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夢切り絵【よくがんばったね】

見た夢を切り絵にしました、6枚目でございます。
切り絵をやっておられる方はたくさんいらっしゃいますが、ある日、インスタグラムやブログ等で、とある切り絵の作品を眺めておりましたら、「なぜ切り絵にするのですか?」というコメントを目にしました。
絵が完成すれば、それだけで十分といえるのに、その絵をなぜ切り絵にするのか、切り絵にする意味とは何なのか、といった純粋なご質問のようでございました。

切り絵にはプロの方もいらっしゃいますので、通とされる方々が、切り絵についてどのようにお考えなのかは、私には分かりかねますが、私もコメントをされた方と同じような気持ちを抱いております。

絵を描くことはとても楽しく、絵を描くだけで良いと私も思っております。
私の場合は、一見めんどくさいと思われるような細かい作業を、ただやりたいだけという理由で切り絵にすることを思いついたような気が致します。
私は、細かい作業がとても好きなのですが、絵に限らず、仕事などで何かをしている時に、もう少し作業を増やしたいと思うことが度々ございます。

お仕事では、他の人の迷惑になってしまうので、作業を増やすことはよくありませんが、そのままで十分完成しているのに、わざわざもう一工程難しい作業をいれるという楽しさを、趣味だからこそ、存分にやることが出来る嬉しさがございます。

絵を描いて、切って、切り終わる頃に、また絵を描き、切り終わると同時に、別の切り絵を始められるようにしているのですが、1枚の切り絵が完成するのに、約5日ほどを要しておりますので、ほぼ毎日のように見ている夢を、メモしている紙がだんだん増えて参りました。
このままでは嵩張り続けるメモを消費するために、一気に絵だけ描いてしまおうかなと思い直している今日この頃でございます。

皆さんにはどんなお話に見えるでしょうか。
題名は「よくがんばったね」です。

私は家の中におりました。
新築のような、モデルルームのような、綺麗なお家で、私の自宅ではございませんでした。
見慣れない家の中には、私以外誰もいませんが、どこからか殺気に貫かれ、悪寒が止まらなくなりました。

姿を見たわけではないのですが、通り魔に遭遇したかのような、感覚でございました。
突然の恐怖体験では、悲鳴どころか声も出せないとよく言われますが、私はまさにそのような人間でございます。
冷や汗というよりは脂汗のようだと感じながらも、自分の強い動悸を聞いていると、全身の感覚が徐々に無くなっていきました。

「誰かに追われている」
そんな気がして、血の気が引いた手足を震わせながら、一度机の下に隠れました。
物音を立てないように、息を潜めておりましたが、動悸が止まらず、鬼気迫る思いの中、ただただうずくまっておりました。
夢ながら現実のようで、手に汗握る感情を体がよく覚えております。

一瞬紳士服を着た男性の姿が目に映るも、ほぼ何の前触れもなく、突然ピカッと何かが光り、家全体に雷が落とされたようなショックと、私の体には、現実では感じたことのない一瞬の強い痛みがありました。

現実で雷に打たれた経験はござませんので、これが実際の痛みなのか、定かではありませんが、おそらく雷に打たれたのだろうということは、この痛みで理解しました。
ちょっとした疑似体験となりましたが、夢では、現実では生きていられないであろう出来事を経験することは、珍しくはなく、子供の頃はそんな夢を悪夢と感じていて、痛みと共に、布団を剥いで飛び起きることがございました。

大人になった今では、悪夢で終わってしまっていた映像の続きを見ることが出来るようになっていて、悪夢と思うことも無ければ、もう雷に打たれるくらいでは、目が覚めなくなっております。

現実でも、嫌なこともあれば、幸せなこともあり、途中で中断されることなく、時間は流れていて、夢も同じなのかもしれないと感じております。
途中で目が覚め、悪夢として片付けられていた夢も、その続きを見てみると、悪夢でもなんでもなくて、普通のお話だったなと思うことも多いように思います。
区切りの良いところで中断されることで、後味が良かったり、悪かったりという受け取り方が発生することも、自然なことでございますが、生きている限りは、時間が中断されることはなく、良い悪いという感情も一時的なもので、流動的な一本の水上を泳いでいるだけというのが、生きている本質なのかもしれません。

恐怖感や痛み、体の生理反応は、とても現実感がありましたが、どういう訳か無傷でございました。

敵がすぐそこまで来ているということを感じながら、すぐにこの場を逃げようと外に出ました。

家の外には、一瞬目に映った紳士服を着た男性が立っているのが見えました。
家を目掛けて、自在に雷を落とすことができるようです。
指パッチンの様子が見えたので、私は全力で走りました。

その紳士に見覚えはなく、なぜ私が追われているのかということは、一切不明でしたが、逃げなくてはと一心不乱に走っていると、大きくてふわふわのわんちゃんが、私のところに走ってきてくれました。

私はわんちゃんに乗ることができました。
盲導犬のような頼もしい大きなわんちゃんでした。
犬種に全く詳しくない私は、ゴールデンレトリーバーという名前くらいは知っている程度で、そんなイメージに見えました。

現実では、動物が怖いために、わんちゃんやねこちゃんがいても触れないのですが、夢だからこそなのか、自然にわんちゃんを触ることが出来て非常に嬉しい体験でございました。

私を乗せて走ってくれるわんちゃん、なんとも可愛らしい相棒となりました。
紳士服の男性は追ってくることはなく、わんちゃんと私はかなり遠くの街まで、やってきました。
頼りがいのある走りを見せていたわんちゃんでしたが、途中から立ち往生となりました。
ただでさえ遠くまで走ってきているのに、私を乗せているのですから、疲れて当然なのですが、もしかしてお腹が空いているのでは、と思い立ち、わんちゃんを休ませながら、ドッグフードを探しにいきました。

近くにあったコンビニ?に入りましたが、中は圧迫感がすごくあり、4畳半くらいだったように感じました。
奥に店員さんが一人いるのが見えましたが、真っ暗でかなり狭いスペースに、商品がぎゅぎゅうに押しこまれておりました。
コンビニというよりは、駅のホームなどにある売店のような小売り店のように見えましたが、商品の中にドッグフードはありませんでした。

他にお店はないだろうかと、疲れてしまったわんちゃんを抱えながら、ドッグフートを探すため、しばらく歩き続けました。
歩いても歩いても、スーパーなどのお店はありません。

何もない場所の前方に、駅が見えてきました。
駅名は見えませんでしたが、改札と若干の人通りが見えました。

駅にドッグフードはないだろうと思いながらも、佇みつつ、ふと下に目をやると、駅のすぐ横にちょこんとドッグフードが置いてありました。

「あった!!」と思いながらも、置いてあるものを食べさせて良いのかと熟考しているうちに、わんちゃんが食べたいそぶりを見せたので、あげることにしました。

誰の物かもわからないドッグフードではございましたが、勢いよく頬張るわんちゃんは、みるみる元気になりました。
お腹が空いていただけということに安堵し、改めて、ゆっくり腰を落ち着けると、この子が頑張ってくれたおかげで九死に一生を得たという実感が湧いてきて、助けてくれたお礼と、生き延びることができたことへの感謝をしました。
わんちゃんの頭をなでなでしているところで、目が覚めることとありました。

普段わんちゃんを触ることはない私なのですが、このわんちゃんには、いつか現実でも出会えたらいいなと思っております。

いつも自分のことで手一杯だと思っている私は、とてもペットなどは飼うことができないとよく思います。
子どもの頃は、家族内で、兄がカメを飼っておりました。
母は小動物が好きで、実家では犬を飼っていたそうです。
私も動物が嫌いなわけではないのですが、あまりふれあう機会が訪れずに大人になってしまって、触り方もお世話の仕方も何も分からないまま、人様のお家の犬や猫にどう接したらいいか、毎回戸惑ってしまうという状況でございます。

ペットは時に、家族であり、友達でもある存在となるのであれば、孤独を救ってくれるキーパーソンとなってくれるのかもしれませんが、私が感じるのは、孤独であればあるほど、自分のことで精一杯で、自分以外の人の世話をすることが難しいと感じる場合は、逆にペットに負担を強いてしまう結果になることがあるといけないので、ある程度恵まれた生活、充足な交友関係がある状態でなら、私もペットを飼ってみたいなと思っております。

話は変わるのですが、動物の絵を描くのが非常に苦手なので、今回犬の部分だけは、うーんと唸りながら描いておりました。
動物はリアル化するか、アニメ化するかという線引きが自分の中で曖昧でございまして、アニメ的な絵を描きたいのに、動物は上手にアニメ化できなかったり、要所要所がリアルで変になってしまったり、ちょっとした絵なのに、度々難所が訪れます。
いつになったら上手に動物が描けるようになるのか、やはり観察あるのみだと思っているので、毎日一緒に暮らしたら、きっとすぐに描けるようになるような気が致します。

また次も見て頂けましたら、幸いでございます。

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