り扱い」とを混同して議論することが、この萌イラスト排除問題におけるごはん論法である。したがって、この理屈を用いても「萌イラスト排除は差別ではなく区別」とは論理的には言えないのだ。


まとめ

 差別問題における「区別/差別」のトピックの問題の中で、「それは差別ではなく区別だ」と主張する側がしばしば用いるごはん論法について本稿では取り上げた。

 まず、「区別/差別」の判断はそもそも倫理に依拠していることをみた。そして、判断基準となる倫理の明確化が軽視されているからこそ「区別/差別」についての議論のなかで、詭弁であるごはん論法が横行する事態になっているとの見解を示した。

 つぎに、差別主義者のごはん論法を見るにあたって、重要な働きをする「区別」の概念の、一般的文脈における意味と差別問題が議論されるときの意味の違いを見た。そして、差別主義者のごはん論法は、その二つの意味の違いを混同させる構造を持っていることを確認した。

 最後に、差別主義者のごはん論法を用いた議論が、具体的にはどのような形になるのかを考察した。そして、そのような場合における「これは差別ではなく区別だ」との主張を導き出すにあたって何が欠如しているかを示した。


註1
 ちなみに、BLM問題は結局のところ黒人奴隷貿易を行った欧米の問題、更に言えばアメリカ社会の問題であって決して世界全体の問題ではないと私は思う。もちろん人種差別自体は世界的な差別問題ではある。だが、全世界的差別問題としてBLM問題を中国のウイグル問題やインドの不可触選民問題とは比較にならないぐらいに特別視していた様々な議論には疑問を感じる

註2
「差別」の語の辞書的意味も確認しておこう。

さ‐べつ【差別】 
[名](スル)
1 あるものと別のあるものとの間に認められる違い。また、それに従って区別すること。「両者の―を明らかにする」
2 取り扱いに差をつけること。特に、他よりも不当に低く取り扱うこと。「性別によって―しない」「人種―」
3 ⇒しゃべつ(差別)
しゃ‐べつ【▽差別】 
1 「さべつ(差別)」に同じ。
「世のために益あることは躊躇 (たゆた) うことなく為し、絶えて彼此 (かれこれ) の―なし」〈樗牛・滝口入道〉
2 仏語。万物の本体が一如平等であるのに対し、その万物に高下・善悪などの特殊相があること。

大辞泉


註3
「ごはん論法」のワードも流行語となり、ヘンテコに感じる理屈全般に「ごはん論法」のワードが用いられ、そのワードの使用法自体が本来の"ごはん論法"の詭弁に類似しているという事態が出来していたのだが、最近は流石に流行語としての旬が過ぎたため、本来の使用法で用いられような印象をうける。ちなみに、このワードの辞書の解説は以下。

ごはん‐ろんぽう〔‐ロンパフ〕【御飯論法】 
質問の趣旨をわざと外して回答し、追及をはぐらかそうとする話の進め方。実際にはパンを食べているにもかかわらず、「朝ご飯(=朝食)は食べたか」の問いに「ご飯(=米の飯)は食べていない」と答える類。

大辞泉

本文の「ごはん論法の構造」を辞書の説明文に合わせてみてみよう。

ごはんA:米の飯  ごはんB:食事

1.ごはんAは食べていない
2.「ゴハン」という音の連なりの語で表現されるものを食べていない
3.ごはんBは食べていない

「1.は2.である。2.は3.である。ゆえに1.は3.である」という論理法則の推移律を満たすがの如くの詭弁である。実際のところは以下である。

1.ごはんAは食べていない
2’.米の飯は食べていない
2”.食事はとっていない
3.ごはんBは食べていない

「1.は2’.である。2”.は3.である。1.と3.は無関係」なのである。

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