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【コラム】なぜ駄文を書き続けているのだろう?ーそれはたぶん…

GW中ということもあり、いろいろ熟考できる時間もあるので、少しいつもと違うテイストで書いてみようと思います。

コロナ禍の前は、現場というと二種類ありました。
一つはもちろんLIVE。もう一つは握手会。
どちらにも共通して言えることは、直接この目で実際の存在を確認できるというこの上ない嬉しさであるのは当然なのですが、もう一つ忘れてならないのは、普段ネット上とはいえお世話になっている皆様と実際にお会いできる機会に恵まれる、ということです。

コロナ禍となり、マスク姿が当たり前で、声を出すことそのものが憚られるくらいになったご時世で、LIVEすらオンラインという状態がしばらく続きました。リハも本番もいつまでも観客がいない状態。反応がない。押しても押しても手応えがない。あれは本当に大変だったと思います。
そのうち、有観客が復活し、そして2023年になってようやく観客も声を出しての応援ができるようになりました。

かたや握手会に関しては、いまだにいつ復活するかわかりません。
オンラインでのミート&グリート、という技術は、とても素晴らしかった。あれで繋がりを断つことはなかったとは思います。とはいえ、ここまで元の生活が徐々に戻ってくるとなると、ミーグリがあるために握手会を復活させる必要性を感じない、という空気になるのではないかと危惧しています。
元の生活にいずれは戻るにしても、当時から私も、握手会の復活はいちばん最後だろうと思っていました。乃木坂や日向坂ではリアルミーグリという形で握手会に似たものを開催するところまではきましたが、そもそもがスペイべの扱いであるので、復活と大々的に喜べるところまではまだ来ておりません。

それはともかくとして。

実際にTwitterのフォロワーさんとお会いするのが私はとても好きで、いろんな情報交換など有意義な時間を過ごさせていただいていますが、初めてお会いする方にはTwitterの、というより「ブログ見てます」「note読んでます」と言われることが本当に多いのです。
その影響力というものを肌で感じる瞬間です。
Twitterにしろ、noteにしろ、下手なことは書けないな、と背筋を伸ばしたくなる瞬間です。


私自身は、確かに文章を書くのが嫌いではないのですが、そもそもは誰かに読んでいただこうとか、お見せしようというところが出発点ではないのです。
私は芸術方面は本当にダメで、絵を描かせれば「画伯」だし、小学校の頃に作った粘土は何作っても直方体にしかならなかったし、図工や美術の時間が本当に憂鬱だったんです笑
ある意味、文章で何かを表現するという、そっちにスキルが全振りされてしまったという笑

ただそうは言っても、別に誰かに読んでもらおうというのはなかったです。

小4のときの担任の先生が出す宿題は、ずっと「自由勉強」でした。ノート一冊用意して、そのノートに何をやってもいい。計算を解いて丸つけでもいいし、漢字の書き取りでもいいし、なんでもいい。とりあえずやった成果を提出しなさい、という先生でした。
そこで何を思ったのか、当時の私は、詩を書いて提出したことがあります。
学校の窓から見えるガスタンクを風船に見立てて書いたような詩だったと記憶していますが、先生がそれを市のコンクールに出して佳作を受賞するまで私に内緒にしていました笑
先生に読んでほしかったわけでは決してなく、まして詩で賞を取ろうなどと微塵も思ったことがなく、ただ宿題の一環として提出しただけなのですが。

ごめんなさい。
今日のブログは一貫性がありません。
話があちこちに飛びます。ご容赦ください。

何が言いたいかというと、私は確かに文章を書くのは嫌いではないのですが、誰かにお見せしよう読んでいただこうという想いより、ただただ自分が書きたいから書いている、というところが出発点なのです。

今や、題材は櫻坂46と日向坂46。


彼女たちを見ていると、書きたくなるのです。


それ以上の理由はありません。
本当のことを言えば、それこそチラシの裏に書き殴ってその辺に置いておくだけでもいいかもしれない、というレベルなのです。

それが出発点としてあるので、だから「ブログ見てます!」「note読んでます!」というお言葉は、もう恥ずかしくてたまらないのです笑
いえ、もちろん嬉しいんですよ。自分にとってはチラ裏レベルの文章で本当に申し訳ないなと思いながらも、どなたかの役に立っているのなら、こんなに嬉しいことはない。

私は彼女たちと違って、純粋な受け手です。受け手以外になり得るものなど本来ないはずの人間です。櫻坂日向坂メンバーと比較するのはあまりに烏滸がましいのですが、彼女たちみたく、自分のパフォーマンスで誰かに影響を与えているとしたら、自分にとってこんなに意義があることも他にないのです。


note前のはてなブログに関しては、一応消さずに置いております。
開設したのは2015年なので、もう8年も前になりますか…そうなんです。最初は実は櫻坂日向坂どころか、まだ漢字欅が誕生するかしないかの頃で、そのことでブログを書こうなどと全く思っておりませんでした。
2017年、初めて行った握手会あたりからが、本格的に今のような文章になっていきます。
さほど気になる方もいらっしゃらないとは思いますが、一応リンク置いておきます。


はてなのときもそうでしたが、noteは有料ブログがあったり、プロの方もお書きになっていたりと、文章の上手い方はそれこそたくさんおられます。櫻坂や日向坂のことでnoteを開設されている方も、多くおられます。
私の場合は、そのときの感情を表現できる言葉で書いています。前述したとおり、そもそもお見せしようというところが出発点ではないので、できるだけ生の感情をぶつけるような書き方になります。だから、自分の文章を自分で読んでいても決して上手い文章とは思いません。

これは「記憶」なのです。

彼女たちから何を受け取ったか。何を伝えられたか。何を訴えられたのか。

もしかしたら間違っているかもしれません。
それでも、そのときに自分が感じたことを書き留めておく必要があると感じているのです。

例えば、櫻坂46の「Nobody's fault」。

櫻坂に改名してから、いや、ノバフォの場合は欅坂のLAST LIVEの、最後の最後を飾った曲でした。
最後であり、最初でもあった曲。
そこで初めて目の当たりにし、その後は無観客有観客とコロナから日常生活を取り戻す過程での単独LIVEで、必ずと言っていいほど披露されています。

毎回思います。

毎回、違うのです。


同じ曲なのに。
メンバーもそう大きく違っていないのに。


何故か違って見える。
実に不思議なのです。


もちろん、彼女たちのレベルが上がっている、というのはあると思います。
でもそれだけではない。
観る側である、こちらの心持ちも関係しているのかなと。
自分のそのときの精神状態によっても、見え方は変わってくるような気がします。

もしそうだとしたら、それを「記憶」しておきたい。

私が自分の言葉で「記憶」するために、「記録」する。
言ってしまえば、それが最大の理由なのです。

とはいえ、チラ裏ではなく、ネット上にその文章を置いている以上、それも無料で公開している以上、誰でもアクセスできるところに自分の文章がある。それこそ、メンバーや関係者の皆様だって目にするかもしれない。それはちゃんと念頭にあります。


2015年、欅坂46が誕生し、紆余曲折を経て、そのグループは二つとなり、派生して櫻坂と日向坂になった。
最初からずっと見続けている私としては、全ての卒業生も含めて、彼女たちの存在がもはや自分の「一部」なのです。

日向坂には先に四期生が入り、櫻坂にも三期生が加入して既に4か月が経過しました。形あるもの、必ず変化はすると、私は思っています。それでも、根本の部分は絶対に変わることはないし、その存在意義も絶対に揺るがないと信じています。


そして、もしそうであるならば…

私が彼女たちに書く文章も、ずっとそこにある、ということなのです。


もう一つ、私がこの際お伝えしたいのは、皆さんもその思いを文章にしてみられてはどうですか、ということです。
いえ、文章でなくとも、表現方法は数多あるのです。それこそ、画力のある方は絵でもいいし、動画方面で才能のある方はYouTubeでもいい。国民総発信者時代でもある現代、ご自分の想いを発信する方法は本当にたくさんあります。
アンチなことをずっとあげ続けるというわけのわからないことでなければ、好きなものを好きと発信するのは本当に尊いことだと思うのです。
ぜひご検討ください。


というわけで、これからも自分の感情100%の文章でお目汚しということになるやもしれませんが、もしそれでも宜しければお付き合いいただければ幸いです。


noteの中でも、櫻坂46・日向坂46に特化した内容ですので、特に二つのグループの推し活を経て、皆様に文章で還元できるよう努めてまいります! よろしければサポートをお願い致します。