見出し画像

有名な「専業主婦の一日・サラリーマンの一日」の図の解像度

 少し昔に大炎上した、X(旧Twitter)界隈で有名な「専業主婦の一日、サラリーマンの一日」と題されたイラスト図を見直す契機があった。改めて「こりゃ酷いな」と感じるくらいのデタラメなもので、とりわけ"サラリーマンの一日"の方に関しては「解像度?なにそれ美味しいの?」といった風情である。「ネットミーム化する程バズるには、常軌を逸するレベルでなければならないんだなぁ」と変な方向で感心してしまい、「このトンデモっぷりをネタにnote記事書くか」と創作意欲が湧いた次第である。そんな訳で、今回のnote記事に関しては「専業主婦の一日、サラリーマンの一日」と題されたイラスト図の解像度をテーマに書いていくことにする。


■「専業主婦の一日、サラリーマンの一日」と題された図

 実に笑ってしまう話だが、「専業主婦の一日、サラリーマンの一日」と題されたイラスト図(イラスト図Ⅰ)は、専業主婦の大変さをアピールする目的で、次の台詞と共に投稿されたのだ。

専業主婦バカにすんな‼️

putten (@putten17) 2020年1月25日 X(旧Twitter)の投稿
イラスト図Ⅰ

 それにしても、サラリーマン側は肝心の仕事に関して何も挙げようとしないのに、「専業主婦の一日」と「サラリーマンの一日」の対比という形式で専業主婦とサラリーマンの仕事の負担感を比較しようというのだから、そのあまりの豪気さには恐れ入る。"解像度が粗い"といった表現では生温すぎて状況を表現できない程だ。

 ただ、まさかとは思うのだが「自分の視界の中に存在しないものは、想像しようと試みる事すら不要である」とイラスト図Ⅰの作成者(および同様のフェミニストを含む女性)が考えている可能性が私には否定できない。

 もちろん、相手が普通に思考ができる人間と想定できるのであれば、即座に「そんな考え方する奴は居ない」と否定できる。しかし、フェミニストを含む「男連中に女性である私が物申す!」と騒ぎ立てている人間に関しては、普通に思考ができる人間という想定を置くことが不適切であることが少なくない。彼・彼女らについていうならば、「だって、私はそんなの見てないんだから、そんなこと考えなくていいんじゃない?」と本気で考えている可能性を否定できない。

 私がそのような判断に至る根拠となるものをイラスト図Ⅰの中から示そう。

 さて、イラスト図Ⅰ「専業主婦の一日」はシーケンシャルな形で記述されている訳だが、内容で一纏めにできるものについて一部抜き出してみよう。

ゴミ捨て】
・家中のゴミ箱からゴミを回収する
・ゴミを分別して袋に入れる
・曜日を確認して当てはまるゴミを出しに行く

新聞を取りに行く】
・(帰りに)新聞を取ってくる
・新聞をテーブルに置く

イラスト図Ⅰ「専業主婦の一日」より抜粋

 イラスト図Ⅰにおいて列挙された一部である、上記の「専業主婦が一日の内で熟していること」を見て、読者はどんな感想を抱いただろうか?おそらく「え?そんなものを列挙するの?」といった驚愕ではないだろうか。

 私が分類名として挙げた作業、すなわち「ゴミ捨て」「新聞を取りに行く」まではギリギリ専業主婦の一日の作業として挙げたとしても何とか理解できなくもない。しかし、そこから更に作業の手順毎に分解して別々のタスクなのだとして列挙することは、「専業主婦の一日とサラリーマンの一日(でみる負担)の対比」という文脈において妥当ではない。そんなことをし出したらキリがないという手間の問題以上に、両者の仕事の負担という論点をボヤケさせる雑音にしかならないからだ。

 さらに重要なこととして、その程度のことを「専業主婦の一日の仕事」として挙げたとき、「サラリーマンの一日の仕事」に関しても同程度の仕事はいくらでも挙げることが出来るだろうと容易に想像がつく。それにもかかわらず、イラスト図Ⅰの「サラリーマンの一日」においては何も挙げられていない。この非対称性は一体何なのだ?との疑問が湧き上がるだろう。

 つまり「専業主婦バカにすんな‼️」と啖呵を切って上記のようなものを並べ立てても、「その程度のことは俺達もしているが、なんで『サラリーマンの一日』の方では挙げてないの?」と批判されるだろうと、普通に思考できる人間なら気付くと思われる。更に言えば、自分側である「専業主婦の一日」においては列挙の対象としているが、相手側である「サラリーマンの一日」においては列挙の対象としないとき、専業主婦像とサラリーマン像の解像度に差異が生じることについても普通に思考できるならば予測できるだろう。そして解像度に差異があるときはマトモな比較にはならないと、普通の思考が可能ならば容易に認識できるだろう。

 それにもかかわらず、イラスト図Ⅰにおいて「専業主婦の一日」に対比される「サラリーマンの一日」の仕事内容が空白であることは、「自分の視界の中に存在しないものは、想像しようと試みる事すら不要である」という異様な思考の表れではないかと思わせるのである。

 イラスト図Ⅰを見て疑問を抱いた人間は私一人ではなく、同様に感じてイラスト図Ⅰの作成者に反発した人は多数いる。反発した人達の言葉をいくつか挙げてみよう。

Mho(ムー) RKFの人 (@Mho9139610) 2020年1月26日
これよく見たらサラリーマンタイムカード押して昼めし食って帰ってるだけなんですよね、こんな仕事あるかよ

Mr.Z(モルモット)@MrZ1610Hz 2020年1月25日
サラリーマンの「仕事」が一切書かれていないように見えるのですが、まさかサラリーマンの仕事はタイムカードして昼食とって浮気して飲みに行ってるだけだとお思いで?
一回専業主婦辞めて社会に出て働いてみることをお勧めします

X(旧Twitter)の投稿

 X(旧Twitter)での短文の投稿による批判だけでなく、「専業主婦が考えるサラリーマンの一日」と「(実際の)サラリーマンの一日」を対比させた以下のイラスト図Ⅱを作成した人も現れた。

イラスト図Ⅱ

 更に、当初のイラスト図Ⅰをミラーリングした以下のイラスト図Ⅲをつくり、「もしも専業主婦側がこんな解像度でサラリーマンと対比されたら激怒するだろう?」と、イラスト図Ⅰの対比図は比較の条件が整っていないことを理解させようと試みる人も出てきた。

イラスト図Ⅲ

 さて、皮肉としてつくられた二つのイラスト図Ⅱ・Ⅲは、当初の「専業主婦の一日、サラリーマンの一日」のイラスト図Ⅰの思考の仕方のトンデモさの指摘、すなわち、思考の方法論上の問題を批判するものだ。

 詳しく説明すれば、イラスト図Ⅱが当初のイラスト図Ⅰの「サラリーマンの一日」がマトモな解像度を持たないシロモノであることを示そうとし、また、イラスト図Ⅲがイラスト図Ⅰの方法論のトンデモっぷりを実感させるためにミラーリングしている。

 つまり「専業主婦の一日とサラリーマンの一日を比較するなら、キチンと解像度を同レベルにしなさいよ」とイラスト図Ⅰの作成者に教えようとしていると言えるだろう。

 とはいえ、前回のnote記事で批判した、ジェンダー学のゼミに所属して専門的にジェンダー問題に関して学んだはずの学部学生のように、「自分たち女性は差別されているんだ!!」と思い込んで主張し始める(フェミニストを含む)女性達は、「男性側は実際どうなんだろう?」と思い巡らす必要があることに気づかない

 更には、真っ当に「男性側は実際どうなんだろう?」と疑問に持って考察することすら、女性差別を騒ぎ立てる人間は「家父長制イデオロギーによって『女性は男性のことを思い遣らねばならない』と女性に思い込まされた歪んだ思考習慣なのだ!」とフェミニズムによって歪まされた思考習慣によって思い込むのだろう。


※実はイラスト図Ⅰに関しては「専業主婦の一日」の方についても様々な問題が山積している。「専業主婦の一日」に対してもマトモに受け止めるのは危険なのだが、これに関して論じることは別稿に譲る。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?