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『ごんぎつね』の技法分析(2)

1.2 面白いストーリーの作り方

前節1.1「面白いとは?物語の面白さとは結局のところ何か」で学んだ面白さの原理を、「物語の才能」の「面白いストーリーの作り方」の節に倣う形で振り返ろう。ただし、用語法に関しては一部改めた(※1)。

面白さの第1原理
 物語の面白さは読者の願望の達成により生じる
面白さの第2原理
 読者の願望は読者の感情移入により生じる
面白さの第3原理
 読者の感情移入はテーマを含んだ戦いの構図により生じる
面白さの原理系
 
テーマを含んだ戦いの構図により最終的に物語の面白さが生じるシステム

ヒロなんとか「物語の才能」より筆者が整理

まず、面白さの第1原理について復習しよう。

物語に面白さを生じさせる「願望の達成」の前提条件として、そもそも願望が読者に生じていなければならない。この願望を生み出しもしないで主人公にただ勝利や幸福が訪れるだけでのストーリーでは、第1原理の前提条件を満たさず物語の面白さは発生しない。第1原理に必要なものは、勝利でも幸福でも、また悲劇でもなく、読者の願望である。

面白さの第2原理は文言そのままを確認しておけば十分である。

では、面白さの第3原理についてみていこう。

感情移入を生み出す「テーマを含んだ戦いの構図」の前提条件として、そもそもテーマがストーリーに存在しなければならない。ストーリーにテーマが存在しないのであれば、当然ながら「戦いの構図」にテーマを含めるのは不可能である。

したがって、第3原理が成り立つためには、ストーリーにテーマが存在していることが必須である。更に言えば、面白さの原理系が成り立つためも、ストーリーにはテーマが必要である。

さて、これから当記事(というよりも「物語の才能」における対応箇所)でなにを中心に扱っていくかを説明しよう。

見出しにある「面白いストーリー」とは面白さの原理系が駆動しているストーリーである。したがって、面白さの原理系への理解が必要である。

しかし、面白さの原理系の構成要素である面白さの第1・第2・第3原理について、面白さの第1・第2原理は前記事で十分に解説されているが、第3原理は前記事では軽く触れられたのみである。面白さの原理系の一先ずの理解を完成させるためには、第3原理の理解が必要である。

それゆえ、当記事のトピックは面白さの第3原理に関するトピックとなる。とりわけ、「テーマを含んだ戦いの構図」を中心にみていくことになる。ただし、テーマそのものに関しては別のところで章を立てて検討しているので、当記事では必要最低限になる。

1.2.1 テーマを含んだ意味のある戦いに

まず、「物語の才能」における「戦い」概念について再確認しておこう。

「戦いの構図」の意味内容は「敵と闘争する構図」といった狭義のものではなく、もっと広義の意味内容を持っている。すなわち「テーマに関することで、さまざまな障害や誘惑に打ち勝って努力する構図」といった意味内容が「戦いの構図」の意味内容である。
この「戦い」の語の用法は、他の事例でいえば「受験生として今年は戦い抜くぞ!」と気勢を上げるときの「戦い」の語の用法と同じである。受験生が誘惑や障害に負けず頑張るといった姿勢でいることを「戦い」と呼んでいるのと同様なのである。

前記事「『ごんぎつね』の技法分析(1)」

以上を踏まえて、これから「テーマを含んだ意味のある戦い」について考えていこう。

さて、前記事でみた「改変ごんぎつね」がなぜつまらなかったのかといえば、感情移入が発生しないからである。意味のない「戦い(≒努力)」のストーリーとなっているからである。「改変ごんぎつね」における主人公ゴンは、家族もいれば村人たちと険悪な関係でもない。そういったゴンが「兵十を新しい友達としよう」と努力をしている。これは、ほとんど読者の興味を引くストーリーではない。だから物語が面白くない。

ここで「物語の面白さ」は一先ずおいておき、「新しい友人を得ようとする構図に関する興味関心」を中心に据えて考えてみよう。

このとき、『ごんぎつね』と「改変ごんぎつね」のストーリーを題材にするよりも、もっと別の現実生活における具体例でみる方が理解しやすいだろう。

「人気者の娘と母」
休みの日に公園につれていけば、すぐに周りの子供たちと娘は仲良くなって遊んでいる。幼稚園の参観日に娘の様子を見ても、娘は人気者でクラスメートがひっきりなしに娘に話しかけている。ある日、公園で初めて見掛けた女の子と娘が砂場でいっしょにトンネルをつくって遊んでいた。その後、家に帰って娘とお菓子を食べているときに「えへへ、おかあさん。今日ね、友達ができた」と娘が話しかけてきた。

「一人ぼっちの娘と母」
休みの日に公園につれていくと、一人でドングリを拾いながらブランコで遊んでいる他の子たちを眺めている。幼稚園の参観日に娘の様子を見ても、娘はクラスメートと殆ど話をしないで園庭の隅の方をウロウロしている。ある日、公園で他の女の子と娘が砂場でいっしょにトンネルをつくって遊んでいた。その後、家に帰って娘とお菓子を食べているときに「えへへ、おかあさん。今日ね、友達ができた」と娘が話しかけてきた。

「娘が新しい友人を得た構図」に関する母親の興味関心の強さは、人気者の娘の母親と一人ぼっちの娘の母親とでは、段違いに違う。

人気者の娘の母親は「あらまぁ、良かったわね~。どんな子なの?」と喜びつつも、頭の中で「アラ、このお煎餅美味しいわね。リピートしようかしら」と同時に思えるぐらいには余裕があるだろう。なんといっても、人気者の娘にとって新しい友達ができるのはいつものことだからだ。母親の感情が大きく揺さぶられることなどない。

一方、いつも一人ぼっちでいる娘の母親はどうだろうか。たとえ「あらまぁ、良かったわね~。どんな子なの?」と穏やかに応答したとしても、母親の胸中は喜びで嵐のようになっているだろう。食べていたお菓子のことなどすっ飛び、「ウチの子にお友達が出来た。やっと出来た。本当によかった!有難う、お友達になってくれて!」と飛び上がらんばかりの気持ちになっているだろう。なんといっても、一人ぼっちだった娘にとって初めてのお友達なのだ。母親の感情は大きく揺さぶられずにはいられない。

また、場面を巻き戻して「公園での砂遊び」において、娘がよその子に「ねぇ、いっしょにトンネルつくろ?」と声掛けしているのを母親が目撃したとき、人気者の娘の母親はぼんやり眺めているだけだろうが、一人ぼっちだった娘の母親は心の底から娘を応援しているだろう。

娘の「新しい友人を得ようとする戦い(=努力)の構図」で感情移入する度合いは、人気者の母親と一人ぼっちだった娘の母親では全く違う。この二人の母親の娘への感情移入の違いは、二人の娘の友人をつくる能力の違いに起因する困難さの違いによって生じている部分もあるが、それよりもなによりも「娘の人生が変わるかどうか」でみたとき、「これまで通りの友達に囲まれた娘の人生の延長線上の出来事」であった人気者の母親と「友達がいない娘の人生が一変する出来事」であった一人ぼっちだった娘の母親の立場の違いによって生じている。

つまり、「これまで通りの人生の延長線上の出来事に直面している人間」を見たとしても目撃者は感情を動かさない。しかし、「人生を一変させる出来事に直面している人間」を見た目撃者は感情を大きく動かす。

この構造は物語における登場人物と読者の関係においても成り立つ。

つまり、『ごんぎつね』において、登場人物であるごんは人生を一変させる出来事に直面しており、それを読者が目撃しているから感情を大きく動かすのだ。ごんは人生を「独りで生きる人生」から「他者と共に生きる人生」へと転換しようとしている。そして、そのために兵十との関係を修復するためごんは戦っている(=努力している)。そして読者はその戦い(=努力)を見るからこそごんに感情移入するのだ。

「他者と共に生きる人生」とは、友人あるいは家族を持つ人生ということだ。ごんは狐で作品世界において同族がいないため、他者と共に生きる人生は友人を持つ人生となる。そして、これが作者像の視点からみた『ごんぎつね』のテーマである。

したがって『ごんぎつね』における「テーマを含んだ戦いの構図」とは、友人を持つ人生を得るためにごんが戦っている(=努力している)構図なのだ。

1.2.2 間違いが正されていく

ストーリーを展開させるときの基本は間違いが正される話にすること。

「物語の才能」

ストーリー展開において間違いが正される物語の典型は、やはりドストエフスキーの『罪と罰』だろう。そこで、すこし『ごんぎつね』から離れて『罪と罰』についてみていきたい。

『罪と罰』:間違いが正されていくストーリーと読者の願望

さて『罪と罰』のストーリー展開は以下だ。

目的は手段を正当化するとの思想および超人思想(この二つを合わせてナポレオン主義という)により、主人公ラスコーリニコフは殺人を犯す。良心の呵責、社会的孤立、検事の追及等により追い詰めれれる中で、ラスコーリニコフは自己犠牲に生きる娼婦ソーニャとの交流のなかで、ヒューマニズムに回帰していき、ラスコーリニコフは自首する。そして流刑地シベリアに移住してまで追ってきたソーニャとの関係の中でラスコーリニコフはソーニャへの愛を確信する。

このストーリー展開において間違いが正されていくトピックは大きく2つあるので以下に挙げてみる(※2)。

  1. 主人公は間違った思想の持ち主だったが、間違いが正され、正しい思想に回帰していく

  2. 犯罪を犯した主人公が、キチンと裁かれて、刑罰が実行される。

この二つの間違いが正されていくストーリー展開に関して考えていく。まずは1.のトピック単体、次に2.のトピック単体、最後に、1.と2.と併せたトピックを検討する。

■トピック1:主人公は間違った思想の持ち主だったが、間違いが正され、正しい思想に回帰していく
では、1.のトピックを単体でみていこう。

目的のためなら人を殺してもよいと考える主人公の当初の思想に対して、「その考え方はオカシイ!」と読者は強く反発しないではいられない。そのような気持ちで読者がいる中、ストーリーではその思想が如何に間違っていて人を不幸にしていくかが示されていく。それは、読者の感じた「その考え方はオカシイ!」との反発が正しかったことが証明されていく過程である。我々は「間違っている事はキチンと間違っているとされて欲しい」という公正さへの欲求を持ち、かつ、自分の考えは正しいのだと証明されて欲しいとの願望を持つ。だから主人公が間違った思想によって追い詰められていく展開こそ、読者の願望が達成されていく過程でもあるのだ。

だがそれだけでなく、読者は「間違っている考えの持ち主はその間違いを反省して欲しい」との願望も持つ。このことに関して上の段落の問題との区別がつかないかもしれないので、現実世界での政治家の疑惑を用いてこの構造を説明する。

現実世界において「それって絶対にヘンだよね。オカシイよね。ダメな事だよね」と一般人が感じる政治家の疑惑は、残念ながら珍しい出来事ではない。さらに、この政治家の疑惑は、有耶無耶にされる、証拠が隠滅される、あるいは法律の未整備などで違法行為とならないことも珍しくない。こうしたとき「政治家の疑惑がキチンと違法行為と証明されること」を有権者は望む。だが、疑惑が違法行為と証明されたとしても、それだけでは有権者は満足しない。その政治家が間違いを認めて反省することを有権者は望む。もう二度とそんな間違いを政治家がしないことを有権者は望むのだ。つまり、「違法行為と証明されること」とは別に「政治家が反省すること」が有権者の願いとして存在する。

この現実世界における政治家の疑惑に関する有権者の願望の構造とパラレルな構造が『罪と罰』の読者の願望の構造にはある。

主人公ラスコーリニコフの当初の思想が間違っていることがストーリー展開によって証明されていく。これが1.のトピックにおける一つ目の読者の願望の達成である。二つ目の読者の願望の達成が、ラスコーリニコフ自身が当初の思想が間違っていたとして改心することである。この二つは当然ながら別個のものだといえる。そして、後者が1.のトピック単体でみて最大、更には『罪と罰』においても最大の「間違いが正されること」なのだ。

ただし、ラスコーリニコフの改心は二段階に分かれている。あの有名な「大地に接吻するシーン」を確認しよう。

彼は広場の中央にひざまづき、地面に頭をすりつけ、愉悦と幸福感にみちあふれて汚れた地面に接吻した。彼は立ちあがると、もう一度お辞儀をした。

『罪と罰』

このシーンは間違いなくラスコーリニコフの改心のシーンではある。だが、このとき彼が謝罪し改心しているのは「金貸しの婆さん殺害」に関してではない。自分の人間性を殺したことを自らに謝罪しているのである。そして自分の人間性の回復が火のように全身を駆け巡っているから、ラスコーリニコフは愉悦と幸福感を感じているのである。

以上のことは、その前に行われたソーニャへの告白を見ると分かる。

果たしてぼくは婆さんを殺したんだだろうか? ぼくは婆さんじゃなく、自分を殺したんだよ! あそこで一挙に、自分を殺してしまったんだ、永久に!……あの婆さんは悪魔が殺したんだ。ぼくじゃない

『罪と罰』

ラスコーリニコフは金貸しの婆さんを殺したときナポレオン主義に囚われていた。大義を為し得る超人であることを証明する、そのことを目的にした手段として、婆さんと同時に自分の人間性を殺したのだ。この超人の証明のために殺した自分の人間性に対する謝罪と改心、そして自分の人間性の回復への感謝が大地への接吻なのである。

とはいえ、この大地への接吻で改められたのはラスコーリニコフのナポレオン主義の「目的は手段を正当化する思想」の側面である。つまり、手段として「自分の人間性」を殺したのは間違っていたと改心しただけである。自分の人間性を殺したことで非常に苦悩したラスコーリニコフは、超人の証明という目的の為であっても、正当化できない手段(=自分の人間性を殺すこと)が存在すると実感したのだ。それゆえ「目的は手段を正当化する思想」の側面に関しては改心することになったのだ。

しかし、ナポレオン主義の「超人思想」の側面は流刑地に流された後もラスコーリニコフの思想に残ることになった。これは流刑地でラスコーリニコフが自分の殻に閉じこもっていくことからも分かる。

ここで超人思想とは何かを理解しておく必要がある。

超人思想はニーチェが『ツァラトゥストラはかく語りき』(1883-5)で打ち出した概念である(※3)。同書の中では「神の死」「超人」といった概念が登場する(※4)。この神の死と超人の2つの概念は密接に関係しているので、順にみていきたい。

「神の死」の神とは近代という時代によって破壊された価値観の根底を指す。勘違いしてはいけないのが価値観そのものではない。価値観の一つである道徳でみると分かりやすいが、「人には親切にしなさい」「嘘をついてはいけません」等の個別の道徳規則があるが、これが近代において破壊された訳ではない。それらの道徳規則を我々がなぜ守らねばならないのか、との疑問に対する確固たる根拠が近代において破壊されたのだ。つまり、「なぜそれをしなければいけないの?」との疑問の連鎖に対して「それは神様がそうお決めになったからだ」と最終的には回答することを可能にした神の存在を、近代は否定したのだ。これが「神の死」である。

「超人」とは、「なぜそれをしなければいけないの?」との疑問の連鎖に対して「私がそうだと決めたからだ。少なくとも自分に関してはそうだ」と確信している人間である。このとき、他人や社会などに責任を超人は押し付けない。つまり、価値観の根底において自分以外のものに根拠を求めない人間が超人である。だから、超人は自己完結している存在である。自らの存在意義や行動そして人生の価値に関して、徹頭徹尾、他者を必要としない。超人の人生は、神や社会は言うに及ばず他の人間をも、その意義において全く必要としないのだ。

しかし、他者を一切必要としない観念的な超人の人生は、人間性あるいは生命を持った人間の人生ではない。他者を一切必要としない人生に人間は耐えられない(超人思想の観点からラスコーリニコフと双子的存在であるスヴィドリガイロフはドゥーニャの愛を得られなかったゆえに自殺してしまう)。それゆえ、他者と共に生きていくのが人間の人生である。

ラスコーリニコフがそんな超人思想を克服し、独りで生きる超人の人生から他者と共に生きる人間の人生への転換が為されているのが以下のシーンである。

ふいに何かが彼を捉え、彼女の足もとに彼を投げ出したかのようだった。彼は泣き出し、彼女の両ひざを抱きしめていた。二人とも青白く、痩せこけていた。しかし、そのやつれ果てた青白い顔にも、新しい未来の、新しい生活への完全な蘇りの光が煌めいていた。二人を蘇らせたのは、愛だった。彼はただ感じているだけだった。観念に代わって、生命が訪れていた

『罪と罰』

この転換を読者が見ることによって、ラスコーリニコフ(とソーニャ)の人生の間違いが正されてほしいとの願望が達成され、面白いストーリーが完成するのだ。

■トピック2:犯罪を犯した主人公が、キチンと裁かれて、刑罰が実行される。
次は2.のトピック単体についてみていこう。

2.のトピック単体はどんな読者の願望が達成されているのか。それは1.のトピック単体で達成されなかった読者の願望である。

1.のトピック単体の考察を読めば明白だが、ラスコーリニコフは金貸しの老婆アリョーナ殺害の反省をしていない。たしかにアリョーナの妹リザヴェータ殺害についてはラスコーリニコフは良心の呵責に苦しんでいる。しかし、悪徳金融業者のアリョーナ殺害は、ラスコーリニコフが悪者の財貨を奪い社会に還元する大義を為せる超人であると示す証明の手段であったために実行されたが、その実行が自分の人間性を殺す結果になったから後悔しているだけである。つまり、ラスコーリニコフはアリョーナ殺害に関しては本質的には反省していない。言い換えると「一人の人間を殺した」との反省が無いのである。

一方で、被害者のアリョーナも貧者を食い物にしていた悪徳金融業者であった。ある意味で彼女の自業自得の側面が無いわけでもない。つまり、巻き込まれて殺害されたリザヴェータとは異なり、アリョーナが殺されたことは心情面に限定すれば因果応報なのだ。だからラスコーリニコフがアリョーナ殺害に関して改悛の情を示さないとしても、読者としてそこまで不満が生じるわけではない。

この解説に関して納得いかない人もいるかもしれない。しかし、我々の現実世界の殺人事件について思い返してみよう。トンデモナイ悪人が殺された事件があったとき、その殺した犯人に対して「君の気持ちはわかるよ。でも、殺したらダメだ」との声が世論の中に現れる。このときの世論の声は、殺人という罪に対する処罰は求めても、犯人に被害者である悪人を殺したことへの改悛を求めていない。

つまり、悪人が殺された事は心情面からいえば因果応報と人々は感じるのだ。だが、たとえ被害者が悪人であったとしても、我々の社会において「一人の人間を殺した」ならば、その報いは受けなければならない。

したがって、アリョーナ殺害に関しては、ラスコーリニコフの内心の変化などといった主観世界のものではなく、作品世界における客観的事実として因果応報となるようにしたのだ。それが、ラスコーリニコフが自白し、裁判にかけられ、流刑地シベリアに移送されるという客観世界の展開なのだ。そしてそのストーリー展開は、読者の「殺人という犯罪に対してキッチリと刑罰が処されて欲しい」との願望を叶える形のストーリー展開なのだ。

■トピック1&2:改心-処罰-更生

最後に、トピック1とトピック2を合わせてみることで理解できる、読者の願望の達成を見ていこう。

トピック1とトピック2を合わせた読者の願望は、トピック1単体でみた読者の最後の願望と同じ事態の成立によって成就する。つまり、前者と後者の読者の願望は、「ラスコーリニコフがソーニャと共に人生を歩んでいくこと」によって成就する。だが、「望ましい人生を歩むこと」によって達成するのは同じとはいえ、その二つの願望は別個のものなのだ。

同じ事態によって達成される二つの願望という構造が分かりにくいかもしれないので、現実世界の二つの願望とその達成の例で説明しよう。

例えば、スイーツが食べたいという願望Aとストレスを解消したいという願望Bがあったとする。この二つの願望は「高級ホテルのケーキバイキングに行けた」という事態によって達成される。願望Aと願望Bは同じ事態によって達成されたが、願望Aと願望Bとは当然イコールではない。

この構造を抑えた上で、トピック1単体でみた読者の最後の願望とトピック1とトピック2を合わせた読者の願望を見ていこう。

まず、トピック1単体の視点では「ラスコーリニコフがソーニャと共に人生を歩んでいく」ことによって読者のどんな願望が達成されるのかを再確認しよう。

トピック1単体の視点では、「超人思想に囚われた、他者を必要とせず一人で生きる超人の観念的な人生を歩んでいたラスコーリニコフが、超人思想を愛によって放棄し、他者と共に生きる生命である人間の人生を、ソーニャと共に生きることになる」ということに注目する。ここでの読者の願望は、俗っぽい言い方をすれば「奇怪な人生じゃなくてマトモな人生を送って欲しい」というものである。これがトピック1単体の読者の最後の願望である。

次に、トピック1とトピック2とを合わせた視点では「ラスコーリニコフがソーニャと共に人生を歩んでいく」ことによって読者のどんな願望が達成されるのかを考えていこう。

結論を先にいうとトピック1とトピック2とを合わせた視点から生まれる読者の願望は、「刑期を終えたらマトモな人生を送って欲しい」という願望である。

トピック1からラスコーリニコフは更生したことが分かる。そして、トピック2からラスコーリニコフは刑罰を受けて犯罪の責任を取ったことが分かる。犯罪の責任をとり更生もしているのであれば、刑期を終えたら普通に暮らしていって欲しいと感じるのだ。刑期を終えてなお惨めな人生を送ることは望まないのだ。これがトピック1とトピック2を合わせた視点から生まれる読者の願望である。

■まとめ:『罪と罰』での読者の願望

以上の考察を踏まえ、『罪と罰』において生じる読者の願望について、種類に応じて分類すると次のようになる。

・間違った思想が正されること
・変人がマトモになること
・犯罪が処罰されること
・刑期を終えたら受刑者が普通に暮らすこと

このうち、上の3つの願望が「間違いが正されるストーリー展開」と関わっている。また、これらの読者の願望が達成されることで『罪と罰』は面白いストーリーとなっている。

『ごんぎつね』:テーマを描く「承」のパート

■承の前半:大事なことの見落としと間違った行動

主人公は承の前半で間違ったことをします。なぜ間違えるのかというと、大事なことを見落としているからです。
この見落としのせいで主人公は壁にぶち当たり苦しみます。

「物語の才能」

『ごんぎつね』の承の前半は「ごんがうなぎをダメにするイタズラの日」の箇所である。承の前半でのごんの行動を調べると5種類の行動をしているが、その中で「主人公は…間違ったことをします。なぜ間違えるのかというと、大事なことを見落としているからだ」と言えるような行動を探すと、兵十に対して行ったイタズラ行動となる。兵十へのイタズラと比較してなおコチラの行動の方が「主人公の間違い」だと言い得る行動はない。

ただし、ここで注意するべきは「イタズラは人に迷惑を掛ける行為だから間違っている」と単純に解釈してしまうことだ。勿論、そういう意味でも間違っているのだが、主人公のごんが見落としている大事な事という観点からは、そんな単純な理由の間違いではない。

それを考えるために「ごんとはどういう狐なのか」を起の箇所から抜き出してみよう。

ごんは、ひとりぼっちの小ぎつねで、しだのいっぱいしげった森の中に穴をほって住んでいました。そして、夜でも昼でも、あたりの村へ出ていって、いたずらばかりしました。

『ごんぎつね』

ごんとは、「村へ出て行って、いたずらばかり」している「ひとりぼっちの小きつね」という存在であることが上記引用からわかる。通俗的にいえば周りにちょっかいを掛けるボッチ野郎なのだ。この手の存在が周りにちょっかいを掛けるのは、周りに構って欲しいからだ。つまり、周囲と交流したいからイタズラを仕掛けるのだ。

だが、当たり前のことだが、周囲との交流の手段としてイタズラは適切な手段ではない。イタズラによって、一時的(かつ敵対的な)交流をしたところで周囲との分断はより強くなっていき、ますます孤立していくことになる。

イタズラをしているとき、ごんは何を見落としているのだろうか。ごんが見落としている大事なものとはなにか。それはイタズラをする根本的な動機である「一人ぼっちでいたくない自分の気持ち」なのだ。一人ぼっちでいたくないからこそ、イタズラをして周囲と関わろうとするのだ。だが、ごんは「一人ぼっちでいたくない自分の気持ち」を承の前半ではキチンと認識していない。

■ミッドポイント:間違いに気づく契機・転換点

間違いに気づきはじめるのは映画のちょうど中間あたり。ここはいわゆるミッドポイントと呼ばれる部分です。面白いストーリーというのは、全体の中間あたりで大きな出来事が起きます。これをきっかけにして主人公は自分の間違いに気づきはじめます。

「物語の才能」

ごんが間違いに気づく契機となった出来事は、「兵十のおっかあの葬式」である。つまり、おっかあの葬式が『ごんぎつね』におけるミッドポイントである。このことを、本文で確認しよう。

ちょっ、あんないたずらをしなければよかった。

『ごんぎつね』

おっかあの葬式があった晩に、ごんはイタズラをすべきではなかったと後悔する。イタズラを繰り返していたごんが、イタズラは間違いだと気付くのだ。第一段階のごんの転回である、自分の行動の間違いへの気付きである。

そして、おっかあが亡くなってひとりぼっちになった兵十を見て、ごんは自分がひとりぼっちであったことに改めて気付く。

「おれと同じひとりぼっちの兵十か。」
 こちらの物置の後ろから見ていたごんは、そう思いました。

『ごんぎつね』

この自分がひとりぼっちであることに対するごんの自覚がその後の兵十への関わりを変えていく。これが第二段階のごんの転回である。

ここで、この自覚の前では、ごんが償い行動をしていないことに着目したい。イタズラが間違った行動であったことに気づいた段階では、兵十に償い行動をしていない。物置の後ろから兵十を見る前の段階でも、ごんは山から栗や松茸を集めて兵十の家に持ってくることが可能であったにもかわらず、手ぶらで兵十の家の物置の後ろに来ている。

兵十がひとりぼっちであることに気づくと同時に、自らもひとりぼっちであることを改めて自覚した後に、ごんは償いを開始するのだ。

■物語の承の部:テーマを描くパート

ストーリーを作るとき一番大事なのはテーマです。そしてこのテーマを描いていくパートが承です。だから承を抜くとどんな名作でも駄作になってしまいます。

「物語の才能」

物語の「承」のパートで描かれているのはテーマである。このような表現だと伝わりにくいかもしれない。「承」のパートで描かれているのは「転と結」のパートでの主人公の行動の動機が生み出された理由が描かれている。転や結のパートでなぜ主人公はそんなに頑張るのか、なぜそんな行動をとるのか、その意味は何なのか、このことが「承」のパートで描かれる。そして、それがストーリーのテーマである。

『ごんぎつね』でそのことを考えよう。

転・結のパートにおけるごんの行動、すなわち、兵十に償いをすること、兵十と加助の後をつけて一緒にお念仏を聞くこと、兵十の影と戯れること、自分の贈り物が神様からの贈り物と誤解されてもなお贈り物をすること、死に向かいつつある中で誤解から自分を撃った兵十の問いかけに応えて頷くこと、それらのごんの行動はなぜ行われたのか、どんな動機がそこにあるのか、なぜそんな動機をごんが持つのか、そしてそれらのごんの行動はごんの人生にとってどんな意味があったのか、それが描かれているのが「承」のパートである。

それゆえ、「承」のパートが『ごんぎつね』からもし失われれば『ごんぎつね』は名作からたちまち駄作に転じるだろう。

あとがき

当記事の当初の予定において「物語の才能」の「面白いストーリーの作り方」の章すべてを範囲にするつもりであった。本来は記事を分割することなく一纏めにする方が望ましいのは言うまでもない。

ところが、「1.2.2間違いが正されていく」の節でウッカリ『罪と罰』などを扱ってしまったため、その部分が非常に長くなってしまった。現段階で1万3千字を超えているので、後の節である「観客の見たかったものがちゃんと出てくる」「当初の目的とは違うものを手に入れる」「面白いストーリーとつまらないストーリーの違い」まで含めるとおそらく2万字は遥かに超える。流石にそれは長すぎる。執筆する私自身の集中力も、当記事をご覧になる読者の方の集中力も続かないだろう。やむを得ず「面白いストーリーの作り方」の章に関しては記事を分けて見ていくことにした。

また、記事を書いていて感じたのだが、流石に『罪と罰』と児童文学の『ごんぎつね』を並べるのは厳しいものがあった。私は『ごんぎつね』も名作であると確信しているが、それでも『罪と罰』について色々述べたあとに『ごんぎつね』を考察すると拍子抜けする感覚が生じて記事を書くのが辛かった。

さらなる反省としては、「間違いが正されていく」の節で扱う作品としてはディケンズ『クリスマス・カロル』も候補だったのだが、間違いが正されていくストーリーと言えばやはりドストエフスキー『罪と罰』だよな、と軽く考えてしまったのが失敗だった。『クリスマス・カロル』のストーリー、すなわち主人公スクルージが拝金主義者の人生からマトモな人生に代わるストーリーの方が単純明快なので、そちらの方が具体例として扱うのに相応しい作品だった。そうすれば、あるいは記事を分割せずに済んだかもしれない。

※0 「『ごんぎつね』の技法分析(0)」での断り書きの通り、この「『ごんぎつね』の技法分析」シリーズは、ヒロなんとか氏の「物語の才能;面白いストーリーの作り方」で示された枠組みに従って『ごんぎつね』およびその他の作品の技法分析を行うものである。したがって、根本的な枠組みの一切はヒロなんとか氏のアイディアである。当記事も例外でななくヒロなんとか氏の肩の上に乗って技法分析を行っている。そのことを改めて断っておく。また「物語の才能;面白いストーリーの作り方」のURLは以下。
https://monosai.com/

※1 ヒロなんとか氏の「物語の才能」における概念の「面白さの原理」に関する用語法に不便な部分があるので、当記事の本文のように用語を整理した形で「『ごんぎつね』の技法分析」シリーズの中では用いていきたい。ただ、これは私の考察における便宜性に基づいて行われているのであり、ヒロなんとか氏の「面白さの原理」の概念の不備を指摘するものではない。

※2 勿論、『罪と罰』の中における「間違いが正されるストーリー」は着目した3つに留まらない。ソーニャのストーリーも「間違いが正されるストーリー」と言える。ソーニャの自己犠牲の人生もまた一人の人間の人生として間違っている。そんな人生を送っていた彼女が、ラスコーリニコフが流刑に処されたシベリアまで彼を追って移住することで、愛したラスコーリニコフと生きるため彼女自身の人生を歩み始める。このソーニャのストーリーは正しく「間違いが正されるストーリー」である。またラスコーリニコフとソーニャのメインストーリーだけでなく、もう一人のラスコーリニコフといえるスヴィドリガイロフのサイドストーリーもまた「間違いが正されるストーリー」と言える。

※3 ここで一つ注意点がある。ニーチェの超人思想に関する説明は、ドストエフスキーが示すナポレオン主義の中に含まれている曖昧な形の超人思想を説明するため、便宜上の必要性から示した。ドストエフスキーの示したナポレオン主義はニーチェの超人思想と直接的な影響関係は無い。確認のため『罪と罰』と『ツァラトゥストラはかく語りき』のクロノロジーを見ておこう。『ツァラトゥストラはかく語りき』は1883年から1885年にかけて発表され、『罪と罰』が1866年発表された。つまり『罪と罰』の方が時間的に先行している。したがって、時系列でみてドストエフスキーの『罪と罰』がニーチェの超人思想に直接影響されることはない。だが、ニーチェ(1844-1900)とドストエフスキー(1821-81)はほぼ同時代人でナポレオン後の近代の時代精神を共有する人間である。独立して似た思想を(賛否はともかくとして)理解し到達し得たのは間違いない。

※4 他にも『ツァラトゥストラはかく語りき』では「永遠回帰」という概念が登場するが、本稿ではほぼ関係が無いので触れない。


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