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葬送のフリーレン28話/最終回も淡々と。淡々と別れることができるのは、また会う日をイメージできるから。

葬送のフリーレン28話を視聴。淡々とした最終回だった。でもそれは悪い意味ではない。後味の良い最終回だ。あえて盛り上げない別れ。その理由がエピソードの中でちゃんと説明されていた。
このお話では繰り返し、魔法にはイメージが大切であると説明されてきた。そしてこの最終回でイメージの大切さを思い知らされることになった。ドーパミン的カタルシスとはまったく別の心地よさを感じる最終回を見終えて、いろいろ考えたことをメモしておく。

#ネタバレあり

●また会ったときに恥ずかしい、と思う感性
ヒンメルは人と別れるときにあっさりしている理由を聞かれて、涙の別れはまた会ったときに恥ずかしいから、と説明する。これはちょっと変わった感性だ。仲良くなった人とのお別れ。次に会う見込みはない。その瞬間に、その人との再会を強くイメージできるだろうか。私にはこれまで、そんなことができた記憶はない。
ヒンメルのこの感性は、確率を無視した荒唐無稽なものではない。彼はまた会えると本気で信じているのではないのだ。だから、別れの相手に「またきっと会えるよ」などと軽々しいことは言わない。可能性はとても小さい。それを理解してもなお、再会をイメージしてそれに備える。これは一見無駄なことのような気がする。しかしそれは、私たちにとっては決して無駄ではない。それは私たちには物語の力が必要だからだ。

●くだらないことが駆動する物語の力
私たちは必要なものだけに囲まれていると、健康に生きていくことができない。そのことは、不要不急を排除したコロナ禍を思い出せばわかる。有用なものだけに囲まれると、私たちは深刻な窮屈さを感じる。それに対抗するのは物語の力だ。「コロナ禍によって困難を共有した世界中が仲間となった」という物語。ウィルスと生物には長い共生の歴史がある、という物語。そういう物語の流れにあると感じることで私たちは癒されるようにできている。そして、力のある物語には「くだらないこと」が重要だ。くだらなさは物語の力を駆動する。
するとこう考えたくなる。くだらなければ何でも良いわけはないから、そこに優劣があるはずだ。物語を強く駆動する「優れたくだらないもの」はどういうものだろうか。しかしその考え方は間違っている。優劣をつけたものは有用だから、それはもうくだらなくない。それは物語を駆動する力を失っている。「有用さの物差し」で測ってはいけないのだ。測る前に物語の力にする必要がある。

●ヒンメルの感性と離別の悲しみ
ここでヒンメルの感性の話に戻る。また会える可能性が低い別れのとき、再会のイメージを湧かせることは、役に立たないこと、くだらないことだ。だからこそ物語の力を駆動する。あり得ない事であっても、嬉しいことを夢想することは私たちを癒すのだ。そしてその夢想から得た力を、私たちは現実を切り開く力に変えることができる。ヒンメルはあっさりした別れにも悔いを残さない。そのことによって前向きな力を得ている。
「涙のお別れ」は悲しみを乗り越えるための一つの儀式だ。けれど彼はその儀式とは違う経路で悲しみを乗り越える。悲しみを感じないのではない。悲しみはちゃんと感じて、でもそこで「涙のカタルシス」の力を借りずにその先へと進む。ヒンメルはそうやって前に進んできたのだろう。
もしかしたら、フリーレンとの死別を覚悟した時もそうだったのかもしれない。死んだ後に会えると信じていなくても、死んだ後に再会したときに恥ずかしいことはしない。そういうことが自然にできる人だったのだろう。

●最終回の別れとイメージの力
「涙のお別れなんて僕たちには似合わない。」
ヒンメルのこの言葉は、最終回を淡々と終える理由と重なる。確かに、盛り上げて最終回を迎えるのは、葬送のフリーレンと言う作品には似合わない。

「だって、また会ったときに恥ずかしいからね。」
この言葉は、私たちに、フリーレンたちとまた会えるイメージを与える。それがどれほど確かなことなのかは重要ではない。そのイメージを持てること自体が、私たちの中に物語の力を駆動するのだ。それはヒンメルが別れの悲しみの先に進んでいたやり方だ。私たちも同じように、この作品とのお別れの悲しみに対して、「涙のカタルシス」の力を借りずにその先に進むことができる。そういう後味の良さを感じる最終回でした。

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