「頂き女子」という狂信
頂き女子マニュアルを再読して「あぁ、こりゃ更生不可能だわ」と強く感じた。頂き女子マニュアルは当然ながら"頂き"をするマニュアルであるのだが、同時にイデオロギーのトラクトでもある。あの強烈な思想を変えようと思うならば、それこそ共産主義国家の思想改革収容所と同等の施設にでも放り込まないと無理だろう。そして、当たり前のことながら先進国の刑務所はそのような施設ではないので、釈放後は実質的には同じことをしながら工夫して捕まらないギリギリの行為を繰り返すだろう。
さて、頂き女子マニュアルを取り上げる人は結構居る。また、当該マニュアルを読んだときの最初の驚きのポイントは、おそらくロマンス詐欺の一類型の"頂き"に関する心理学的・経営学的観点からの有効性とマニュアルとしての完成度だろう。
因みに、心理学的観点での驚きのポイントは、マニュアルの中に登場する「ギバー・マッチャー・テイカ―」の概念と関係するアダム・グラントの組織心理学に関するものではなく、(明言されていない)ロジャース派心理学のカウンセリング技法と"重要な他者"の果たす機能に関してである(※私個人としては、このところnote記事に取り上げてきたため、ちょっと複雑な気持ちになった)。
また、経営学的観点での驚きのポイントは、詐欺対象者を「ギバー・マッチャー・テイカ―」とセグメント分けしてターゲットを絞り資源を投入すべしとするマーケティング技法であろう。また、ヴィジョンを持つこと・目的の明確化・目標の設定・自他の状況把握の重要性を繰り返し強調する点も経営学が強調するところであり、そこをキチンとおさえているのも驚きのポイントだ。また、作業手順書としてみたときの完成度も驚くべきレベルである。
しかし、上記の全てのポイントより強調するべき「頂き女子マニュアル」のポイントは"頂き=詐欺"を正しい行為・為すべき行為として飲み込ませるところにある。そして、手を変え品を変え正当化を図っている。そして、このようにして、"頂き=詐欺"を正しい行為・為すべき行為とするイデオロギーを採用したならば、まぁ、抜けられないだろうなと感じる。
その辺りはともかく、どのようにして"頂き=詐欺"を正しい行為・為すべき行為しているのか、頂き女子マニュアルの中の理屈を見ていきたい。
■病ませないマインドセットの与え方の例
「頂き女子をするにあたってのマインド❣️病みそうな時はどんな気持ちでいればいいのか」と題された、最終章の以下の部分に注目しよう。
この最後の一文の「お金なんてだれにも必要ないです」で絆されているアホがかなり居るが、この一文がどこに置かれているかに注目すべきである。
「頂き女子をするにあたってのマインド❣️病みそうな時はどんな気持ちでいればいいのか」の節に置かれていることに注目しなけば、この一文の果たす頂き女子マニュアルにおける役割を理解できない。この節は徹底して「おぢから詐取したお金の価値は大した価値を持っていないのだ」と考えるマインドセットをマニュアル読者に持たせようとしている節である(註1)。その文脈を無視して「渡邊被告にとって金銭はどうでもよかったんだ」と捉えるのは、読解力が低すぎる。しかも、マニュアルの完成度に着目してその水準を褒めている奴が、あの一文を渡邊被告の心情吐露と捉えていたりする。「"マニュアルの完成度"で評価しようとするなら最後までその観点を堅持しろよ」と叱責したいところだ。
渡邊被告はこの一文でお金の価値を徹底的に無化して「マニュアル読者が"病み状態"にならないようにする」ことを目指している。つまり、
「お金なんてだれにも必要ないです」
=お金とは本来だれも必要ないようなもの
=あってもなくてもどっちでもいいようなもの
=おぢからマニュアル読者が頂いてもどうでもいいもの
=頂いたからといって病むような、価値のあるものではないもの
というマインドセットをマニュアル読者に持たせるものだ。
あの一文で絆されている奴はなぜ文脈が理解できないのか。なぜ「どういう目的を持った文章の中の一文なのか」という認識をすっ飛ばしてしまうのか。美辞麗句にこそ注意が必要であるにも関わらず、なぜ騙されるのか。ブラック経営者の「アットホームな職場です。仕事で大事なのは遣り甲斐です」との言葉と同じで、胡散臭い奴が言っている名言っぽい言葉には特に注意しなければならない。文脈から切り離してあの一文を解釈した阿呆は、論語の「巧言令色鮮し仁」を百回書き取りするがいい。
■「カネを騙し取る」のは普通の精神を持つ人間には難しい
大多数の人間は大きな悪事をなす胆力を持ち合わせていない。また、社会の在り方・人道・法律・常識・社会通念において大きな悪事とされている事柄に関して、「悪事であっても些事」「悪事でも何でもないこと」「むしろ正しいこと」と感じるような感性を持つ人間は少数である。要するに、通常状態の普通の人間は大きな悪事を実行できない。
このことに関しては「カネを騙し取る」ことよりも殺人で考えると理解し易い。
ごく普通の感性を持つ人間にとって殺人の心理的ハードルは非常に高い。身の危険が迫っていてさえ怨恨のような内発的動機が無ければ、他人を殺すことには抵抗を覚えるのが普通の人間である。相手を殺すときの感触が手に残るような形で殺意を持って殺すとなると猶更である。
殺人に関する具体的行為と心理的ハードルの関係を秀逸に描いた、漫画の(ネット上で)有名なシーンといえば、平野 耕太『ドリフターズ』の中の以下のシーンだろう。
このシーンは銃が持つ「殺人への心理的ハードルを引き下げる機能」を述べている。このことは逆説的に「殺す事と殺意と罪悪感の簡便化」が為されなければ普通の人間である民が(敵であっても)人間を殺す兵となることは簡単ではないことを示している。
ただし、一回でも人を殺すと殺人に対する心理的ハードルは下がる。更に人を殺すことに慣れるとその感覚は元に戻ることが難しくなる。このことは、多くの社会において戦争後に殺人件数が増加する傾向が生じることから示されている。また、少年兵の社会復帰への障害の一つが殺人等に対する心理的ハードルの低さの問題であることからも表れている。
さて、「カネを騙し取る」に話を戻そう。
頂き女子マニュアルにおいては、最終的に「頂き女子」という詐欺の創始者である渡邊被告と同等になることを目指している。つまり、最終目標として毎月1000万円以上のカネを騙し取る詐欺師になることを掲げている。そのことは、渡邊被告への弟子であった家田美空の以下の報告を見れば明らかだ。
毎月1000万円を騙し取る詐欺師が「1000万円プレイヤー」との実に軽い言葉で言い表されている。先の『ドリフターズ』の例に擬えていえば、躊躇なく(敵の)人間を殺す事の出来る兵になったことの報告だ。つまり、一丁前の兵士ならぬ一丁前の詐欺師になった喜びの報告だ。
とはいえ、頂き女子マニュアルにおいては、いきなり「1000万円プレイヤー」にはなれないことに関して以下のように注意を喚起している。
ここで騙し取るカネの目標額の設定の大事さが強調されているわけだが、上記において恰も「ノウハウ・技術」の水準で目標額が設定されているように見えるだろう。もちろん、そのような側面は否定しない。しかし、もっと重要な事は罪悪感を感じなくなるように段階的に精神を慣らすことだ。そのことが良く窺えるのが、"頂き"の初回の目標である。
この「1000円単位の頂き」の目標が持つ機能は何か。それは「普通にアルバイトをしても稼げる金額」にするによって、"頂き"という詐欺をアルバイトのような普通のことであると捉えさせるマインドセットを形成することだ。"頂き"という詐欺行為であるにも拘らず、悪事でもなんでもない仕事と誤認させる金額として、"初回の頂き"の目標に設定しているのである。つまり、「"頂き"というバイト」として誤認させるのである。そして、ゲートウェイ詐欺としての「1000円単位の頂き」が、やがて毎月1000万円以上の詐欺を平然と仕掛けられる価値観に繋がっていくのである。
■詐欺師の「頂き女子」を目指すことを人格完成を目指す手段と誤認させる
ハッキリ言って詐欺師なんぞ人間のカスである。それは「頂き女子」といった言葉でいくら飾ろうと人間のカスの詐欺師であることには何ら変わりがない。したがって、以下のような声掛けでは誰も一緒に目指さない。
「みんな!わたしと一緒に(人間のカスの)詐欺師を目指しましょう!」
そこで、実際はゴミクズの詐欺師であるにも拘らず「頂き女子」というものが如何に素晴らしい存在であるかをマニュアルで高らかに謳うのである。詐欺師であることを糊塗する「キラキラ振り」が、マインドセットにおいて如何に重要であるかは、「("頂き女子"を目指す)みんなに身につけて欲しい力」としてマニュアル冒頭に置かれている点から窺い知ることができる。そのことを確認しよう。
所得獲得能力の向上・夢を叶える・キラキラする・(所得獲得による)自己肯定感を持つ・人の心を読み取る力をつける・やさしいコミュニケーション適応力をつける・魅力的な「助けてあげたくなる女の子」として魅せる力をつける・恋愛力を高める。実に素晴らしい。詐欺という手段で実現しようとしていることを知らなければ「頑張れよ!」と応援したくなるほどだ。
目的は手段を正当化しないいい例である。
しかし、残念なことに「結果良ければ全てよし」のように考えてしまう馬鹿どもが居る。目的(≒目指す結果)が良ければ過程は何でもいいと考える人間がいる。「結果良ければ全てよし」という場合であっても「正当な選択肢の内で何を選択してもいい」程度の意味である。イリーガルなものも含めて何でもいいような場合はほぼ無い。それを理解しない人間は多い。
譬え話で説明しよう。小学生の算数テストで次の問題が出たとしよう。そして、担任の先生は「結果が合ってればどんなやり方でもいい(≒結果良ければ全てよし)」と考えていたとする。
「リンゴを4人に3個づつあげました。リンゴは合計幾つですか?」
A:4×3=12 ∴合計は12個
B:3×4=12 ∴合計は12個
C:3+3+3+3=12 ∴合計は12個
D:4+4+4=12 ∴合計は12個(リンゴを貰いにきたのは4人・4人・4人)
E:前の人の答案に「合計は12個」と書いてあった ∴合計は12個
A~E君が上記のようなやり方でテストに回答したとしよう。このとき、担任の先生の考え方「結果が合ってればどんなやり方でもいい(≒結果良ければ全てよし)」によって、E君のカンニングが先生にバレていても全員にマルがつくかと言えば、そうはならない。このときの「どんなやり方でもいい」の中に「カンニング」というやり方は含まれていない。
また別の譬えで言えば、「バーリトゥード」の格闘技が"なんでもあり"であるからといって、銃を持ち出して攻撃したり、八百長によって勝利するといった手段は認められていない。殴る・蹴る・投げる・極める・絞めるといった、あくまでも格闘技の技(噛みつき等は不可)に関して、"何でもいい"だけである。
同様に、「結果良ければ全てよし」と認識されている場合であっても、「あらゆる意味での"どんな過程"であってもいい」とはならない。許容された範囲での"どんな過程でも"なのだ。
頂き女子マニュアルの冒頭に挙げられた「所得獲得能力の向上,・・・,恋愛力を高める」といったものは、本来は「マトモな手段の範囲内で目指すものだ」との暗黙の了解のもと、達成を目指すものだ。そのような暗黙の了解での「結果良ければ全てよし」である。
しかし、"暗黙"であることをいいことに「どんなイリーガルな手段であってもそれらを目指すことは素晴らしい」という考え方にさせてしまうのだ。実際にこのことは、先に挙げた家田美空の渡邊被告への報告から見て取れる。「こんなにキラキラできた」「すごい!!こんなにじぶんができるっておもわなかった」との目的が達成できた事だけを喜び、それを達成した手段の異常さ・汚らわしさ・反社会性を等閑視している。
つまり、頂き女子マニュアルは目的によって手段を正当化させている。世の中で価値が有るとされる目的を提示して「その価値は素晴らしいもので(何が何でも)目指すものなんだ!」と思い込ませる。そして、「そんな素晴らしい自分になる」のが目的で「頂き女子」になるのはその手段と認識させることで、詐欺を行う心理的ハードルを引き下げるのである。
■詐取する金銭との等価交換として罪悪感による精神的負荷を処理する
「等価交換」は我々に対して「公平さ」をイメージさせる。つまり「等価交換なら公平≒正義に適っている」と感じさせる働きがある。また、等しい負担であっても同様である。
実際には「等価」でもなければ「交換」ですらないものであっても、主観的に「等価交換」なのだと思い込めば「主観的には公平であり、正義に適っている」と考えることがある。そして、等価でもなければ交換でもない行為から生じる自分の負荷から、勝手に「これには見返りがあるのが正当である」という認識が生じることがある。
この心理上のバグをして、頂き女子マニュアルは"頂き"という詐欺への主観的正当化を行う。さて、その様子を実際に見てみよう。
頂き女子マニュアルにおいて、散々に「"頂き"から生じる精神的負荷」の度合いが具体的に示される。
上記にあるように、「頂き女子マニュアル」において創始者である渡邊被告であっても、"頂き"で多大な精神的負荷が掛かっていることが示される。このことは、マニュアル読者が"頂き"という詐欺の実践において罪悪感等から精神的負荷が掛かったとしても、見返りが得られるべき精神的負荷なのだという認識を齎す。それはそのような辛さがある行為なのであり、それは目標達成のために支払われるべき精神コストであると認識される。上記の引用を簡潔に示そう。
初めての頂き:失敗を繰り返しまくって,泣きながら
1000万円の(ホストへの)会計が出来る頂き:ただただがむしゃらにボロボロぐちゃぐちゃパキパキ頑張った
2700万円の(ホストへの)会計が出来る頂き:辛すぎて暴れて1ヶ月措置入院までしちゃった
月1000万円の頂き:メンタルぐちゃぐちゃぼろぼろ
「初めての頂き」であれば、失敗して泣きながらでも達成するものであるし、「1000万円の会計が出来る頂き」の実現はがむしゃらにボロボロになって向精神薬の世話になるぐらい精神コストが掛かり、「2700万円の会計が出来る頂き」は辛くて暴れて精神病院に放り込まれるほどであり、月1000万円の頂きが可能になってもメンタルぐちゃぐちゃぼろぼろなのだ、と告げられる。つまり、そういう苦労をして初めて得られるものなのだから正当な報酬なのだと誤認させるのだ。
そう、「苦労は報われるべきである」という倫理的な考え方から、詐欺の精神的負荷によって、"頂き"という詐欺行為を正当化するのである。
また、"頂き"によって「おぢから騙し取る金銭は確かに重い」のだ、だから、その重さを引き受けた自分に負荷が来る。そしてその負荷を引き受けるからこそ、(騙し取った)金銭を受け取る資格が自分に生まれるのだ、という理屈で"頂き"という詐欺行為を、頂き女子マニュアルにおいて正当化している。
■WIN-WINという幻想による"頂き"という詐欺の正当化
「あなたにとっても良かったし、私にとっても良かった。だから、問題ない」というものがWIN-WINの関係による正当化である。しかし、このWIN-WINの関係による正当化は万能ではない。それにも関わらず、WIN-WINならオールオッケーとする短慮の人間が少なからず居る。WIN-WINの関係による正当化が万能であるならば、労働基準法・独占禁止法は要らない。また、自殺幇助や臓器売買や代理母問題、あるいはMeTooの訴えの多くも問題にならない。WIN-WINの関係による正当化もまた、その関係によって正当化できるかどうか精査した上でなければ、その関係によって正当化できはしない。
WIN-WINの関係は、詐欺的話術においてしばしば用いられる正当化の理屈である。そして、「あなたと私の関係はWIN-WINだよ」などと言い出す連中はその天秤が釣り合っていないことを承知の上で、WIN-WINを持ち出してくる。
さて、頂き女子マニュアルにおいてもWIN-WINの関係が持ち出され、"頂き"という詐欺の正当化が図られている。実際に見てみよう。
嘘で塗り固めた幻想で「力いっぱいの信頼関係構築コミットをしてあげて幸せを与えてあげて」も糞も無いものである。おぢに語った内容が真実であったならば百歩譲って、そこに金を出したおぢも納得が行くだろう。しかし、大噓なわけである。それに対してWIN-WINを持ち出してくることが、ちゃんちゃらおかしい。
これも譬え話で説明しよう。
ロマネコンティを飲んだことのない人間が「最高峰のワインとはどんなものだろう?」と考えてロマネコンティを頼んだとしよう。そのとき、ロマネコンティとして出されたワインが2万円ぐらいのカリフォルニアワインだったとしよう。そして、この人間は飲んだワインをロマネコンティと勘違いし続けていたとする。このとき、ロマネコンティではなくカルフォルニアワインを出したレストランが、「あの人はワインを飲んでほろ酔いしてましたし、『ロマネコンティを飲んだ』という満足も得られたでしょう。私どももロマネコンティではなくカルフォルニアワインにすり替えることで1/20の費用で済みました。あの人と私どものレストランはWIN-WINです」などと抜かしたら憤る人が殆どではないか。
実は「WIN-WINの関係による正当化」ですらない、WIN-WIN擬きが頂き女子マニュアルに登場するWIN-WINっぽい正当化の理屈である。しかし、世の中には、WIN-WINっぽければ正当であり、正義に適った行為と考える人間が少なからぬ数でいる。
"頂き"という詐欺を働くマニュアル読者が、WIN-WIN擬きによる正当化に積極的に騙されにいって「自分達は悪事を働いていない」と精神の安定を求めようとするだろうと予想して、頂き女子マニュアルではそんな理屈が示されているのだろう。
■「自分の方が持つに相応しい」という理屈による正当化
昔からよくある、クズが持ち出す正当化の理屈である。土地・地位・武具・財宝・男性・女性等に関して元々の持ち主や夫婦から取り上げて自分のものにするといったことは珍しくもなんともない。王朝の交代や貴族の御家騒動、あるいは身分を嵩に来た没収や横恋慕、あるいは現代での不倫からの略奪婚などは、大抵はこの理屈で正当化している。
政治が絡む話は悪政といった要因もあることがある。また略奪婚のようなものも略奪された側に何らかの他者に対する非があったりするのですべてが不正義とも言えないこともあるだろう。しかし、他人の財産に関して「自分の方が持つに相応しい」という理屈で恣意的に自分のものにしてしまうことを正当化できはしない。自己欺瞞の一種以上の意味は持たない正当化だ。
実際に、頂き女子マニュアルにもこの手の自己欺瞞はある。
上記から分かるように「資源の有効活用」という理屈で"頂き"に関する正当化を図っている訳だ。利益分配の観点も無く他者所有の資源を勝手に使えると考えている辺りが、「自ら騙されようとして騙される」場合しか主観的に有効ではないことが分かるだろう。
ただ、こんなカス理論を用いてでも、"頂き"という詐欺を正当化しようとしていることは明らかだろう。
註
註1 更にいえば、渡邊被告にとって「お金はいつでも頂けるとの確信」があるから、現時点での所持金に対する執着が無かっただけである。おそらくは収監後の今でも同じことだろう。頂きの技量が齎す余裕を、金銭欲の無さと捉える人間が多すぎる。
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