記憶の行方S9 小さな出来事 眼鏡橋

眼鏡橋を渡り、川を眺めた。父の祖父は爆心地から少し離れた高台から焼け野原を見つめて、ぷすぷすと焼ける土と火の粉が舞い上がった街が何度も雨に流され、黒い地面になった頃、しばらくネジを拾い集めて、友人と自転車屋を開いていたという。そのうちに、リヤカーに豆腐や野菜、漬け物、ときどき卵を乗せて毎日練り歩き野菜を売り歩いている身長157センチほどのきっぷのいい女に出会う。それが、父の祖母である。高祖父は、自転車屋に来る痩せた学生を見て、お腹一杯食べられて、勉学に励んで、新しい未来を作れるようにと、茶碗蒸し屋を始めたそうだ。

店の間口は、木製で、横への引き戸をガラッガラッと開けると、急な階段があり、カンカン!と、墨で数字が書いてある板を歌舞伎の演目が始まる前みたいに2つ、よよっと鳴らして、厨房にお客さんが来たことを知らせる。

「いらっしゃい!2名様ご来店!」

はっぴを着た女将が威勢よく階段上の店員に声かけた。

「あいよ!」

足袋を履いた店員さんは、お膳を二つ用意していた。

靴を脱いで、一段、檜の段差をあがれば、さっきカンカンっと叩いた番号札を1枚渡され、その番号札と同じ靴箱に入れるシステムになっていた。番号札は、その日の来客の順番だ。

父は、「研修」と称して、よくいろんな店のご飯を食べに行っていた。わたしはそれに同行し、美味しいか美味しくないか、聞かれる。時々、何が効き味になっているのか、聞かれ、何の出汁が効いているのか、帰りの車の中で答えていた。銀座のカウンターのみの寿司屋や築地付近の天ぷら屋さん、福岡の屋台のラーメン屋、神田のカレー屋、すき焼き、資生堂パーラーなど、いろんなお店に入って食べる。そして、銀行窓口で話している姿を見ていなさい、と、カウンターで話している隣で話を聞き、店員の対応を見なさいと言われ、感じのいい人だと思った人の行動や表情は、どんな風だったか、また、帰りの車の中で聞かれた。

初めて、その茶碗蒸し屋に父と食べに行った日は「57」の番号札を渡された。玄関先から見上げて、奥行きが広がる。お客さんの話し声や厨房から聞こえるまな板と包丁がトントンと食材が切れる音の景色は、こどもながらに、人を迎え入れる風景は、活気があり、気持ちの良い風景だと思っていた。

20段ほどの階段を登っていくと、階段の隙間から、一階のお座敷奥にもお膳で食べている人が見えた。

「おじいちゃんが開いた店だよ」

父は、笑って手を引いた。

わたしは、玄関先から2階までの階段の奥行きの広さを見上げて驚いた。

「えーー?お父さんのおじいちゃん」

父にも祖父が存在する。人間が生きる時間はとても永いものなのだ、と、階段の奥行きを眺めて感じていた。

仰け反るほど天井は高かった。

階段を上がりきって2階へ到着すると

「2名様のご来店!」

店員さんは、こどものわたしの目線まで座って、座る位置を手先で示してくれた。曽孫が来たと厨房はわさわさとしていたそうだが、「こどもは、未来の宝だ。食べさせなさい。」それが、高祖父の口癖だったらしく、店員さんは、親子の来店を歓迎していた。

座った場所からは、2階席の畳で、向かい合わせにお膳を並べて食べる人が3〜4人、5〜6人、2人、……、席はランダムに作られて、50名ほどの食べる人の顔が見えた。窓からは、ほんのり潮風が入り、遠くで船が出す汽笛が響いていた。

茶碗蒸しは、ラーメン鉢よりひとまわり小さいお椀で出てきた。押し寿司は、おまけと小皿に松の木をあしらった型抜きのチラシ寿司が出てきた。最後に、季節の果物と温かい緑茶が出された。

帰りは、「いってらっしゃい。また、おいでください。」と、声を掛けられた。

我が家には、いろんな人がご飯を食べに来るものなんだ、と、思った。






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