記憶の行方S21 小さな出来事-蝉の声

「おかん、日記見てもうた。」

「あー、あれね。全部嘘よ。どう?面白い?よく、ありそうな話よね。」

母は、青白い顔をして、病室で笑っていた。

「うーん、よくわからないよ。おれは、不自由に育ってないからさ。案外、まともに育ったつもりなんだけど。」

「生意気なこと言うようになったね。」

母がよく眺めていた床の間の掛け軸の前に置いてあった筆入れには、Kさんと僕と母の写真が一枚と、もう一つ、僕が産まれた時の写真が、写真盾に入っていた。

写真盾の裏を開けてみたら、僕の知らない人の写真が一枚と一枚のチケットが入っていた。17年前の飛行機のチケットだった。海外に行くつもりだったのか、国際線の切符は切られていなかった。

Kさんに写真を見せたが知らない、と言う。

誰も知らない人がいるのだろうか、僕はその写真の手を見て、何か変えられないものを見た気がしていた。その写真の手は、僕の手や指の形とよく似ていた。

(おかん、それ、全部、嘘なのか?)

「本当のことは、自分で決めるのよ。

例えば、かき氷を食べたあと、鼻がキーンと痛くなる時、あるじゃない?あの時、鼻の下を伸ばすのよ。そしたら、痛くないから。」

母はそれ以上何も言わなかった。

いつも、そうだ、僕は

「自分で決めなさいよ。」

と、言われ続けた。

蝉の声は、近頃、聞いていない。

「おかん、さすがにそれ、嘘やろ。鼻の下伸ばしたって、鼻、キーンはなおらないよ。」

ホーメイを習った人と、よく、蝉のマネしたな。僕は、蝉の鳴き声から倍音を学んだんだな。

蝉はまだ、鳴いている。

夏は終わろうとしていた。






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