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『協力隊として千厩(せんまや)に戻ってきてみて感じたあれこれ』

千厩(せんまや)に地域おこし協力隊として戻ってきて早くも一ヶ月。挨拶回りや、協力隊の研修会、農家さんのお手伝い、地域の一大イベントの『せんまやひなまつり』のお手伝いを、あれやこれやしているうちに気づけばあっという間に2月と3月が去っていました。


生まれてから高校卒業まで18年間暮らしていた千厩。千厩といっても町中ではなく、家の目前には田園が広がり、裏山からは雉の鳴き声がいつも聞こえてくるような里山で私は暮らしていました。


小学生の頃は徒歩圏内に小学校があり、帰り道に草をかじってみたり、野生の花の蜜を吸ってみたり、美味しそうな木の実を見つけては毒味がてら食べてみたり、水路を見つけては飛び込んでみたり、側溝のオタマジャクシを素手で掴んでみたり、
橋の上から川へダイブしたり、今思えば怖いもの知らずですね。(笑)文字通り道草を食って過ごすワイルドな幼少期を過ごしていました。


自然に囲まれて学びを深めることができた母校の小学校も少子化による学校統合のため、数年前に廃校になりました。


校舎の敷地内にあって、たけのこ探し、鬼ごっこ、ソリ滑りをした、思い出の「五訓の森」も既になく、タイムカプセルの行方も謎に包まれたまま校舎は取り壊され、現在は跡地に新しく特別養護介護施設が建てられています。この部分だけでも考えさせられることが多いですね。


進学した最寄りの中学校は家から徒歩では行けない距離なのでスクールバスや親の送迎で学校に通うようになりました。高校からはスクールバスがないので、完全に親の送迎に頼っていましたが、テスト期間で早く帰る場合など、どうしても時間が合わない時は、2時間かけて歩いて帰っていたこともあります。


また、小学校の時の友達は比較的徒歩圏内の近所(遠くても自転車で1時間)に住んでいたので、自転車や歩いて家に遊びに行ったりできていたのですが、
中学、高校となると友達は遠くに住んでいることが多くなり、その友達の家に遊びに出かけるにも町内や市内に出なくてはいけない。それなのに汽車やバスの本数は少ないという・・・。


頼れる祖父母や親戚がいれば送迎を頼めたのかもしれませんが、私の場合、祖父母はすでに他界し、核家族であったため親の送迎と公共交通機関以外頼れない状況でした。現在は実家周辺の路線バスも廃線になってしまったということで、今の千厩の子どもたちはどうしているのかな・・・。


雑誌に載っているようなお洒落な服や雑貨が売っているお店は全然無いし、
何よりディ○ニーランドやU○Jなどの娯楽施設がないことに絶望して、一刻も早く岩手を出たいと当時は思っていました。


はやく都会で暮らしたいと思っていた私ですが、実際、交通機関が充実している京都などの都市部に住んでいた時は、移動や買い物、娯楽に困ったことはほとんどありません。


車がなくても、5分おきにくるバスに乗れば、なんでも揃う繁華街に出れて、必要なものをすぐに買い行けて、おいしいごはん屋さんや、おしゃれなコーヒーショップに行ける便利さは、地元には無いものでした。


ですが、戻ってきてみて車生活をしてみると、なんと快適なのでしょう・・・。


思えば、学生時代から住んでいた京都では、生活圏内のバスなどの交通機関は、国内外の観光客で常に溢れていて、毎回車内はすし詰め状態でした。

乗るのも降りるのにも一苦労で、通勤時の満員の車内でおしくらまんじゅうになりながら、やりどころのないイライラと、朝から無用なストレスを感じてしまうのが本当に苦痛でした。誰も悪くないんですけどね。自転車生活をしていた時期もありましたが、盛大に転んで、2回ほど痛い目を見たのでそれに懲りて乗るのをやめました。安全第一なので・・・。


けれど地元での車生活は絶対座れるし、遅延に頭を悩ませることもないし、この辺りは渋滞なんてほとんどないし。比較的道が広くて車が少ないので、ノンストレスで運転がとても楽しいです。


すし詰め通勤がどれほど自分にとって無用のストレスであったのか解放されてから気づきました。


また千厩名物の夜市は、住んでいた当時の私にとっても同級生たちの普段見れない私服を見れる貴重な機会であり、友達とあてもなくぶらぶらと食べ歩きをしては、卒業した先輩や遠くの学校に通う友達と久しぶりに再会できる貴重な場所でした。


校内の恋愛事情(誰と誰が付き合っているとか)も知れたり笑。私自身は暗い芋生活をしていたので、恋人同士で夜市を訪れる学生カップル達が大変羨ましく輝いて見えていました。笑


と、夜市への想いはひとまず置いておいて、


Uターンで戻ってきた私ですが、地方新聞の強さを思い知った瞬間があります。


着任してすぐ市長からの委嘱状交付があり地元の新聞に取り上げていただいたことがありました。


新聞が発行された当日、町内でイベントがあり、写真を撮るために一瞬を逃すまいと血眼になりながら馬車を追いかけて走り回っていたのですが、馬の速さについていけず汗だくになりながら途方に暮れて休んでいると、「今朝、新聞に載っていた人ですか?」と声をかけられたことがありました。汗まみれの中での不意打ちだったのでアタフタしてしまいました・・・。


その日から会う人会う人に、「新聞見たよ!」「新聞に載ってたよね!」「新聞であなたこう言ってたから、こんなことやってみない?」など、声をかけてくださることがたくさんあり、この地域の方々は本当に新聞を読まれるんだなと実感しました。アナログなメディアだと勝手に思い込んでいた紙媒体報道の地方での影響力の強さを知りました。地域で変なことできないですね・・・。これをきっかけに私も普段読んでいなかった新聞に目を通すようになりました。

そして何より戻ってきてよかったなと感じるのは家族との時間が増えたことです。


都市部に住んでいたときは、岩手には年に一回帰るくらいで、歴史好きな父が京都に会いに来てくれた回数の方が多かったかも知れません。帰ってきてからは、高血圧肥満気味な父のために私がヘルシーなご飯やお弁当をつくる機会が多くなりました。


思春期には喧嘩が多かった母とも、今は休みの日に一緒に買いものやご飯に行ったり。


離れていた期間が長いからこそ、一緒にご飯を食べれるだけでも親孝行できてるかなと、これは完全に自己満足ですが思っています。関わりたいと思っていた地域おこし活動を仕事にできている今の環境をとても幸せに感じます。


海外へ語学留学中に、地元の地域おこし協力隊に応募することを決めた私ですが、
応募するにあたり、自分の幸せについてじっくりと考えたことがありました。


目標や夢を持つことも大切ですが、まずその前にある「自分がどんな時に幸せを感じているのか」を改めて自問自答しました。お金なのか、時間なのか、家族なのか、自由さなのか、刺激なのか・・・。


自分と向き合ってみて出てきた、自分にとっての幸せの一番は、「家族や親しい人と過ごしている時間」でした。


私自身、国内外いろんな場所に行ってみて、人が羨むような場所に来て、たくさんの人たちと出会って、非凡な経験をするよりも、家族や親しい人と過ごす平凡な時間には敵わないと気づくことができました。(それほど多くの経験をしたわけではありませんが)

26年というまだまだ短い自分の人生の中での決断ではありますが、きっとどれだけお金持ちになっても、仕事で世界中を飛び回れるようになっても、どれだけ名声があっても、家族や親しい人との時間がなければその意味も無いのだろうなと思っています。実際はその時にならないとわからないとは思いますが・・・。


なので今は、家族や親しい人、自分の生まれ育った地域とその地域に住む人達が幸せに暮らせるよう、灯台下暗しとならぬように、まずは足元に光をあてて、自分の手の届く範囲で小さなことから貢献していけたらと思っています。


座右の銘である「自利即利他」は、「他者の喜びを自分の喜びとできるようになりなさい」という意味で私は解釈していますが、独りよがりになって自己満足で終わらぬように、任期の3年間を大切に過ごしていかねばと思っています。


特に1年目はなんでも挑戦をモットーにしておりますので柔軟にたくさんのことを経験して、いろんな人の声を聞いて地域を知り、多角的に地域を見て問題発見と解決への一歩を地道に歩めたらと思っています。


拙い文章ではありましたがここまで読んでくださりありがとうございました!















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