ワーパパと大衆の反逆

こんにちは。
3人娘を育てている、ベンチャー企業のCTOです。


大衆の反逆

「大衆の反逆」は、スペインの哲学者のオルテガが1930年に出版した著作です。

当時、イタリア・ドイツを中心としてファシズムが台頭し始めた時期です。
また一方、社会主義が勢力を伸ばしていた時期でもあります。
1922年にムッソリーニ政権が樹立。
同年、ソ連が成立。
1933年にヒトラーがドイツ首相に就任。

そのような時代感の中で「大衆の反逆」は書かれました。

スペインは王政かつ軍事独裁政権でしたが、1930年に軍部のトップが死去、1931年に国王が退位・亡命し、共和制となりました。
オルテガは、その共和制の中で議員として活動します。

オルテガは、独裁に対する強い反発を持っていたようです。
ファシズムや共産主義による独裁を強く批判しています。

この「大衆の反逆」では、社会における大衆による権力への行動について記述しています。

今回も、100分de名著シリーズの解説書を拝読しました。

大衆

オルテガによると、大衆とは「根無し草」になった人々を指します。

ここで「トポス」という概念があります。
これはギリシャ語で「場所」を意味する言葉です。
トポスは、自分が意味ある存在として位置づけられる拠り所のような場所を指します。

このトポスを持たない人が大衆です。
つまり、自分が依って立つ場所がなく、誰が誰なのかの区別がつかない、個性を失った群衆を、オルテガは「大衆」と呼びました。

この「大衆」は、庶民とは意味が異なります。
裕福さや生まれや血筋とは関係がなく、トポスの有無や精神性によって大衆かどうかが決まります。
自分の居場所持ち、社会での役割を認識し、その役割を果たすための行動や思考をする人は、大衆ではないと言います。

そして大衆は、たやすく熱狂に流される危険性をはらんでいると、オルテガは言います。

大衆は、医療の発達などにより人口が増え、産業革命等により都市部に人が流入していく中で増えてきたそうです。
大衆は、まさにトポスを捨ててきた人たちでもあります。

平均人

オルテガは「大衆とは平均人である」と言います。
平均人の特徴は、他人の意見に耳を傾けないこと、そして、皆と同じであることに喜びを見出す人だそうです。

大衆とは、みずからを、特別な理由によってーーーよいとも悪いともーーー評価しようとせず、自分が「みんなと同じ」だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。

大衆の反逆

そして、このような大衆が権力を持った時に、秀でた個性を積極的に抑圧するようなことが起きるとオルテガは言います。
平等という名の元に、平均化が行われます。

慢心した坊っちゃん

オルテガは、理性を疑う理性こそ、本当の理性だと考えました。
高貴な人間は、自分が不完全であることを知っています。

しかし、愚か者は自分のことを疑いません。
「愚か」とは、知識がないといった意味ではなく、自己過信をすることを指します。
自らの能力を過信してなんでもできると勘違いします。

その根拠は何かと言うと「数が多い」という一点のみです。
多数派ということにすがって生きている人たちを「慢心した坊っちゃん」とオルテガは呼びました。
そしてその「慢心した坊っちゃん」こそが大衆であり、数を頼りにしたい放題のことをするとオルテガは言います。

特に、専門家ほど大衆になるといいます。
自分の専門のことしか知らない人が、自分を知者だと思うがゆえに、物事を単純化・単一化して見てしまい、自分が不完全であることが見えなくなる。

本当の知者は、不完全であることを知るものです。
知らないことに対して謙虚になるといった知者が少なくなったとオルテガは書いています。

リベラル

オルテガは著書の中で「リベラル」について語ります。

リベラルというと、左派としての保守、右派としてのリベラル、のように対立する概念として捉えられがちです。
オルテガは、そのようにリベラルを捉えていません。

「リベラル」という言葉は、もともと「寛容」という意味から発生したものだそうです。
その概念の期限は、欧州の三十年戦争にあるとされているそうです。
三十年戦争はプロテスタントとカトリックの宗教戦争であり、異なる価値観を持ったものたちの間の戦争です。
この戦争の後にウェストファリア条約が締結され、領主の宗教の自由が実現されますが、そのなかで価値観が異なるものの存在を認め、多様性に対して寛容になろうという考えた広がったそうです。
これがリベラルの出発点だそうです。

そしてこれを言い換えると「あなたの信仰の自由は認める。そのかわり私の信仰の自由を保証してほしい。」という意味合いになり、そこからリベラルが「寛容」だけでなく「自由」を包含する概念となっていったそうです。

多数派が力をもっていても、リベラルの原則としては、少数の人間に対して寛容であり、自由を保証するということとなります。

敵とともに生きる

敵とともに生きる!
反対者とともに統治する!
こんな気持ちのやさしさは、もう理解しがたくなりはじめていないだろうか。

大衆の反逆

大衆は、自分と異なる思想の人間を排除しようとしているとオルテガは言います。

大衆かどうかは生まれで決まるものではないと先述しましたが、本物の「貴族」は生まれでは無いと言います。
オルテガにとっての「貴族」とは、反対者や敵対者とともに統治をしていこうとする人間であり、勇気・責任感を持つ人間のことを指します。
他社と共存しながら、自分の役割を果たそうとしているものこそが、「貴族」であると言います。

超民主主義

大衆が自由を求めるなかで、伝統や慣習を破壊する行為を行います。
秩序や規範といったものは、過去からの伝統や慣習によってなりたっていますが、大衆はそれを自分達にとっての自由に対する阻害要因と捉えます。
そして、それらの伝統や慣習を破壊することが、自由への近道だと考えます。

しかしながら、伝統や慣習は「自由を担保してきた秩序」であるとオルテガは言います。
自由を求めるために自由のための秩序を破壊していると。
そのような行為を、オルテガは「パンを求めてパン屋を破壊する」という例えで説明します。

このような秩序を無視して、多数派ということだけに依拠して社会を支配する状況を「超民主主義」とオルテガは呼びました。

この「超民主主義」は、トポスを捨てたことが原因で発生しているといいます。
自分自身が意味づけられた意味、自分の依って立つところがトポスです。
それを持たないということは、先人からの知恵、過去から保たれた秩序を共有できていないことになります。

あるべき国家像

この超民主主義の状態では、大衆は暴力によって世界を支配しようとします。
自分たちの言うことを聞かない少数者に暴力をふるって従わせます。
オルテガはその代表としてファシズムや共産主義をあげて批判しています。

オルテガにとって、国家の本来のあり方は何だったのか。
それは、他者への寛容を原則としたリベラリズムと、自生的な秩序によって均衡がとれた状態であることだったそうです。
そして、他者と合意形成をしながら、自分たちで秩序をつくっていく意思が大切だと述べます。

そして、そのような状態を保つには、国家と個人の間にある中間的な領域が必要であるといいます。

ワーパパと大衆の反逆

オルテガは、依って立つ場所というトポスの重要性を述べています。
それは、国家と個人との中間的な領域とも言えると思います。
地域のコミュニティ、オンライン上のコミュニティ、友達同士の輪、趣味のサークルなども、トポスに該当すると思います。

そのような領域において大衆とならず、数に埋没したり数による万能感を得たりせず、その社会における自分の役割を見つけていくということが大切なように感じます。

このとき、たった一つの社会で生活するよりは、複数の社会の中で生活するほうがよさそうに思えます。
そうすることで多様性を知り、多様性を許容するようなリベラリズムを持つことができると思います。

これからの時代、多様性が求められる時代になっていくように思えます。
子供の時代は、それが加速していると仮定すると、多様性に対する寛容さを親が見せていく必要があるのではないかと思います。


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