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21歳、夏の思い出

久しぶりにひとりで軽井沢に行ったら思い出した、とりとめのない昔話です。

大学4年の夏、私は軽井沢にいた。

熱心に打ち込んでいたバイト先のレストランが閉店してしまい、別のバイトをしながらもいまひとつ身が入っていなかった私に、母がそのアルバイトを見つけてきたのだった。

「夏休みの間だけ、軽井沢で働いてみたら?住み込みってなってるけど、ここならうちの別荘からも通えるわよ」

どこでどんな面接をしたのか、どういう経緯で採用されたのか、まるで憶えていない。
ともかく母の思惑どおりに、私は両親が所有する軽井沢の別荘で寝起きしながら、近くの飲食店でアルバイトすることになった。

私が働くことになったのは、ややカジュアルなフレンチレストランだった。
いかにも軽井沢らしいロッジ風建物の2階にあり、礼拝堂のような高い天井をすがすがしい風が吹き抜ける。夏は使わないが冬用の暖炉も設置されていて、それがなんとも暖かな、なつかしい雰囲気を醸し出していた。

スタッフのほとんどは併設の寮で寝起きしていたが、私は別荘からの「通い」だった。10時ごろに別荘を出て、30分近くのんびりとチャリを漕いで行く。もっと早く着けなくはないのだけど、日中の軽井沢は太陽が近く、じりじりと暑い。いちど全力疾走したら職場に着いてから汗が止まらなくなってしまって、それからはゆるやかに走っていくようになった。

服装は白いシャツに黒いパンツ。更衣室で黒のサロンを巻き、髪はひっつめにする。
掃除(どの仕事も好きだったが、男子トイレの掃除だけは嫌いだった)、簡単なミーティングを経てランチ営業。

大忙しのランチが終わると、みんなでまかないを食べる。キッチンの人たちが作ってくれるまかないと、余ったらもらえる自家製パンが、毎日の楽しみだった。
(そのレストランが発酵バターを提供していたせいで、おいしいパンと発酵バター、の組み合わせに目覚めてしまった)
ランチに使っていた紙製のテーブルクロスを片付け、しみひとつない真っ白のクロスを引き直してディナーが始まる。

シェフはこだわりが強いけれど優しい人で、いろいろなことを教えてくれた。短期バイトの学生にも、熱心に自分のこだわりを伝えてくれる人だった。
シェフの作る料理が美味しかったから、いつも自信満々でお客様に提供できた。料理について訊かれてもちゃんと説明できるように、できる限りのことを覚えた。
夏休みが終わる頃、シェフから
「いままでに来た夏バイトさんの中で、あなたがいちばん優秀でした」
と言っていただいた嬉しさを未だに忘れられない。

休暇で来ている人たちばかりだから、お客さんもみんな機嫌がよく、懐事情も豊かで、優しかった。お勧めするとたいていの人はそれを頼んでくれる。
「きょう肉が少ないから、メインで魚をお勧めして!魚たくさん取ってくれたら、美味しいデザートあげるから!」
とキッチンから指示が出て魚をお勧めしまくったら、ほぼ全てのお客さんが素直に魚をオーダーしてくださって、その日の営業終わりは逆に肉が余ったのだった。
ちなみにキッチンの人たちはちゃんと約束を守ってくれて、後日プライベートで食べに行ったら、通常の3倍くらいデザートが出てきた。



帰り道はすっかり暗く、木々に囲まれて何も見えない道を自転車でひた走る。ときどき通る車のヘッドライトだけが異様に眩しい。

夜があんなに暗いことも、満月の夜はほんとうに明るいということも、都会育ちの私はあの夏に初めて知った。

深い闇の中を走るのに、不思議と怖くはなかった。
軽井沢の夜は涼しい。寒いくらいだ。
昼間は要らなかった長袖のパーカーを羽織り、毎日、うきうきと自転車を飛ばした。
きょうも頑張った。ただそれだけ、単純な労働の喜びに満ちて帰路を走っていた。
木々と土の匂いがする夏の暗闇は優しく、親しかった。

充実した日々の中で、唯一困るのはネットが見られないことだった。
携帯電話で、通話やメールはできる。しかしネットの情報を見るにはまだまだPCが必要な時代だった。
週に一度の休み、必ず駅近くのカフェに行った。山小屋風のかわいらしいカフェで、そこではPCが使えた。当時細々とやっていた趣味のブログを更新し、コメントを確認して返信した。

別荘の近くにはATMなんてなかったから、郵便局でお金を下ろし、旧軽井沢やアウトレットをぶらぶらして帰ってくるのが休日のルーティンだった。

お店で仲良くなった同僚が別荘へ遊びにきたこともある。旧軽井沢で買ってきたケーキを食べ、彼女が持参した『スーパーサイズ・ミー』という映画を観た。マクドナルドのL(LLだったかもしれない)セットを毎日3食食べ続けたらどうなるか、というドキュメンタリーで、もちろん体重も見た目も分かりやすく太り不健康になるのだが、観終わったあと言い合った感想は「…マック食べたい…」だった。

時折、母やその友人が泊まりにきた。
両親の別荘なのだから当たり前なのだが、誰かが来るたび、「テリトリーを荒らされた」というような気持ちになった。

母たちが帰って、ひとりになると心底ほっとした。

お客さんが多い夏の間、そこで働く仲間たちはほとんど家族みたいなものだった。「通い」とはいえ、私も生活のほとんどを彼らと共にしていた。
軽井沢のコンビニは23時で閉まる。誰かがコンビニに行きたいと言い出すと、リーダー的存在であるキッチンの信濃さん(仮名)が車を出してくれて、閉店間際のコンビニにみんなで駆け込んだ。缶ビールとかポテチとか、ジャンクなものを買うのが異様に楽しかった。

信濃さんを意識するようになったのは何がきっかけだったか、思い出せない。
まかないがオムライスだったとき、ケチャップ味のチキンライスが苦手だと言ったら私の分だけケチャップ抜きのバターライスにしてくれたことだろうか。それとも、私がその前に失恋した大学の先輩に少しだけ似ていたからだろうか。
まあ、若かったし、きっかけなんて何でもよかった。たぶん毎夏、似たようなことが起きていたんだろう。



どんな流れだったか、閉店後の照明を落とした店内で信濃さんと話をしていて、そのままキスをした。

帰りが遅くなったからと彼が車で私を別荘まで送ってくれることはそれまでにもあって、多分その日も、そういうささいな理由で彼はうちに来た。というか、来るように私が仕向けた。

その日の朝には何も予期していなかったし、バイト中は白いシャツを着るから、私が身につけていたのはなんの色気もないベージュのブラジャーで、それが少し恥ずかしかった。

「舐めて」と言われて、初めて男性のそれを口にした。「歯を立てたら痛いから駄目」と言われた(以来20年間、私は忠実に彼の言いつけを守り、何があろうとも歯を立てない)。
経験がほとんどなかったから、良かったとかそうでもなかったとかの感想を抱く余裕もなく、信濃さんとの行為に関して憶えているのはその教えだけである。

夏の間に何度かそんなことがあり、夏休みが終わって、私は東京に戻った。
秋の行楽シーズンに2度ほどヘルプで入ったが、信濃さんとはもちろんそれきりになった。

その後、信濃さんは独立してレストランを持ち(Facebookで知った)、私たちが働いていたお店は親会社の意向で閉店した。
いま軽井沢に行っても、あのお店はもうない。美味しくて素敵なお店だったのに。

ほんの1ヶ月半だったけれど、軽井沢に行くとあの夏のことを思い出す。
当時は大して意識していなかったけど、いま思えばあれは、社会人になる前の最後の夏休みだったのだ。

信濃さんも、シェフも、ほかの人たちも、元気で幸せでいてほしいなと思う。

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