見出し画像

【試し読み】那智×石田幸丸 『Let me see.』

文学フリマ東京38にて頒布予定の合同誌「Quantum」から、編集部員が二人一組で前後半に分かれて「共作」を行った作品について、前半の一部を試し読みとして公開します。続きはぜひ雑誌をお求めください。


那智×石田幸丸 『Let me see.』


目の周りを覆っているものを外してください。


ハイフネーションの揺れについて指摘をあげるべきか判断するのに午後の二時間を費やした。ゲラに“biodegradability”という言葉が出てきて、その後に“bio-degradability”という言葉が出てきた。というよりは“bio-degradability”という言葉を目にしたときに初めて、少し前に“biodegradability”という言葉を目にしていたことに気づいた。脳みそは時々そんなふうに働く。何の専門家でもないけど、この仕事をしているとそういうことは度々起こる。

ハイフネートされることでこれらの言葉は違う意味を持つのか、あるいは単に筆者の表記が揺れているだけなのか。表記揺れの場合にはそのことを指摘する必要があった。このメディアは用語の統一にとても厳しい。でも一つの名詞がハイフネートされるか否かで違う意味を持つということはそもそもあり得るのかな。少し考えたけど例が浮かばない。あるいは分野によってはそういうこともあるのかもしれないけど、この分野の専門家ではないからやっぱりまだ判断がつかない。とりあえず辞書を引く。四つの辞書を引いて、四つとも見出し語は“biodegradability”。これに倣うならハイフンなし。でも本当に?

ゲラから離れて本文データを開く。テキスト内で検索をかけて揺れの程度を確認する。“Biodegradability”または“biodegradable”が合わせて十二回、対して“bio-degradability”が四回。形容詞のほうは揺れていない。ゲラに戻ってもう一度頭から読み直す。シャープペンシルで出力紙に薄く跡を残しながら丁寧に読んでいく。新たに開発されたbiodegradable plasticの性質と、それに期待できる地球環境や人体への負荷低減効果について。読み進め、読み終わる。文脈を考えても、ハイフンの有無が用語の定義に影響しているとは読み取れない。そのような説明もされていない。多出に揃えるならハイフンなし。でも本当に? 

編集部から送られている参考資料を確認しても答えが出ない。さらに調べてみるしかない。記事のテーマから思いつく限りの言葉を組み合わせてインターネットで検索し、それらしい論文を見つけ次第一つずつ確認する。Biodegradability、biodegradability、biodegradability……bio-degradability。あった。アブストラクトに目を通してから問題の単語の前後を注意深く読む。よく活性化された脳は今度はすぐに気づく。これが引用元だ。すると話が変わってくる。引用されたテキスト内の誤字脱字や表記揺れは指摘の対象から外される。引用元がハイフネートされているなら揺れていようがママでいい。でもそれ以前の問題としてゲラには出典の記載もなければ引用箇所の明示もない。これはどういうつもりだろう。編集部は把握してるのか。こちらで判断できる範囲を超えていると判断する。作業の手を止めて担当編集者に確認のメールを送る。かくかくしかじか。今夜中に返信があるか怪しい。作業着手の瞬間から開始させていたストップウォッチの計測を止める。2:00:07.41。

あー疲れた。

思ったことがそのまま口に出る。脳の内側にみっしりと詰め込まれている文字情報を上書きしようとするみたいに、ここぞとばかりに声が溢れる。「目、やばい」「あ、腰もやばい」「お風呂入ろうかな……」「……でも時間ないね」。この一年で独り言がひどくなった。一人だけで仕事をして一人だけで暮らしているとそういう変化は避けられない。そのうち部屋の外でも独り言が止まらない人間になるんじゃないかと考えて、時々怖くなることがある。人の目は怖いけど、人の目が怖くなくなったときの自分について考えるのはもっと怖い。

シャワーだけ浴びます。

壁に向かって宣言する。はい、と誰かが返事する。


目の周りを覆っているものを外してください。

たぶんiOSをアップデートしたからだと思うけど、いつの間にかiPhoneがそんなことを言うようになっていた。あるときロックを解除しようと顔を向けたらFace IDが反応しなくて、代わりに先の文句が画面に浮かんだ。

なんだこれ。意味が分からなくて凝視するとiPhoneはかたかたと震えた。拒絶反応。

目の周りを覆っているものを外してください。

朝の八時で、駅のホームに居た。昨日はやけに気温が上がったのに、今朝は寒の戻りみたいで一段と冷えた。いまだにマスクをしているのは感染症や花粉を警戒しているからというよりも、単に防寒のためだった。早く暖かくなってほしい。暖かくなったらマスクを外す? いや、どうかな。たぶん外さないと思う。

眼鏡が曇っているせいだと気づく。眼鏡をかけていて、そのレンズが曇っているせいで、Face IDが顔面を認識せず、ロックが解除されない。考えてみれば冷たい外気とマスクと眼鏡の組み合わせは最悪だ。そういう不便さを忘れていたなと思う。高校生の頃からワンデータイプのコンタクトレンズを使い始めて、もう長いことオンのときはコンタクト
(続く)


前半:那智  Nachi

二〇二一年に「文芸サークル微熱」を立ち上げ、文学フリマにてBL小説の頒布を開始。
主な作品に「掌編 微熱」(2023)、「skin」(2022)、「intimacy」「Between Blue」「眠れない夜の彼ら」(2021)。
本業は校閲者。

後半:石田幸丸 ISHIDA Yukimaru

一九九〇年九月三〇日生まれ。三重県津市出身。早稲田大学政治経済学部卒業、東京大学大学院総合文化研究科(比較文学比較文化コース)修士課程修了。
二〇一六年より「文藝同人 習作派」として文学フリマに参加。
主な作品に「賓は運命のごとく扉を叩き」(2023)、「天使学」(2022)、「プロメモーリア、塵と炎について」(2021)、「夢の纜」(2019)。


その他の試し読み


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?