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カミちゃんのヒカリの花

私という人間は
世界に唯一無二の存在なんだけど、
それにしても、
なんでこんなにややこしい人間なんだろう?

5歳の男の子を育てながら
オンラインで
事務代行の仕事をしている。

脳の機能がデコボコで得意、不得意な分野が極端。
京都大卒でありながら
発達障害。

日常生活の中で
たくさんの情報を読み解き
結論を導き出す。

それは、つまり
多動な自分、ADHDの自分、言語優位な自分、情報分析に特化した自分がケンカして、
勝った自分の主張が採用されるということ。

日によってその結論は全く逆のベクトルを示したりする。
結果、周囲や自分自身が混乱する。

いろんな自分が物事に
真摯に向き合うと
キャパを越えてしまい、
誤解をしたり、されたりで
ときどき、どうしようもなく
誰かのせいにしたり
自分を見失ってしまう。

そんなときは、お財布の中から一枚の押し花を取り出す。
そっと見つめて目を閉じる。
深呼吸する。

大丈夫。

大切なものは、いつだって目に見えない。

目を開けて、一息ついて
ちょっと笑顔を作ってみる。

もう、大丈夫。


カミちゃんのヒカリのタネ

自然の中にいる、ということは、何もしない、ということだ。
何もできない。

20〇〇年。学生だった当時、マレーシアのボルネオ島のエコツアーに参加した。

成田からクアラルンプールへ。
飛行機を降りて、吸った空気は日本のそれとは違っていて、生暖かくて湿っていた。
そこから三分の一くらい小さくなった飛行機に乗り換えて、サンダカンまで移動して、埃っぽいデコボコの道をマイクロバスで3時間移動した。
デコボコを通ると車は大きく上下して、私はシートの上で軽く跳ねた。

その村に続く道路はない。
道路はないけれど川があって、船で行くのだ。
茶色でゆったりとした流れの川を、細長いボートで上流へ移動してようやくたどり着く。

川から見える景色は、森であり、木であり、鳥もいたかもしれない。
日本とはあきらかに太陽の種類が違っていて、
こちらではアグレッシブに私の瞼や肌に光と熱を届けてくれる。

ここは、太陽との距離が近いのかもしれない。

ボートに乗って川を上るなんて、冒険家みたいで面白い!
と興奮したのはものの5分で
30分もすると
同じ景色と、太陽の光撃で、何もない時間をただ過ごすことになる。

モーター音と茶色い水しぶき。
心地よい風を受けて乗客の会話は自然ととだえ、
眠くなる。

ようやく着いたダガット村で私たちは2週間ホームステイする。

川から木の板が敷かれた通路があり、歩くたびに乾いたキシキシという音をたてる。

川沿いの高床式の家でホームステイする。
床の上にはテーブルクロスに使われるような花柄模様のビニールが敷かれていて
靴下であるくとすぐに黒くなるから
はだしで歩いた。

家の中は昼間でも薄暗い。
太陽が遮られると途端に涼しく、暗くなる。

ダガット村には電気が通っていない。
代わりに自家発電機がある。
水道も引かれていないので、雨水をろ過して煮沸させて飲む。
昔話じゃないけど、川で洗濯する。
洗濯板とものすごく泡立ちの良い粉洗剤を使って。

私をお世話してくれる家族はニコニコ笑ってくれる。
褐色の肌。大きな目。黒い髪。
子どもや男性は色褪せたTシャツにジーンズ。
女性は民族衣装にトドンというスカーフみたいので髪を覆っている人もいる。イスラム教のファッションだ。

家族同士の会話は、クニャクニャした言葉で早口で話す。
何を言っているかはもちろんわからない。

テレビもないので聞こえるのは、風の音と葉っぱの音と鳥の声と人の声。
ネットもつながらないので
することもない。
英語も通じないから、ジェスチャーで子どもやおばさんと会話する。

スコールが降ると、雨の音が全てをかき消す。
大きな葉っぱに大きな雨粒が落ちる音は派手だ。
湿り気を含んだ風が顔に当たる。
私は心を空にして雨音で頭の中を満たす。

日本ならば、温泉と浴衣。
湯気の立つ夕食と糊のきいたシーツにお布団があるけれど

ここはマレーシア。辺境の地。

川に面したベランダみたいなところに、板で外から見えないように囲ってある一角がある。そこには大きな水瓶みたいなのがあって、水を桶ですくって体と髪を洗う。流した水は板の隙間から川に落ちていく。
そこはトイレ兼シャワー室だった。排水も排泄物も川に落ちる仕組みになっていた。
用を足すとトイレットペーパーは使わずに、桶ですくった水でお尻を洗う。

人によっては、この環境は不衛生と感じるかもしれないけれど
私は全く気にならなかった。

そして夕食。
床に並べられたプラスチックのお皿。
細長いお米はちょっとポサポサしているけれど、一緒に盛ったおかずの汁を含むと丁度良い塩梅に美味しくなる。
「おいしい!」と言って親指を立てるとおばさんが嬉しそうに笑ってくれる。
絶品ではないけれど、ご飯とエビを味付けしたおかずと野菜炒めの夕食は美味しかった。

昼間はとても暑かったけれど、夜は涼しい。
へたれて湿ったマットレスに横になって
目を閉じる。
長距離を移動して疲れていた私は思いのほかリラックスして深く眠ることができた。

朝。
ニワトリの声が聞こえて、ここが日本じゃないことを思い出す。
おだやかでのんびりした朝だ。
ひんやりした空気が心地良い。


朝ご飯。
たくさん並べられたお皿の中で目を引いたのはバナナの天ぷらだ。
見た目はサツマイモの天ぷらにそっくりで
作り方も、天ぷらと一緒。
切ったバナナに衣をつけて揚げる。
食感も天ぷらのようにサクサクして美味しかった。

ゆっくりと流れる時間の中で
私達は身振り手振りでおしゃべりしたり
一緒に工芸品を作ったり
エビを獲ったりした。

ふと
自分の心が随分と静かなことに気が付いた。
思えば、日本ではいろんなことを考えてばかり。
授業のこと。
バイトのこと。
ゼミのこと。
嫌われない方法。
好かれる話し方。
言い訳。
自分を否定する気持ち。
自分を擁護する気持ち。

ここには何もない。
考えることも何もない。
なんて静かで、穏やかなんだ。
ザワザワと木の葉が風で揺れている。

ヒルとアリと少年と

何日目か忘れたけれど、私たちは森の動物を観察するツアーに出かけた。
熱帯雨林のジャングルの中を歩いて、運が良ければいろんな動物が見れたりするらしい。

道があるような、ないような。
雨でぬかるんだところは滑りやすく、
倒れた木を乗り越えたりしているうちに
いつの間にかTシャツは汗でびっしょり濡れていた。

そんなとき、事件が起きた。

後ろを歩いている人が教えてくれた。
首にヒルが付いていると。

見ると
私の血をたっぷり吸って
大きく膨れたヒルが
首にへばりついていた。

しまった。

ヒルに吸われないように
足元はガードしていたのに
上から襲ってくるなんて。

思わずヒルをつかんだ。
気持ち悪い!
首から引きはがして放り投げた。

ヒルに噛まれたところから血があふれてくる。
血はなかなか止まらなくて、私のTシャツは赤いシミをどんどん広げていった。

ヒルに吸われて、
血だらけのTシャツを着た私は
なかなかにグロテスクだったけれど
帰り道に更なる悲劇が起こった。

アリの巣を踏んでしまったのだ。

2cmはあろう、赤いアリの大群に襲われた。
アリは私の足によじ登り
私の皮膚を嚙みちぎる。

悲鳴を上げる。
痛い。
痛い!

やめて!

痛さとショックで
涙が出た。

周りの皆がアリを払ってくれたけれど
何ヶ所も何ヶ所も噛まれてしまった。

散々な目にあった私は
ホームステイの家に戻ると
マットレスに横になった。

血だらけのTシャツに
足はアリに噛まれたところが真っ赤になった。

熱を持ってジンジンと痛い。
足全体が真っ赤に腫れあがった。
病院もないし、薬もない。
冷やそうにも、川の水は感染症が怖い。
何もすることができない。

私はひとりぼっちで、痛さに耐えていた。
どんどん腫れあがる足に不安と恐怖を感じていた。


ヒルとアリに襲われた日本人の女の子がいる、
と噂になったのだろう。
男の子が様子を見に来てくれた。
手には一輪の花があった。

横になったままその花を受け取った。

道端によく咲いている花だ。
「ありがとう」

花を見つめているうちに、
不安と痛さでいっぱいだった心が

ふわっと軽く、温かくなった。

私が笑うと
男の子も安心したように笑った。

「ありがとう」
私はもう一度、言った。


2週間お世話になったダガット村で
私たちは全く言葉が通じないのに
お互い笑顔で
優しい気持ちと
温かい気持ちをやり取りして
心が通じ合っている気がした。

それは、確かなことだった。
言葉には表せないところで
私達の間には、
温かくて
優しいものが確かにあった。


ダガット村の子供達とカミちゃん


2023年、日本

大学を卒業して
就職して
転職して
結婚して
出産して
あわただしい毎日。

あわただしい毎日の中で
私はずっと迷子のようにさまよっていた。

いつも不安だった。


不安だから安心できる何かを探していた。

それは目に見えて確実なものが良い。
それを手に入れたくて
いろんなところをさまよった。

安心できる確実なもの。

「学歴」を手に入れた。
京都大卒。
でも、仕事ではミスが多かった。
ちょっとしたミスだった。
京都大卒、という周囲からの期待に応えなければならないのに。
こっそり仕事を持ち帰ってミスの処理をした。

誤解されることも多かった。
誤解を解こうと説明すると、
事細かにつらつらと説明することになり、相手から嫌われた。

「恋人」を手に入れた。
人と話すのは得意な方で
わりと簡単に恋人はできた。
だけど、切ないとか、愛とか、分からなかった。
誰とも心の底から理解し合えなかった。

「家庭」、「妻」、「母親」にもなった。
これで幸せになれるかと思ったのに
職場に復帰したら、
仕事と育児の両立ができなくて
キャパを越えてしまい、壊れてしまった。

主人にも隠していた「発達障害」の疑い。
自分のデコボコを証明するものが欲しくて
いくつかの病院を受診した。

そして「発達障害という診断名」を手に入れた。
診断名は自分を説明するのに便利な言葉だけど、
それで身の回りのトラブルがなくなるわけではなかった。


いろんなものを手に入れたけど
掴んだと思って安心したのは少しの間で
しばらくするとまた不安になって
これじゃない、とがっかりする。


失敗を繰り返すたびに
不安になる。
次の失敗が怖くなる。
自分が嫌になる。

この感情をどうにかしたい。

私を安心させてくれるものは
一体、どこにあるんだろう?

何を手に入れれば、安心できるんだろう?

考えつくして疲れた。

疲れた果てに
考えるのを一旦やめて


自分の求める幸せや安心感って
どんな感じだっけ?
って思ったとき
心に浮かんだ映像は

10年前に
ダガット村で男の子がくれた
あの時の花だった。


花に込められているもの

あの花には、男の子の温かい気持ちが込められていた。
その温かい気持ちは
学歴とか外見とか人にくっついているいろんなものに関係なく
私の真ん中にある心に向けて送ってくれたものだ。

私は、あの花を通して

私は人から温かい気持ちを受け取って良いこと、
私は大切な存在なんだってことを教えてもらった気がする。

何もなくても
何もできなくても
そのままの私で良い。

そのままの私でも大切で、
愛される存在なんだって
心で理解した。

男の子の気持ちが嬉しくて
帰国して
押し花にして
いつも使うお財布に入れいていたのだ。


男の子からもらった花

あぁ、私が欲しかったのって
目に見えない
温かい気持ちだったんだ。

やっと気付いた。

ごちゃごちゃと複雑に絡みあった目の前が
パッと開けた。

気持ちって、目に見えない。
だから怖かった。

でも、大丈夫。

この押し花がお守りになってくれる。

そして、もう一つ、気が付いた。


私にできる確実なこと


何にでも
私にでも
気持ちは込められるんだ。

例えば我が子をなでるこの手には
我が子を愛する気持ちがこもっていて

「いってらっしゃい」という声にも
家族の安全を願う気持ちを込めている。

仕事のメールにも
私は確実に
温かい気持ちを込めることができる。

私の言動が誤解を生んでも
その言動には
私の本当の気持ちがこもっている。

相手に伝わっても
伝わらなくても
私は
私の
本当の気持ちを込めることができる。

それは、とてもうれしいことだ。

誰かからの
温かい気持ちも
私は感じることができる。

それも、とてもうれしいことだ。

失敗の恐れもなく、
私が確実にできることは
気持ちを込めることだった!

私にも
確実にできることが
あるのがうれしい。

とても、簡単でうれしい。


不安定なこの世界で
確実なものは
この
目に見えない気持ちだった。


忘れやすいから、わたしは大切なものをすぐに見失う。
でも、大丈夫。

不安になったときは
お財布から押し花を取り出して
見つめる。

一番大切なこと
一番大切にしたいこと
この世界で一番確実なことを思い出す。

これから、私は
生涯をかけて
いろんなものに
温かい気持ちを込めたいと思っている。

この世界が
温かいもので満たされたら
それが
全部つながって一つの家族のようになれるから。

やりたいことが、
いっぱいある。

そこに全部、気持ちをのせるんだ。
そして、
みんなとつながる。

言葉じゃない世界で。




あとがき

最初にお話を受けたときは、私に書けるかな?と正直、自信がありませんでした。
でもカミちゃんとヒアリングを重ね、ヒカリのタネと花が見つかった時、「私が書くべき物語だな」と思いました。

物語の舞台となる電気も通っていないマレーシアの熱帯雨林にあるダガット村。
ダガット村ではないけれど、私もマレーシアの電気の通っていない川沿いの家に一泊した経験がありました。
現地の人が作るエビ料理やバナナの天ぷら(ピサンゴレン)も食べました。
ヒルに吸われないよう、ビクビクしながらジャングルの中を歩きました。

偶然にも私はカミちゃんと同じような経験をしたことがあったのです。
当時の経験を思い出しながら物語を書き進めました。
カミちゃんと私、カミちゃんの物語に出会うべくして出会ったような気持になりました。

マレーシアの田舎の空気感を物語から感じて頂けたら幸いです。


カミちゃんは、私の質問に辛抱強く付き合って下さり、メッセージのやり取りでは、いつも大らかで優しい気持ちを私に送ってくださいました。
メッセージを読むたびに、私の心は楽に軽くなりました。

マレーシアの「ありがとう」は「terima kasih(テリマカシ)」と言います。
”terima”は「受け取る」
”kasih”は「愛」という意味です。
「あなたの愛を受け取りました」=「ありがとう」なのです。
この「terima kasih(テリマカシ)」という言葉からも、今回の物語のテーマを感じました。

とてもやさしいカミちゃん。

カミちゃんは
努力を努力とも思わない。
努力を苦とも思わない。
労をいとわない。
才能レベルのひたむきさをカミちゃんから感じました。

とにかく、カミちゃんが大好きです。

私はカミちゃんを、これからも
ずっと
応援します。


最後までお読みくださりありがとうございました。


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