詩と暮らす
詩と暮らす→シトクラス→師と暮らす
リアリストの私には『詩』とともに暮らすことは難しい。が、今は亡き母は、60歳で俳句を始め80歳で俳句を辞めるまでメキメキと頭角を表し、同人誌の巻頭を飾るまでにそう遠くはなかった。
大正生まれの母は小学校しか出ていない。
私が小学生の時、親が提出するプリントを母が書くと、ところどころにカタカナが混じるミミズの走っているような文字であり、それは子供心にも恥ずかしく・・・私は父に書いて欲しかった。が、忙しい父は、家のこと、ましては子供のことなどはすべて母に任せていたので、私がそれとなく父に渡したプリントでも、きっちり、ちゃぶ台の母の席に置かれていた。
私が結婚して子供を産んだときや夫の稼業を手伝うことになったとき、頼りになるのはいつも母だった。そんな母は、子供たちのいる私の家に通うついでに、駅ビルの中にあるカルチャー教室に通い出した。鉛筆からペン字、それを修了すると毛筆・古筆までをも熟し、その表具した作品は今も押し入れのお軸箪笥の半分を占めている。とっておきの母の句も幾つか色紙となり、形見として鎮座ましましている。
私が60歳になった時、母に真似て80歳まで俳句をしてみようと決意した。働きながらだったので、当時流行り出した「夏井いつき」先生が春夏秋冬に一度開催されるまったく自由な『いつき組大阪句会』に参加した。句会へ投句の句を前もって母にみせ教えを乞うと、次々ダメ出しが出て・・・挙げ句の果てには、
「あんたは俳句と違うて、川柳にしぃ、川柳かて立派なもんやで」
と指摘された。それは、私に詩心はなくリアリストだということが証明されたようなものだ。
母の句がなぜによくできるのかと秘密を訊いてみた。すると母は、
「私は若い時から小説や詩の本をよう読んだよ、あんたのようにハウツー本ばっかり読んでへんし」
グサッ!とくる返事だった。
フォローしているみなさんの真似をして、小牧幸助さんの『シロクマ文芸部』イベントに参加させていただきました。
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