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信長にみる『孫子』の兵法

ちょっと前に、興味をひく本が発売されました。

『魏武注孫子』とは、魏武帝である曹操が注をつけた『孫子』のことです。

『魏武注孫子』自体は既に他の形でも出版され、一般に読むことができたのですが、今回は文庫版で手に入るということで、より読みやすくなっています。

この講談社学術文庫版の特徴は、三国志研究の第一人者である渡邉先生が訳者をつとめたことと、渡邉先生が三国志における実戦事例をあげて説明することで、抽象的な『孫子』の議論を立体的に見せてくれることです。

曹操は自身の経験から解釈するため、一般的な『孫子』の読み方と異なる箇所がいくつかありますが、あの曹操が注釈したということで、三国志好きにはもちろんのこと、これから『孫子』を読むという方にもオススメできる一冊です。

例えば、始計篇では次のように語られます。

戦争というものは、詭道(常なる形は無く、偽り欺くことを原則とするもの)である。それゆえ能力があっても敵にはないように見せかけ、(武を)用いることができても敵にはできないように見せかけ、近くにいても敵には遠くにいるように見せかけ、遠くにいても敵には近くにいるように見せかける。利により敵を誘い、乱して敵より奪い取り、(敵が)充実していればそれに備え、(敵が)強ければそれを避け、(敵が)怒涛の勢いならばそれを攪乱し(衰え怠ることを待ち)、(自らの)卑弱により敵を驕らせ、(自らが)楽をして(利により)敵の労を待ち、(敵が)親しみあっていれば(間諜により)それを分断する。

『魏武注孫子』、講談社学術文庫、22頁

『孫子』は、戦争の基本的性格を「詭道」、すなわち騙しあいであるとします。

実際とは違う軍の形をみせて、相手に自軍の実態を探らせないようにしたり、自軍を弱く見せることで、相手を油断させたりするのです。

ところで、『孫子』は日本にも伝わり、戦国武将も読んだとされているようです。

日本では「風林火山」で有名な武田信玄や徳川家康が、そうした武将としてあがりますよね(風林火山の由来は『孫子』です)。

しかし、私は織田信長が大好きなので、今回は講談社学術文庫版『魏武注孫子』をまねて、信長の戦いを『孫子』の実戦事例として例示してみようと思います。


作戦篇 第二

戦いを行うには、勝っても(戦いの期間が)長くなれば軍を疲弊させ士気を挫く。城を攻めると(長期戦となり)力が尽き、長く軍を(戦場に)晒せば国家の財政が不足する。軍を疲弊させ士気を挫き、力も尽き財も尽きれば、(他の)諸侯がその疲弊に乗じて蜂起する。(そのときには自国に)智者がいても、疲弊の後をうまく(対処)できない。このため戦争には(巧みでなくとも速さで勝つ)拙速は聞くことがあるが、巧みで久しい(巧遅という)ものはない。

同、36頁

孫子は、戦争をする際には長期戦を否定します。

兵は「拙速」であっても、巧みでも遅い「巧遅」は求めません。

長期戦が不利なのは、経済的な負担だけではありません。

自国が疲弊したのを見た他国が、攻め込んでくることも警戒すべきです。

信長の実戦事例:志賀の陣

三好三人衆および本願寺と戦っていた信長に、浅井・朝倉軍の進出の報が入る。南方で本願寺の相手をしている隙に、北方の敵に虚を突かれたのである。浅井・朝倉軍は、防衛に置かれていた織田家の森可成を討ち取り京都に進軍。信長は本願寺との戦いを切り上げ強行、素早く京都に到着した。
浅井・朝倉軍は、信長との決戦を避けて比叡山に上って陣を張った。山上に陣取る敵に戦いを挑むのは難しい。信長は比叡山延暦寺の僧に交渉をもちかけるも、延暦寺がこれを無視したため、仕方なく持久戦になった。
両陣営のにらみ合いは三ヶ月近くも続く。その間、信長は朝倉の陣に使者を送り、決戦を誘ったが、これも無視された。膠着状態が続くなか、国許の尾張からは、長島の一向一揆が蜂起し、弟の信興が攻め殺されたという情報が入った。一方、浅井・朝倉軍も兵糧が尽きてきた。両陣営我慢比べの状態だった。
ここで信長は、将軍と天皇を動かした。将軍義昭は、関白を動かし和睦の仲介に努めさせ、さらに延暦寺宛てに綸旨が出された。ついに和睦が成立し、信長はすぐさま陣を引き、その日のうちに軍を返したのだった。
いわゆる信長包囲網が成りつつあり、各方面に敵がいる状態にあって長期戦を強いられたこの志賀の陣は、信長の戦歴の中でも最も苦しい戦いのひとつだっただろう。長期戦の害を知っていた信長は、延暦寺への交渉や朝倉への使者派遣によって短期決戦にもちこみたかったのである。

https://www.sengoku-battle-history.net/shiganojin/

謀攻篇 第三

孫子はいう、およそ兵を用いる方法は、(敵の首都を急襲して)国を丸ごと取ることを上策とし、(兵を用いて)敵国を討ち破るのは次善である。(敵の一万二千五百人からなる)軍を丸ごと取ることを上策とし、軍を討ち破るのは次善である。(五百人からなる)旅を丸ごと取ることを上策とし、旅を討ち破るのは次善である。(百人の)卒を丸ごと取ることを上策とし、卒を討ち破ることは次善である。(五人の)伍を丸ごと取ることを上策とし、伍を討ち破ることは次善である。このため百戦して百勝することは、最善ではない。戦わずに敵の軍を屈服させるのが、最善である。

同、47頁

『孫子』は兵法書でありながら、「百戦して百勝する」ことを最善とはしません。

なるべく戦わず、どのような規模であったとしても、敵を丸ごとを取ることが望ましいことが書かれています。

そのため戦闘になる前から謀をめぐらせて、敵の内応をはかったり、素早く動くことによって相手の戦闘準備が整う前に制してしまうことが肝要です。

具体的な戦闘を行わず、戦わないで勝つのを理想とすることは、戦争の基本的性格を「詭道」と捉えることと並んで、『孫子』の原則となっています。

信長の実戦事例:稲葉山城の戦い

永禄十年(1567)八月一日、西美濃に勢力を広げる美濃三人衆から、信長の味方になるとの知らせが届いた。信長は、彼らの人質受け取りの使を派遣するが、まだ人質が到着しないうちに軍勢を出し、斎藤氏の居城である稲葉山城攻略に向かうのである。
突然のことに稲葉山城や城下町が騒ぐなか、織田軍は町に放火して城を裸にし、四方に鹿垣を作って包囲戦に入った。その語、美濃三人衆が礼に現れたが、あまりのスピード振りに舌を巻いたという。
八月十五日、斎藤家当主の斎藤龍興は城を捨て、舟に乗って長良川を逃れた。こうして稲葉山城は信長の手に属し、七年もの年月を費やした美濃攻めも終了した。信長は稲葉山城の名を岐阜城、町を岐阜と改める。そして、尾張・美濃両国を制したこの時を機に、「天下布武」の印判の使用を始めるのだった。
信長の稲葉山城攻めは、直接攻撃するのではなく、周囲の拠点をつぎつぎに落とし、かつ付城を幾つも築いて遠巻きにし、好機をとらえて一気に攻め落とすものであった。その好機が美濃三人衆の内通である。調略をもって無駄に戦うことなく兵をまるごと味方にし、機が熟したとみるや迅速に動く。こうした戦い方は後の浅井長政の小谷城攻めなどにも見られ、信長がよく用いた手法と言えるだろう。

https://www.sengoku-battle-history.net/inabayama-castle-tatakai/

謀攻篇 第三

こうして勝利を(あらかじめ)知るには五つのことがある。(第一に)戦うべき相手か、戦わないべき相手かを知るものは勝つ。(第二に)大軍と寡兵(それぞれ)の用兵を知るものは勝つ。(第三に)君臣が目的を共にするものは勝つ。(第四に)計って計らない者を待てば勝つ。(第五に)将が有能で君主が統御しないものは勝つ。これら五つが、勝利を知る方法である。
「敵を知り自分を知れば、百戦しても危険はない。敵を知らず自分を知れば、勝ったり負けたりする。敵を知らず自分を知らなければ、戦うたびに必ず敗れる」というのである。

同、63、65頁

孫子は、勝つための条件を五つ挙げます。

①敵・味方の実情を的確に把握すること
②大軍と寡兵それぞれの用法を知ること
③君臣が戦いの目的を共有すること
④戦うための準備を十分にすること
⑤将の君主からの独立性

戦いでは、敵と味方の実情を的確に知ることで、どう戦えばよいかを正確に判断し、対処することが重要なのです。

信長の実戦事例:長篠の戦い

武田軍一万五千が三河に侵攻。天正三年(1575)五月十三日、徳川家康からの援軍要請に応え、信長は総勢三万余の軍勢を率いて出陣した。
十八日に信長は、武田軍が攻撃している長篠城から約六㎞西方に極楽寺に本陣を敷き、家康や信長配下の武将たちは連吾川沿いに陣を構えた。陣の前には馬防柵を築いた。
一方、織田・徳川の動きに対応するため、武田勝頼は連吾川前に本陣を移動、麾下の武将たちも連吾川沿いに陣を敷いた。これにより両軍は、連吾川を挟み約五百m程の距離で対峙した。
二十日夜、織田・徳川連合軍は、徳川の武将酒井忠次を大将とする別働隊を編成し、長篠城の見張りに置かれた武田軍を攻撃する作戦をたてる。この別働隊は、山岳地帯を通り、翌二十一日朝に武田方の砦を急襲。不意を突かれた武田軍は大混乱に陥り、砦は陥落、守備していた武田軍は崩壊する。これにより、勝頼率いる武田軍主力は、背後を断たれることになった。
二十一日早朝、武田軍が織田・徳川連合軍へ攻撃を開始する。武田軍は連合軍に向かってまっしぐらに進み、波状攻撃が絶え間なく繰り返された。武田軍の攻撃を受けながらも、連合軍はほとんど動かず、動かないまま、敵が間近に迫ったのを見計らって、横一列に並んだ兵卒の持った鉄砲が火を吹いた。
武田方の砦陥落の知らせは、戦いの最中に勝頼にもたらされた。腹背に敵を控える形になった武田軍には、突撃を続行して敵を打ち破るしか選択肢がなくなったのである。無謀に等しい突撃の中で、武田軍の将も兵も、敵に肉薄する前に銃弾に当たって倒れ、他国にまで名の知られた将が次々に討死した。ついに負けを覚った勝頼が戦場を脱出した時には、わずか数人の騎馬武者しか従っていなかったという。
三万以上の軍勢に加え、多くの鉄砲を用意し、それを有効活用するための陣を築いた織田・徳川軍は、準備の段階で武田軍に優っていたと言えるだろう。そうしたなかで、撤退を進言する武田軍の信玄以来の重臣たちを退け、決戦を選んだ勝頼は、敵を知ることを怠ってしまったのである。

https://www.sengoku-battle-history.net/nagashinotatakai/

虚実篇 第六

敵の行かない所に出て、敵の思わない所に行く。千里を行っても疲弊しないのは、無人の地を行くためである。攻めれば必ず取る(ために最も良い)のは、敵が守っていない所を攻めることである。守れば必ず固い(ために最も良い)のは、敵が攻めないところを守ることである。そのためよく攻める者は、敵がどこを守ればよいか分からない。よく守る者は(情勢が漏れないので)、敵がどこを攻めればよいか分からない。

同、101頁

敵が守っていない所、すなわちを攻めれば、敵を破ることができます。

攻める所が複数ある場合には、敵が備えをして充実している所は避け、敵が思ってもいない所を狙います。

その際は、どこを攻撃しようとしているのかという自軍の情報が敵方に漏れないことも大切です。

信長の実戦事例:箕作城の戦い

足利義昭を擁して上洛する信長をさえぎろうとしたのは六角氏であった。信長はまず七日間を費やして六角氏を説得したが、六角承禎は信長に与することを承知しなかった。信長は、軍事力によって上洛への道を切り開くほかなくなったのである。
六角氏は、本城である観音寺城の前衛として和田山城に大勢の兵を入れていた。だが、信長は、そこには押さえの兵を置いただけで、観音寺よりさらに奥に位置する箕作城に攻めかかり、一気に葬り去った。
この勢いを見て、六角承禎父子は観音寺城を捨てて逃亡した。和田山城兵も同様であった。信長はやすやすと観音寺城に入り、京都への道を確保したのである。
信長の圧倒的な大軍で一気に敵城を力攻めすることを得意としたが、その際には、まず目標とした城を一気呵成に落とし、周囲の敵の度肝を抜いて退散させてしまうという狙いがあった。一度に二つ以上の敵城に臨む時、攻撃する城を選んで一つを重点的に攻撃し、情け容赦なく城兵を討ち取って落としてしまうと、戦意が萎えたもう一つはわけなく降参するのである。

https://www.sengoku-battle-history.net/mitsukuri-castle-tatakai/

九地篇 第十一

(ある人が)あえて、「敵が多く統制が取れていて(こちらに)来ようとしていたら、どう対処いたしましょう」と問うた。それには、「まず(地の利のような)敵の頼りとするものを奪えば、(こちらの)思うとおりになるであろう。(その際に)軍の情況は迅速を旨とし、敵の準備が間に合わないことに乗じ、(敵の)予測しない方法により、敵の警戒していないところを攻めるのである」と言った。

同、194頁

孫子は、敵が統率の取れた大軍の場合における戦い方を説明します。

その際大切なのは、地の利のような敵の頼りを奪うこと迅速さ

敵の準備が整わないうちに、予測しない方法で警戒していないところを攻めるべきであると言っています。

信長の実戦事例:桶狭間の戦い

織田方の鳴海城・大高城・沓掛城が今川義元の調略によって奪取されると、ついに永禄三年(1560)五月、今川義元は二万五千の兵を率いて尾張へ進軍を開始する。これに対し信長は、軍議で作戦の話をせず、世間話をするだけであった。
軍議らしい軍議を行わない信長であったが、今川軍が織田方の丸根砦・鷲津砦を攻撃してきたとの報が入ると、突如として出撃する。
「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻の如くなり」と敦盛を舞い謡ったところで、五名の供と出陣した。
丹下砦を経て善照寺砦に入り、そこで二千ほどの兵が集まると、臨戦態勢が整った。信長は、「敵に寡兵である姿が丸見えになる」という家臣たちの制止を振り切って、義元本陣にほど近い中嶋砦に移った。信長が中嶋砦から、さらに兵を押し出そうとすると家臣たちはすがりついてとめようとした。それに対し信長は、「こちらは新手の兵であるが、敵は遠征し奮戦して疲れ切っている兵である。小勢でも大軍に恐れることはない」と言って戦意を高揚した。
義元本陣に軍勢を寄せると、にわかに雨が降ってきた。風が強く、雨は投げつけるように今川軍の顔に打ちつけ、織田軍には追い風となった。空が晴れるのを見て、信長は槍を取り、大声をあげて「懸かれ」と命じた。織田軍のすさまじい勢いに、今川軍は後ろにどっと崩れ、義元も輿を捨てて敗走を始めた。信長は「旗本はこれだ。これに懸かれ」と命令し、自分も馬から下り、兵と先を争って槍で敵を突き伏せた。ついに馬廻の服部一忠が義元に斬りかかり、毛利良勝が首級を挙げた。
主将を討たれた今川軍は、威風堂々と進軍してきた道を、バラバラになって敗走していった。
信長は、見知った自国内での戦闘という地の利を得て、今川の兵が疲れているという人の利も得た。さらには雨という天の利も得て、迅速に動いたのである。

https://www.sengoku-battle-history.net/okehazamanotatakai/

いかがでしたでしょうか。

信長が『孫子』を読んだかどうかは確認することができませんが、その戦い方を見てみると、このように対応するところを見つけることができると思います。

ただし、信長が『孫子』を意識していたというよりは、戦に強い信長の戦い方には、兵法書である『孫子』にも通じるところを見出せるというのが適切でしょう。

信長の戦い方には、敵よりも多くの兵を動員することや、迅速に動くことなど、ある程度の基本を見出すことができます。

特定の兵法書に依拠するというよりも、信長は独自の戦いの理論を組み上げていたのだろうと思います。


お読みいただき、ありがとうございました🌸


参考文献


5/6追記

いつもスキ💕ありがとうございます❣️

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