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シリア-2- ダマスカス

写真 : ダマスカス中心、ティシュリーン公園にひるがえるシリア国旗(2012年3月撮影)

2012年3月、シリアの首都ダマスカスに降り立ちました。空港の荷物検査では、「何の目的で来たんだ?」としつこく聞かれました。僕は「観光です」と答えました。1時間ほど、足止めを食らいましたが、無事に入国できました。初めての中東です。ダマスカスは戦争をしている雰囲気はまったくありませんでした。拍子抜けするほど、平和でした。

カシオン山からダマスカスが一望できる(2012年3月)

1ドルは80シリアポンド。民衆蜂起が起きる以前は50シリアポンドだったので、通貨が少し下落しているようでした。僕は市内をうろうろと歩き回りました。特に戦争の気配が感じられません。ただ、政治の話題をふると、とてもフレンドリーだったシリア人が途端に冷たくなります。口を閉ざします。

シリアには秘密警察がいます。アラビア語ではムハーバラートと呼ばれ、アサド政権に害をなす反乱分子の監視、拘束、拷問、投獄などを任務として、彼らは市民に紛れて、町中に溶け込んでいます。特に情勢が緊迫している今、誰もがムハーバラートの存在を警戒していました。これでは、取材になりません。通常であれば、情報を得るために、地元の新聞社や通信社に顔を出します。でも、シリアでは全てのメディアがアサド政権にベッタリです。観光ビザでシリアに潜り込んだことがバレたら、取材どころではありません。

・ヌスラ戦線の台頭

過去の取材を通じて、何かの糸口が見つかるときは、たいていは偶然の出会いです。何もできないからと言って、何も行動しなければ前に進みません。シリアではメディアを頼れない、市民もムハーバラートを恐れて本音を口にしない、ダマスカスは見た限りでは平和そうで何も起きない。でも、海外のニュースでは、シリア各地で戦争が起きていると報じられています。

転機が訪れたのは、シリアに留学して3年が経つという日本人との出会いでした。偶然、ネットカフェで知り合い、意気投合しました。彼には僕がジャーナリストであることを正直に伝えました。彼との会話は日本語なので、周りにムハーバラートがいたとしても、言葉が理解できないため、気にすることなくシリア情勢について話ができました。彼は民衆蜂起以前のシリアと以後のシリアを見ているので、その違いを比較して、僕に教えてくれました。彼曰く、「とんでもないことが今、シリアで起きているんだよ!」と熱弁されました。僕が彼の言葉を理解するのは、少しあとになってからです。

ヌスラ戦線がシリアの戦争に登場する

ここで勢力図に戻ります。僕がシリアに初めて訪れたのは2012年の3月です。この時点で、ヌスラ戦線は産声を上げたばかりでした。彼らは自由シリア軍とは距離を置きながらも、大半がシリア人で構成されていました。ただ、シリアが混乱する以前から、イラク戦争に参加してアメリカ軍を相手に戦っていた猛者が総司令官(アブー・ムハンマド・ジャウラーニー)として君臨しています。イスラム教に関しては、シャリーア(イスラム法)の導入を推し進めていました。

ヌスラ戦線、本来、世俗的で民主的な改革を求める自由シリア軍とは水と油の関係でありながらも、アサド政権打倒という点では、両者は共通していました。それでも、この時点では、互いに共闘するほどの関係性はありません。僕がダマスカス滞在中の出来事になります。大きな爆発がありました。ホテルが揺れるほどの爆風で、すぐに外に出ると、少し先で黒煙が上がっています。治安を担当する役所が狙われ、死者は27人、負傷者は100人を超えていました。僕が現場に駆け付けると、消防車や救急車でごった返していました。

テロが起きたダマスカスの治安を担当する役所

この犯行を政府系のメディアは「ヌスラ戦線」だと報じていました。実際はどうなのか。実はアサド政権が自作自演でテロを演出して、反体制派を貶めようとしたのではないかと、先ほどチラッと紹介した日本人の彼は僕にこっそりと教えてくれました。このテロの実行犯が誰なのか、その特定は難しい(犯行声明が出ていない)ですが、ヌスラ戦線がアサド政権に牙を向いていることは確かでした。その戦法は自由シリア軍とは異なり、自爆テロや自動車爆弾といった過激な手法が用いられていました。

素顔を見られたくないのかスカーフで顔を覆い隠すヌスラ戦線(2012年10月)

少し先の話になりますが、僕がヌスラ戦線を直接目にしたのは、2度目のシリアの取材(2012年10月)でした。アレッポの病院を訪れていたとき、もの凄い勢いでピックアップトラックがブレーキ全開で横付けされました。驚いて外に飛び出すと、荷台には重火器が装備され、その横には血だらけの男性が横たわっています。覆面をした戦闘員がその負傷した男性を病院の前で下ろすと、そのまま立ち去っていきました。

「ラー・イラーハ・イッラッラー・ムハンマドゥッラスールッラー」と書かれた黒い旗を掲げて、その戦闘員は大声で「アッラーフ・アクバル(神は偉大だ)」と叫んでいました。これが噂に聞く、ヌスラ戦線か。興奮して思わず、大声で「アッサラーム・アライクム!」と声をかけると、残念ながら、ファンサービスもなく、ガン無視されました。彼らが去った後、病院の看護師が僕につぶやきました。

「あいつらが、ヌスラ戦線だ。めちゃくちゃ勇敢でいつも最前線でアサドと戦っている。ただ、尊敬はするが、俺はあまり好きになれない。シリア人のためというより、あいつらの目的のために戦っているんだ」

このとき(2012年10月)、自由シリア軍とヌスラ戦線は共闘関係にありました。しかし、のちに、自由シリア軍とヌスラ戦線は袂を分かちます。この両者の関係が、反体制派を弱体化させ、国際社会からの支援を遠ざけ、それがアサド政権の追い風となり、さらにイスラム国の登場で、シリアは混迷を極めます。ウクライナのように国のトップが、しっかりと軍をまとめる力があれば、国際社会からの支援も得られます。その点、シリアは違いました。シリア国内で起きていることであり、それは世界の秩序に何ら影響を及ぼさない、苦しむのはシリア人だけだ、だから、アサドの殺戮は世界でも容認され続けました。

クルド人が勢力図に登場します。クルド人も2011年初頭からアサド政権に対する抗議の声を上げていました。前回の記事で紹介した勢力図、「民衆」という枠にはクルド人も含まれています。ただ、今回は分けました。なぜなら、自由シリア軍が結成されると、彼らはクルド人を徐々に敵視するようになります。詳しい話は端折りますが、クルド人は自由シリア軍とは異なる武装組織「YPG(人民防衛隊)」を結成しています。彼らは彼らの目指すべき革命に向かって、2012年頃から活動を始めました。ということで、別枠にクルド人を表記しました。

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