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『すずめの戸締まり』/映画で受け取った宿題を思い出す。

『すずめの戸締まり』が金曜ロードショーで放映された。この作品を映画館で見たときに、私は「宿題をたくさんもらった」と感じた。私にとってはそういう作品だった。久しぶりに自分にとってどういう作品だったかを思い出そうと思う。そして宿題のことも。過去に3つ記事を書いていたのでそれに沿って。

#ネタバレあり

自分で自分を救う物語

物語の中ですずめは幼い自分自身を救う。それがとても美しい。そのことについて記事を書いていた。

深い傷を負った少女が、自分で自分を救い出すことができることを、説得力を持って描くことに成功していること。それがこの作品の「一番凄いところ」だと私は思う。そしてこの記事の最後に自分への宿題が書いてあった。

重要なのは、過去の自分をやり直せるきっかけ、「常世に入れる後ろ戸」が象徴するものを見つけること。過去の自分に渡せる言葉を育てておくこと。

出典:過去の自分

ただひたすらに耳が痛い。過去の自分に殴られる。過去の自分を救ったすずめとは大違い。

叔母の苦闘

すずめが自分を救い出せること。その説得力はどこから来るのか。すずめにそういう力があるようには描かれていない。それどころか、説得力はすずめ自身の描写では生まれていないのだ。彼女自身ではなく、彼女の周りの人達の描写から生まれている。特にすずめの叔母、環さんの存在は重要だ。

すずめの地獄を一緒に背負う環さんの存在。そして環さんの苦悩。それらがなければ、この物語に説得力はなかっただろう。環さんとの「絆の結び直し」を経て、すずめは自身の過去に立ち向かう。環さんだけじゃない。すずめは「周りの人の物語」の一端を一緒に経験して抱擁を受け別れる。それを繰り返して過去に立ち向かう資格を得てゆく。そのことを成長と呼ぶのは簡単だ。でもそんな常套句で単純化するは良くないと思う。環さん、民宿の千果、スナックのルミさん、羊朗、そういう人の思いが彼女の周りにまとわりつき、彼女と一緒に幼い彼女を救う。そこに説得力が生まれるのだろう。

私たちにとって災害とは

すずめの戸締まりは、新海監督の災害三部作の最終作。コロナ禍のことを忘れ始めている自分に気づきゾッとして、災害映画としてのすずめの戸締まりについての記事を書いた。

災害の経験を忘れてはいけない。でも、私たちは嫌なことは思い出さないようにできている。嫌なことをいつまでも思い出す努力をするより、自然に思い出せるような工夫が必要なのだろう。そういう記事だ。そしてそこには宿題が書いてある。

3.11の震災で日本中の人たちが何かを失った。それは目を向けたくない記憶だ。でもちゃんと考えていないだけで、そこで私たちが手にした大事なものがあったのではないか。失ったものだけではなく、手にしたもののことをちゃんと考えないがぎり、私にあの震災の戸締まりはできないのだろう。

出典:過去の自分

むむむ。そうだ、そう感じていた。私は、災害を思い出せるようになるよりも先に、自分が心に刻んだ宿題を思い出せるようになるべきでは。

進まぬ宿題と、少しの希望

過去の私がnoteに残した宿題を、今の私が答えてあげることができたのなら、それはすずめが過去の自分を救ったことに近いことだと思う(とても些細なことだけれど)。そして私にそれができないのは「環さん、千果、ルミさん、羊朗」のような、他者の物語との交錯が足りないから、なのかも。だから自分が全然変わっていなくて、同じ角度からしか問題を見ることができない。千果が「すずめは何か大事なことをしている気がする」と言ったのは、すずめが自分を守ることよりも、もっと別の何かを大事にしていたからだろう。そういうときに人は変わることができる。そして私はそういうことがなかなかできなくなっている。

でも少しだけ希望はある。改めて見直して感じたのは、私は「過去との対話」「過去の鮮やかな想起」がテーマだと感じていたいうことだ。ありありと過去を思い出すという経験を通して、私たちは何か大事なものを得てゆく。これは、私が好きな『葬送のフリーレン』という作品と重なるもので、それについて結構深く考えてきたことだ。『すずめの戸締まり』と『葬送のフリーレン』を並べて考えることで、今までとはちょっと違う角度から眺められるはず。そしてそのことで、「3.11の私なりの戸締まり」という私の宿題も少しは進むのかもしれない。

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