マガジンのカバー画像

エッセイ(家族編)

13
父との思い出です。今年33回忌を迎え、色々思い出しているうちに、書き留めておこうと思いました。もちろん他の家族も登場しますが、ほぼ父のことです。
運営しているクリエイター

記事一覧

O mio babbino caro(私のお父さま)⑫

O mio babbino caro(私のお父さま)⑫

父が亡くなった時、私は29歳だった。

遺言めいたものによって、
また「弾かされた」事が嬉しかった。
ダメ出ししてるだろうなぁと思いながら弾いた。

振り返ってみれば、ここから、
改めて自分の人生が始まった気がする。

「叱られるから弾く」やらされていた
人生。

それがいつの間にか自分のために
弾き続け、仕事に繋がって行った。

願った以上に、娘(私)はあちこちで弾くチャンスに恵まれ、
きっと父

もっとみる
O mio babbino caro(私のお父さま)⑪

O mio babbino caro(私のお父さま)⑪

そんなことが病院で起きていたなんて、
これっぽっちも想像だにせず、
私はその日その時間、
夫の所属するオーケストラの定期演奏会を聴きに行っていた。

クラリネットの名手、ザビーネマイヤーのモーツァルトのコンチェルト。
ザビーネマイヤーと夫が共演するなんて、全く夢みたいだった。
崇高で、美しさの極み、ホール全体を包み込むような豊かな音。
私は1音たりとも聴き逃すまいと集中し、夢心地で聴いていた。

もっとみる
O mio babbino caro(私のお父さま)⑩

O mio babbino caro(私のお父さま)⑩

娘の結婚式を目標に、父はさらに少しずつ元気を取り戻していった。

私たちの結婚は結納も行わず、
地元では親戚だけ。
大阪では立食パーティー式の
人前結婚式にした。

関西好きの父は、大阪での結婚式の後の京都奈良の旅行をとても楽しみにしていた。
たぶん…父にとっては、そちらの方がメインだったかも…

大阪でのパーティー当日。
飛行機が遅れて両親は遅刻し、
新郎新婦の入場と同時に両親も大広間に入りかけ

もっとみる
O mio babbino caro(私のお父さま)⑨

O mio babbino caro(私のお父さま)⑨

実家に戻って1年間だけ、
両親と暮らすことになった。

私は、2回生の時に知り合った先輩(今の夫)と、研究科(2年間)を卒業したら結婚する約束をしていた。

付き合い始めた頃から両親には彼の話をしていた。
意外にもあっさり認めてくれたけど、
本当のところはどう思っていたのかわからない。

「とりあえずは1年間ね。」

遠距離恋愛になってしまったので、
“会いたい気持ちが愛育てるのさ〜♪”と同時に、

もっとみる
O mio babbino caro(私のお父さま)⑧

O mio babbino caro(私のお父さま)⑧

父はあまりピアノの話しをしなくなった。

身体に自信がなくなった父は、
途端にお金のことを心配しはじめた。

当然、編入の話は無くなった。

短大の2年間では、音楽はおおよその基礎の知識を詰め込むだけ。

2回生になり、私の音楽に対する思いは入学前とは180度変わっていた。

もっと勉強したい。
編入がダメなら、研究科に残りたい
と思った。

父は入院し、手術を受けることになった。

私は、卒業演

もっとみる
O mio babbino caro(私のお父さま)⑦

O mio babbino caro(私のお父さま)⑦

音大は、当然だが音楽を勉強する。
一般教養の授業はあるけれど、苦手な理数は全く無い。

短大だったが、音楽の授業はほとんど学部の校舎で行われ、
先生方も学部と同じ。
分け隔てない授業。

あちこちからリサイタルみたいな凄い演奏が聴こえてくる。

世界で活躍する著名な演奏家や巨匠が、公開授業にやってきた。
楽器は違うけど、普通に聴講できた。
とても良い時代だったと思う。

私は様々なところから刺激を

もっとみる
O mio babbino caro(私のお父さま)⑥

O mio babbino caro(私のお父さま)⑥

入試を受けるため、父と上京した。
初めての東京。

東京までまだ新幹線の無かった頃。
上野まで特急で片道、ゆうに6時間半かかった。

行きの電車の中で父はずっと戦争の頃の話をしていた。

なぜ満洲に行ったか。
満洲ではどんな生活だったか。
引き上げてきてからどんなことをしていたのか。

今だったらとっても興味深く聞いたのに、あの時はただただうるさかった。
頼むから静かに景色を見せてくれ!
そう思っ

もっとみる
O mio babbino caro(私のお父さま)⑤

O mio babbino caro(私のお父さま)⑤

高校生にもなると、弾く曲も難しくなり、怠けている暇もなくなった。

だから、父は以前のように怒ることはなくなっていた。

私は弾くことだけでなく、ソルフェージュや聴音も好きだった。

通っていたピアノ教室(音大の分室)に、本校(大学)から教授が来てくださり、時々ソルフェージュのレッスンをしてくださった。
そして私に東京に来ることを勧めてくださった。
もちろん、父は大喜びした。

未知の土地、東京。

もっとみる
O mio babbino caro(私のお父さま)④

O mio babbino caro(私のお父さま)④

その頃には、私もショパンだリストだと、いわゆる名曲が弾けるようになっていた。

中3になり、他の皆んなと学力の差がはっきりしてくると、志望高校も自然に決まってくる。

私は勉強が嫌いだったので、あんまり勉強しなくても入れる高校に入学し、
卒業したらすぐに就職したかった。
そして早く結婚して家を出たかった。
だから、商業科が併設されている高校の普通科を目指すことにした。

ピアノ教室の同学年は受験の

もっとみる
O mio babbino caro(私のお父さま)③

O mio babbino caro(私のお父さま)③

怠けものの私であったが、
高学年では何度かコンクールにも挑戦し、予選は通過した。
本選で賞を頂いたりもした。

緻密に練習ができるタイプではないが、手が大きかったことと、
たぶんピアノが好きだった。

練習は大嫌いだけど、
こう弾きたい!
というのは子どもながらにしっかりあったと思う。

時々、理想が高すぎて苦しかったりもしたけれど。

父は、戦争が終わり満州から引き上げてきてから、自身の身体が弱

もっとみる
O mio babbino caro(私のお父さま)②

O mio babbino caro(私のお父さま)②

小学生になって間もなく、
父に「ピアノが好きかヴァイオリンが好きか」と聞かれ、
オルガンで大変な思いをしているのにまた新しい楽器は嫌だと思い、「ピアノ!」と言った。

後で聞いた話だが、
私がよく風邪をひいて熱を出すのは、集中力が無いからと思ったらしく、集中力をつけるために楽器をやらせようと思ったのだそうだ。

ほどなく我が家にアップライトピアノがやってきた。

年長の途中で、一軒家に引っ越し、

もっとみる
O mio babbino caro(私のお父さま)①

O mio babbino caro(私のお父さま)①

歌のレッスンでOmio babbino caro
を歌うことになった。

私のお父さま。
それは、私のピアノ人生のレールを敷いてくれた人。

『父』を思い出す時、ニコニコしている顔はほとんど思い出せない。

物心ついた頃から私はいつも怒られていた。
「叱る」、じゃなくて「怒る」。

私が2歳半頃、麻疹から髄膜炎を起こし、入院したことがあった。

当時は脳膜炎と言っていて、
高熱が続いたため、父は後

もっとみる
爪切り

爪切り

今朝、爪を切りながら思い出した。

6歳からピアノを始めて以来、
爪切りは相棒。
どれでも良いわけではありません。

今使っているものは
音大受験の前日に買ってもらったもの。
40年以上も使っていることになる?!
もう切れ味も悪くなっているでしょう。
けれど、使い心地が良いのです。

受験のその日まで『東京』に出たことのなかった私。

テレビで見たり聞いたりするだけだった『東京』。

受験が終わる

もっとみる